「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ ここにあり 邪馬臺国!
-卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
(令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より
■ 火国の日向から神武は出て、筑紫から豊国を攻める
(鉄を求めて西から東へ、これが神武東征)
「松野連系図」という変わった系図がある。ここに呉王 夫差の子、公子忌が火国山門に来たという記録がある。
中国の歴史では、紀元前473年に越王勾践が呉王夫差を討っている。また、熊本県菊池市の七城地域の「弥生水田」からは、揚子江下流域を原産地とするジャポニカ種の籾が見つかっている。プラント・オパール分析の結果である。
籾の分析結果と文献の記録が一致するという事は、たぶん事実だと思われる。先ほどの安本氏の講演での話にあった殷の王の名前が、殷墟から出た甲骨文と司馬遷の『史記』の記録が合っていた事と同じでは無いかと私は信じて止まない。
日本だって、これだけの記録と考古学の科学的な結果が加わって全部合っているという事は、呉王 夫差の子が、実際の火国へ来ていると考えている。
『魏略』には、『魏志倭人伝』で削られた文句がある。それが、①の「自謂太伯之後」である。
この『魏略』で重要なのは、『後漢書』に楽浪郡より12,000里と書かれていたものが、帯方より女王國まで12,000餘里に変わる。これが間違いである。
平壌とソウルの位置は大違いであり、その差は、1,300里ある。したがって、『魏志倭人伝』にある部分里程を合計すると、10,700里にしかならない。1,300里足らないのは、『魏略』、『魏志倭人伝』とも間違っていただけである。元々、帯方から10,700里の距離だった。
呉の太伯というのは、紀氏でその子孫の国が卑弥呼の敵国の狗奴国で、菊池川流域菊鹿盆地を中心の国である。
②の「昔夏后少康之子」とあるのは、越王勾践の祖で、遠賀川流域にやって来て倭人となったのではないだろうか。我々の先祖は、ひょっとして揚子江下流域の越人だったという可能性がある。
「斷髮文身し、海に潜る。今倭人も亦文身して以って水害を避ける。」とある。この『魏略』に書かれている内容は、『魏氏倭人伝』にも書かれている。
宗像は、海人(海女)の発祥地である。文献に書かれている事と合っている。奈良県に海に潜る人達はいない。
菊池市在住の郷土史家の先生が、台(うてな)台地を長年調査して、かつて菊池川流域には「茂賀の浦」という大きな湖があり、その湖の水が引いていくとともに弥生遺跡が出現していったという図である。
神武天皇の父、鸕鷀草葺不合尊は、菊池・山鹿にいた。『日本書紀』に「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊西洲の宮に崩ず、因りて日向の吾平の山の上の陵に葬りまつる。」とあり、山鹿市の日向の近くに吾平山があり、吾平山陵がある。
そして、神武天皇の最初の后の名が、吾平津媛である。したがって、ここが神武天皇の出身地である。後の卑弥呼の時代にライバル国であった狗奴国の土地でもある。
神武東征に出発した日向は、宮崎県ではない。熊本県山鹿市に日向(ひむき)という字名の場所がある。その日向から筑紫へ出て、豊国へ向かう。
これが、神武東征の正体である。
114年11月に岡水門に至りとあるように神武は、筑紫・糸島辺りから豊国を狙ってきたのが、東征の本質である。筑紫からみれば豊国は東になる。
115年に長髄彦軍と交戦した時に負傷した兄の五瀬命が亡くなり、竈山に葬ったが、その竈山は、和歌山県ではない。大宰府の宝満山である。
その竈山の高千穂の宮で、三年間再軍備をしたので、神武は瀬戸内海を渡っていない。
菊池の吉田正一氏の講演の中で使用された「免田式土器の分布」の図である。その免田式土器の一部が筑紫へ流れて行っている。これは、神武が日向(菊池)から筑紫へ上って来た時の影響かなと薄々感じている。