「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 猿丸大夫は採銅所にいた!

※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 採銅使 柿本朝臣佐留

 平城京は、嘉穂郡桂川町にあった。その場所で、『万葉集』も作られたことを前提にして柿本佐留と柿本人麻呂の関係を見ていく。

柿本佐留と柿本人麻呂
続日本紀 元明天皇和銅元年
四月二十日 従四位下柿本朝臣佐留した。
五月十一日 はじめて和同開珎銀銭
     使用させた。
高津柿本神社
 島根県益田市高津町に鎮座する旧県社。
歌聖柿本人麿を祀る神社で、正式名称は柿本神社。
柿本人麿を祀る柿本神社は日本各地に存在するが、
その本社を主張している。鎮座地は丸山の東に張り
出した尾根筋の鴨山(高角山)山頂に位置する。
 晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、
和銅年間に「鴨山の磐根し()ける吾をかも知ら
にと妹が待ち
つつあらん

の辞世の歌を詠
んで益田川河口
(旧高津川河口)
の鴨島に没した。
和同開珎(銀銭)
柿本人麿像

 『続日本紀』の元明天皇和銅元年四月二十日に従四位下の柿本朝臣佐留が卒した。その後、五月十一日に和同開珎の銀銭を使用させたとある。

 柿本人麿は、岩見国に行っている。島根県益田市高津町に柿本人麿を祀る高津柿本神社がある。その地で柿本人麿は没したと辞世の句も残されている。

 柿本人麿が行った岩見国で有名なのが岩見銀山である。ということは、柿本人麿は岩見国に銀を採りに行ったのである。

 『万葉集』の中では、柿本人麿であるが、『続日本紀』では、柿本佐留である。この関係を疑いますか? 何処に疑問がありますか?

 やはり、柿本朝臣佐留と柿本朝臣人麻呂は同一人物であると言わざるを得ない。

 次に柿本朝臣人麻呂の岩見國の和歌をあげた。

柿本佐留と柿本人麻呂
 柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
 石見(いはみ)の海 (つの)浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ (かた)なしと ((ある)は云はく、礒なしと)  人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみべ)を指して 和多津(にきたつ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪の(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り()し妹を (一は云はく、()しきよし 妹し手本(たもと)を) 露霜の 置きてし来れば この道の 八十(やそ)(くま)ごとに (よろづ)たび かへり見すれど いや(とほ)に 里は(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ(しな)へて (しの)ふらむ 妹が(かど)見む (なび)けこの山
                (一三一)
柿本佐留と柿本人麻呂
  反 歌
 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香  (一三二)
 石見(いはみ)のや 高角(たかつの)(やま)の ()()より 我が振る袖を 妹見つらむか
 石見にある高い津野の山の木の間から、私の振る袖を愛しい妻は見ただろうか。
 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆  (一三三)
 小竹(ささ)の葉はみ山も()やに(さや)げども吾は妹()ふ別れ()ぬれば
 小竹の葉はこの山路にさらさらとそよいでいるが、揺れることなく私は愛しい妻を思っている。今、その妻に別れて来てしまったので。
和同開珎
 708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月発行されたことが続日本紀に記されている。
 銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。
 しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。
 古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。
 古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。
 ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。材料として前出の武蔵国秩父一帯の銅鉱山のもののみが使用された、と誤解されがちであるが、それ以外にも長門国の長登鉱山や周防国の銅山から産出された銅なども使用された。
 都に近い京都府加茂町(鋳銭司遺跡)や近江、河内などで製造されたとされるが、和同開珎鋳造の跡が発掘された長門鋳銭所跡が有名である。
 『続日本紀』には、周防国の鉱山の銅が長門国に送られ、貨幣鋳造に使われていた旨の記録が残る。
(ウィキペディア)

 和同開珎の銅銭には、「古和同」と「新和同」がある。和同開珎の古和同は和同開珎の初期のものとする説があり、古和同の成分はほぼ純銅である。これは、長登銅山の銅では無く、香春の銅である。
 和同開珎の古和同は香春の銅で、香春で作られた。採銅所で作られた。

 香春岳周辺の鋳銭所を『続日本紀』から追いかけた。

香春岳周辺の鋳銭所
鋳銭司(催鋳銭司)
  田川郡香春町採銅所
近江鋳銭所
  田川郡金田町
河内鋳銭司准寮
  田川郡香春町鏡山
山背愛宕郡鋳銭寮
  田川郡香春町柿下
登美銭司村
  京都郡苅田町
田原鋳銭司
  田川郡川崎町田原

767

761

726

710

708

708

山城國岡田山採銅所

山城国葛野郡鋳銭所
長門国からの遠賀川水系を利用した銅運送の便宜のため
地図「香春岳周辺の鋳銭所」

 鋳銭司、近江鋳銭所等は私たちの妄想ではありません。これらは銅が採れた場所で、銭を作った鋳銭所とか鋳銭司とかあった。『続日本紀』を解読した結果である。

 銅が足りない時は、長登銅山からここ豊前に銅が運ばれたと『続日本紀』に書かれている。皆さんは、勝手に長登銅山から奈良県の京に運ばれたと思っているが、違う。ここ豊前に運ばれている。
 そして、長登銅山の銅の質が悪いぞと東大寺司が文句を言っている。

現香春町採銅所
 旧鋳銭司地域史
持統8年 鋳銭司に拝す。 文武3年 鋳銭司設置。 和銅1年
 2月 催鋳銭司設置。 9月 山背国相楽郡岡田離宮行幸
 銭司
視察。 特に賀茂里、久仁里の二里に稲三十束を給う
和銅4年 山背国相楽郡に岡田駅を置く(都亭駅)。 和銅6年、
霊亀1年 甕原離宮行幸
天平8年3月、11年3月、12年3月 甕原離宮行幸
天平12年5月 右大臣橘諸兄の別業に幸す。
天平13年 恭仁京の造営。 天平14年2月 恭仁京から東北
 へ近江国甲賀郡に通ずる道を造成。
 8月、恭仁京と甕原宮をつなぐ大橋を建造。
貞観2年十月二十九日乙巳。山城國宇治郡地二十五町、左大臣正
 二位源朝臣信に賜う

貞観7年、勅、山城國相楽郡旧鋳銭司の地二十余町を以て、採銅
 の地
と為す。 貞観8年、源信は応天門の変の冤罪でこの地を
 返上。9年に返還。 但し、採銅之事は旧により之を行う
貞観11年、正式の採銅使を置く。 貞観12年の貞観永寶の発
 行にあたっては、周防國の鋳銭使と山城國葛野郡の鋳銭所が鋳
 銭
。宗像、欅谷、清水、堰、小社には近く葛野鋳銭所が奉納
 葛野鋳銭所には山城國葛野郡百姓地六段三百五十二歩を賜う。
元慶2年、山城國綴喜相楽両郡荒廃空閑等田地六十一町六段を
 和上皇の染殿宮に充て奉ず
。→この一部が、清和源氏九代目の
 鎮西八郎為朝の屋敷跡の辺り。
元慶四年十二月に清和上皇崩御。翌5年、山城國岡田銅使を停廃
 屋舎什器は國に付し、守護せしむ。

貞観永寶への香春の銅の寄与

大仏関係

鋳銭関係

 「鋳銭司」の記録がある。もっと大事なことは「採銅の地」である。その場所が山城國とあるが、香春の事である。

 『続日本紀』に「正式の採銅使を置く」と採銅使という役職が書かれている。その記事の前に「採銅之事は旧により」とあり、旧(=和銅)の時代にも採銅使がいたという事が書かれている。

 和銅元年に亡くなった人物は誰でしたか? 柿本佐留でしたね。

採銅使 柿本朝臣佐留
 『小倉百人一首』には猿丸大夫の作として、以下の和歌が採られている。
 おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき
 ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも
「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」
の表記で採られているが、これも作者名はない。また三十六歌仙の歌集『三十六人集』には、猿丸大夫の歌集であるという『猿丸集』なるものがあるが、残されているいくつかの系統の伝本を見ても、その内容は全て後人の手による雑纂古歌集であり、『猿丸集』にある歌が猿丸大夫が詠んだものであるかは疑わしいとされる。
 なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているが語句に異同があり、
 あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき
となっている(御所本三十六人集に拠る)。

 菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』の中にある歌は万葉仮名で「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」とある。

 この万葉仮名の「もみじ」は「黄葉」である。この歌と同様に『万葉集』の歌の「もみじ」は「黄葉」である。「紅葉」と書く「もみじ」は使われていない。
 「紅葉」の「もみじ」が使われるようになるのは、『古今和歌集』からである。この違いも大きい。

 こちら豊前の土地では、「黄葉」と「紅葉」とどちらの「もみじ」が多いですか? 「紅葉」が多いですか? コロニーによって、今は「紅葉」が多くなってしまいましたか。たぶん昔は、この土地の「もみじ」は「黄葉」だったハズである。

 こちらの土地では、「黄葉」と「紅葉」の両方の「もみじ」があるが、奈良・京都は「紅葉」の「もみじ」ばかりである。
 したがって、『万葉集』は、こちら豊前の土地で出来たと思われる。私の考えである。

 藤原定家は、何故、『古今和歌集』では「よみ人しらず」とある歌を『小倉百人一首』では、猿丸大夫の作としたのか? 
 藤原定家には。ひとつ大きな謎がある。

 現在、我々が見ている『万葉集』は菅原道真が編集した『新撰万葉集』だと思われる。その本の中に古(いにしえ)の万葉集があると書かれている。
 藤原定家は、歌論書で長歌短歌の説をだされているが、藤原定家は我々が現在見ている万葉集とは違う万葉集を見ていたらしい。

平安京の猿丸大夫墓 (方丈記)
 また麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。ときどき来りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時はこれを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、その齢ことのほかなれど、心をなぐさむることこれ同じ。或は茅花(つばな)をぬき、岩梨をとり、零余子(ぬかご)をもり、芹をつむ。或はすしわの田居(たい)にいたりて、落穂を拾ひて、穂組を作る。もしうららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、伏見の里、()(つか)()を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。(あゆ)みわづらひなく、こゝろ(とほ)くいたる時は、これより(みね)つゞき、炭山(すみやま)をこえ、笠取(かさとり)をすぎて、あるいは石間(いはま)(まう)で、あるいは石山(いしやま)(をが)む。もしはまた、粟津(あはづ)(はら)を分けつゝ、蝉歌(せみうた)(をきな)蝉丸(せみまる)生没年未詳。百人一首の「これやこの」の歌で知られるが、無名という琵琶の名器を持ち、巧みに奏したという](あと)がをとぶらひ、田上河(たなかみがは)をわたりて、(さる)(まろ)大夫(まうちぎみ)[生没年未詳。三十六歌仙の一人にして、百人一首に「おくやまに」の歌を残す]が(はか)をたづぬ。

 鴨長明が書いた『方丈記』の中に平安京(畿内)の猿丸大夫の墓に行ったという事が書かれている。その原文は、仮名で書かれていて「猿丸大夫」は「さるまろまうちぎみ」と書いてある。

 「まうちぎみ=公卿」というのが、五位以上の官職である。ひょっとして三位以上だったりする。だから、猿丸大夫は、太夫と言っているように高い官職の人物である。

村上佛山の漢詩
猿丸里有古碑里人相伝云大夫墓
歌仙遺碣拝寒雲 風藻千秋誰及君
鳴鹿聲中天欲暮 満山紅葉落紛紛
歌仙の遺碣寒雲に拝す  
風藻千秋誰か君に及ばん  
鳴鹿の聲中天暮れんと欲  
満山の紅葉落つること紛紛
元治元甲子秋(一八六四年)
村上佛山
猿丸大夫の墓(採銅所小字黒中)

 採銅所にある猿丸大夫の墓が、一番凄いと思うのは、村上仏山が間違いなく来ている事である。「猿丸里有古碑里人相伝云大夫墓 」という題の漢詩である。

 結構有名な人物が、わざわざ、採銅所にある猿丸大夫の墓を訪れている。これは貴重な事である。また、先ほど説明した新聞記事の中にあったように「採銅所の松井家が猿丸太夫千年祭を催された」というのも大事なことである。

 『万葉集』の中の柿本人麻呂が、香春の周辺で倭歌を詠んでいるかがお解りになったでしょ。だから、採銅所にある猿丸太夫の墓は、本物である。

 まとめ  (表紙)のページに戻る