「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 猿丸大夫は採銅所にいた!

猿丸大夫の墓(香春町採銅所)
令和二年霜月七日
香春町郷土史会
記紀万葉研究家
     福永晋三
猿丸大夫は採銅所にいた!

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 猿丸大夫とは何者か

猿丸大夫とは何者か
猿丸大夫(さるまるのたいふ)(または、さるまるだゆう)とは、
 三十六歌仙の一人。生没年不明。
 「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位
 得ている者の称。
来歴
 元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれ、実在を疑う向きもある。
 しかし『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には六歌仙のひとりである大友黒主について、
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の(つぎて)なり
と述べていることから、すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたものと見られる。
「猿丸大夫」という名について六国史等の公的史料に登場しないことから、本名ではないとする考えが古くからある。
 さらにその出自についても、山背大兄王の子聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、また民間伝承では二荒山神社の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とする説など諸説ある。

*.『古今和歌集』は、平安時代前期(延喜5年(905年))の勅撰和歌集。

*.六歌仙は、『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人。

*.六国史(りっこくし)は、『日本書紀』、『続日本紀』、『続日本後紀』等の6つの正史。

猿丸大夫とは何者か
『古今和歌集』真名序
 然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間。有山辺赤人者、並和歌仙也。其余業和歌者、綿々不絶。
 然れども、なほ先師柿本の大夫という者あり、高く神妙の思ひを振りて古今の間に独歩せり。山辺の赤人といふ者あり、ともに和歌の仙なり。その余の和歌を業とする者、綿々として絶えず。
 大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。
 大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の花の前に息めるがごとし。 

 『古今和歌集』真名序の中に「柿本大夫」と「猿丸大夫」が出て来て、「六歌仙のひとりである大友黒主の歌が
 古の猿丸大夫の次(つぎて)なり。」とあるから、大友黒主より前の時代の人物だということになる。
  この『古今和歌集』真名序にある柿本大夫は、柿本人麻呂である。

 柿本猨(佐留)と柿本人麻呂  ・・・ この関係は根強い

・柿本猨と柿本人麻呂
  『古事記』孝昭天皇、『日本書紀』天武天皇十年(681)、『日本書紀』天武天皇十三年(684)
・柿本佐留と柿本人麻呂
  『続日本紀』元明天皇和銅元年
  『新撰姓氏録』敏達天皇代に柿本の名

 万葉集の柿本人麻呂歌  ・・・ 柿本人麻呂が柿本猨と同一人物かを確かめる

・柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首のひとつ(304番)
・柿本朝臣人麻呂が歌集の歌(3253番、3254番)
・近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌(29番、30番31番)、(264番、266番)
・壬申年之亂平定以後歌二首のひとつ(4261番)と天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(235番)
・吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌(36番、37番)

 万葉集成立と柿本人麻呂  ・・・ 『古今和歌集』仮名序に正三位柿本人麿、真名序に先師柿本大夫、
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇古猿丸大夫がでてくる

・『古今和歌集』仮名序 作者:紀貫之
・『古今和歌集』真名序 作者:紀淑望
・『日本書紀』顕宗天皇 曲水(きょくすい)の宴

 採銅所の猿丸大夫  ・・・ 来迎寺に安置されている十一面観音の木像の台座裏面の記録にある「聖徳太子
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇の末」のあるが、聖徳太子ではなく阿毎多利思比孤である

・採銅所の猿丸大夫(1996年6月28日 讀賣新聞)
・倭国本朝と倭国東朝、隋書俀国伝(抄録)
  阿毎多利思比孤と豊御食炊屋姫天皇、皇極天皇紀の倭国本朝と倭国東朝の京師
  白村江の戦い、御笠団と遠賀団、白村江戦戦後処理
・日本書紀の成立(福永説)
  京師(=桂川町)への噴石の落下、長岡京遷都

 採銅使  柿本朝臣佐留  ・・・ 柿本佐留と柿本人麻呂は同一人物である

・柿本佐留と柿本人麻呂
  『続日本紀』元明天皇和銅元年、高津柿本神社(島根県益田市高津町)
・和同開珎
・香春岳周辺の鋳銭所、現香春町採銅所 旧鋳銭司地域史
・採銅使 柿本朝臣佐留
・平安京の猿丸大夫墓(方丈記)、村上佛山の漢詩

 まとめ

 採銅所の猿丸大夫は、採銅使 柿本朝臣人麻呂だと言い切った。

採銅所の猿丸大夫=
採銅使 柿本朝臣人麻呂
① 柿本人麻呂は水沼の皇都(久留米市朝妻)
 倭王武に仕え、曲水の宴(四八五~四八七)に
 参加した正三位」の宮廷歌人であったよう
 だ。
② 柿本人麻呂は世襲の名であろう。  
  七世紀初めの「日出処天子」の末裔であるか
 は定かでないが、倭国本朝の宮廷歌人でもあっ
 たようだ。
  万葉集に関わったか。
③ 壬申の大乱後、天武天皇(筑紫君薩野馬)
 召し出され、柿本朝臣となる(六八四年)。
④ 和銅元年(七〇八)四月二十日 従四位下
 採銅使柿本朝臣佐留(何代目かの人麻呂)
 した。
⑤ 平安時代に、人麿猿丸に貶められたよう
 だ。理由は不明。

 長年、通説でも猿丸と人麻呂は同一人物であろうと当てずっぽうで言ってきたが、わたしはハッキリと言った。何代目かの人麻呂であって、それはそのまま猿丸太夫である。

 『万葉集』によく出てくる柿本朝臣人麻呂と柿本朝臣佐留は、同一人物である。絶対に同一人物である。『万葉集』を辿る経歴と『日本書紀』天武紀・『続日本紀』に出てくる柿本猿(佐留)はどう考えても人麻呂と同一人物である。

 私の仮説の中で重要なことは、『日本書紀』は壬申の乱に勝利した天武天皇が豊国の歴史を書き換えたと言っている。
 ところが、近畿の平安京に遷った天皇家は豊君(天智天皇を祖とする天智系の王朝)になって、天武天皇の勅命により出来上がった歴史書を天智天皇側から見た歴史書に書き直した(修正した)という可能性がある。

 柿本人麻呂は、天武系の王朝に仕えた人物であったから、猿丸に貶められたのではないか? 我々現在見ている『万葉集』を編集した菅原道真は、この柿本人麻呂の名誉を取り戻した人物であったかも知れない。
 その道真は、藤原氏の手によって、どうなったかはご存知の通りである。

 道真は『万葉集』を書き上げたが為、九州の古い天皇家の歴史を露わにしたが故に、元は身分の低い藤原氏が自分たちの過去を暴かれたくなくて、道真を大宰府に左遷した。九州に流された。

 柿本佐留と柿本人麻呂の関係性は、もうお解りでしょう。
 だから平安時代は、九州の天武系の王家の記録、あるいは、歌集を半ば抹殺しようとした。だが、道真は『万葉集』を編集した時に柿本人麻呂が復活した。
 したがって、今日我々は『万葉集』の中で柿本人麻呂をあちこちに目にすることが出来る。けれども六国史である『日本書紀』、『続日本紀』の中では柿本朝臣佐留しか登場しない。

 柿本朝臣佐留が、柿本人麻呂と同じ岩見國で身罷ったとすると亡骸は岩見國にあるのかも知れない。しかし、柿本佐留も柿本人麻呂も採銅使であったとすれば、また、松井家の伝承でも猿丸太夫は採銅使とあるように採銅所にある猿丸太夫の墓は人麻呂の墓である。

 採銅所にある猿丸太夫の墓が、日本で一番確かな人麻呂の墓である。だから、この講演の題名が「猿丸大夫は採銅所にいた!」である。
 香春町は、採銅所にある猿丸太夫の墓を柿本人麻呂の墓であると大宣伝をしなければいけない。他の猿丸太夫の墓は、伝承が伝わっていっただけである。

 私の今回の新説で、柿本人麻呂が採銅所に来たのは割と新しい。最初は、筑紫の人だったかも知れない。和同開珎との関係、採銅使という役職、採銅所という名前があるのは、ここ香春町だけである。
 だから、絶対にここ採銅所にある猿丸太夫(柿本人麻呂)の墓は本物である。亡骸の有無は別である。由緒の上から言えば、採銅所にある猿丸太夫の墓が一番正しい。
 他の場所にある猿丸太夫の墓も伝承で亡骸が埋められているかは、定かではない。岩見國(高津柿本神社)の方の何処かに亡骸は埋められているのかも知れない。

 『万葉集』、『日本書紀』、『続日本紀』のすべてを総合すると採銅所の猿丸太夫の墓が、由緒として最も正しい墓である。
 採銅所の猿丸太夫の墓は、私が皆さんに今までにちょこちょこ言い続けた何代目かの柿本人麻呂の墓に至る訳である。採銅所の猿丸太夫の墓が、柿本人麻呂の墓であることを今日、明かした。これが日本で初めての講演である。