「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 猿丸大夫は採銅所にいた!

※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 『万葉集』成立と柿本人麻呂

 『古今和歌集』に正三位柿本人麿、先師柿本大夫、古猿丸大夫とあり、何か関りが!

万葉集成立と柿本人麻呂
 いにしへの世々の帝 春の花のあした 秋の月の夜ごとに さぶらふ人々をめして 事につけつつ歌をたてまつらしめたまふ
 いにしへよりかく伝はるうちにも 奈良の御時よりぞ広まりにける かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ かの御時に 正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける これは君も人も身をあはせたりといふなるべし
 秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば 帝の御目に錦と見たまひ 春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける
 また山の辺赤人といふ人ありけり 歌にあやしく妙なりけり 人麿は赤人が上に立たむことかたく 赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける この人々をおきて またすぐれたる人も くれ竹の世々に聞こえ 片糸のよりよりに絶えずぞありける これよりさきの歌を集めてなむ 万葉集と名づけられたりける

 『万葉集』の成立と柿本人麻呂とどのように関わっているのか? 『古今和歌集』仮名序で確認する。

 『古今和歌集』仮名序の中に「正三位柿本人麿」と出てくる。そして、「これよりさきの歌を集めてなむ 万葉集と名づけられたりける 」と書かれている。

 その中に「奈良の御時」とあるが、奈良(県)の歌ではない。「奈良」と書いていても奈良県ではなく福岡県の「奈良」である。
 田川にも「奈良」という地名はある。私がいつも言っているように『万葉集』も福岡県で出来たのである。

 それから『古今和歌集』仮名序を書いた作者は、紀貫之(紀氏)である。前ページで説明した倭五王の王朝は、紀武内が建てた王朝である。
 したがって、紀氏の王権である。『万葉集』は一番最初に紀氏王権が集め出したという可能性がある。

万葉集成立と柿本人麻呂
 古天子、毎良辰美景、詔侍臣預宴筵者献和歌。君臣之情、由斯可見、賢愚之性、於是相分。所以隋民之欲、択士之才也。
 古の天子、良辰美景ごとに、侍臣の宴筵に預る者に詔して和歌を献らしむ。君臣の情、これによりて見つべく、賢愚の性、ここにおきて相分る。民の欲ひに隋ひて、士の才を択ぶ所以なり。
 然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間。有山辺赤人者、並和歌仙也、其余業和歌者、綿々不絶。
 然れども、なほ先師柿本の大夫といふ者あり、高く神妙の思ひを振りて古今の間に独歩せり。山辺の赤人といふ者あり、ともに和歌の仙なり。その余の和歌を業とする者、綿々として絶えず。
 大友黒主之歌、猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。

 『古今和歌集』真名序の作者は、紀淑望である。ここに「先師柿本の大夫といふ者あり」。また、「古猿丸大夫」も出てくる。
 『万葉集』の成立に関わってきている。

 次に「良辰美景ごとに、侍臣の宴筵に預る者に詔して和歌を献らしむ」というので思い出すのが「曲水(きょくすい)の宴」である。

万葉集成立と柿本人麻呂
(元年485)三月三日、御苑(ぎょえん)にお出ましになって、曲水(きょくすい)の宴を行われた。
 二年春三月上巳の日、(みその)にお出ましになり、曲水(きょくすい)の宴を催された。このとき、公卿(まえつきみ)大夫(だいぶ)(おみ)(むらじ)国造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)を集めて、大宴会をされた。群臣(ぐんしん)らは、盛んに喜びを申し上げた。
(三年487)三月三日、(みその)にお出ましになり、曲水(きょくすい)の宴を催された。
           〇〇〇〇〇〇〇〇(日本書紀 顕宗天皇)
倭王武の曲水宴跡か。氏。
真名序は紀淑望
仮名序は紀貫之が書いた。
絵「曲水(きょくすい)の宴」

 「曲水(きょくすい)の宴」については、『日本書紀』顕宗天皇紀に記事がある。その二年春三月に催された曲水(きょくすい)の宴に大夫(だいぶ)も参加されている。

 柿本大夫である。西暦486年に一番古い柿本人麻呂(=柿本大夫)がこの曲水(きょくすい)の宴に参加していたのではないか。

 倭王武(紀氏王権)の曲水宴跡というのが、久留米市朝妻から出土した。『古今和歌集』真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が書いた。紀氏である。

 最も古いと思われる曲水宴跡を九州大学によって、駐車場にされた。遺跡として保存してくれない。この西暦480年代の曲水宴跡が出土されたら困るからでしょう。
 これにより『古今和歌集』真名序、仮名序の意味も決して解らないようにした。

 柿本人麻呂、柿本大夫がかなり古い時代にいた。5世紀の終わりにはいたのではないかという考えが解ってもらえたでしょうか。

 曲水宴跡の遺跡があり、『古今和歌集』真名序、仮名序に書かれていることは嘘ではない。作者は紀氏である。かつて久留米には紀氏王権があり、倭五王がいた。

 採銅所の猿丸大夫  に続く ・・・ 来迎寺に安置されている十一面観音の木像の台座裏面の記録にある「聖徳
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇太子の末」のあるが、聖徳太子ではなく阿毎多利思比孤である