「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 猿丸大夫は採銅所にいた!

※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 採銅所の猿丸大夫

 平成8年(1996年)6月28日の讀賣新聞の記事である。

採銅所の猿丸大夫
 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき
猿丸太夫
 小倉百人一首の第五番目の歌である。採銅所郵便局からほぼ東方へ徒歩約十分の小字黒中(くろじゅう)の椎の木の森に作者猿丸太夫の墓とされる五輪の塔がある。
 太夫は、平安時代の歌人として三十六歌仙の一人にも数えられているが、その伝記は明らかではない。江戸時代の節用集では、「聖徳太子の孫で、弓削(ゆげの)(おう)のこと」とされている。
 「なぜ、京都から遠い採銅所に」と疑問のわくところだが、考えられているところでは聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、政敵の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)に攻められて一族とともに自害した。山背大兄王の子、猿丸太夫だけはこの地へ逃れたというもの。
 猿丸太夫の墓は高さ約四十センチの五輪塔で、椎の大樹の林の中にぽつんと建つ。山林中には塔一基があるだけで、道もなく参詣者もほとんどない様子である。
採銅所の猿丸大夫
 太夫の墓所から百㍍ほど東北に太夫の子孫とされる旧家松井家の墓地がある。その松井家(現在、直系子孫は大阪在住)に伝わっていた十一面観音の木像が、現在は来迎寺の本堂に安置してあり、像の台座裏面に次の意味の記録がある。
聖徳太子の末 猿丸太夫の末 松井諏訪守の末 猿丸太夫より松井正元まで五十二代 正元の長子松井半兵衛 元禄元年戊辰(一六八八)正月二十一日」
 これは、松井家が猿丸太夫の子孫であると述べているものだが、猿丸太夫の伝説は畿内や長野、山形、その他にもあり、同じ名の人物が各地にいたという解釈も行われている。
 松井家傍系の採銅所、水上優子さん(旧姓松井)宅には一八〇七年(文化四)に猿丸太夫千年祭が催された折の短冊八校が残る。その二句を上げるとー。
陰しのぶ千年やふるき椎の下
             成政
踏み分けし跡を深山の落ち葉かな
             玄川
(一九九六年六月二八日 讀賣新聞)

 この新聞記事の中の十一面観音の木像の台座裏面の記録に「聖徳太子の末」とあるが、私の説をお聞きになっている方は、「聖徳太子はいなかった」という事に納得頂けますか? 

飛鳥時代の倭国首都圏地図
 法興元(591)年~白鳳元(661)年
 天物部氏(遠賀団)筑紫側に就く
倭国地図(倭国本朝、倭国東朝)

 聖徳太子のモデルは誰だったかお解りでしょうか? 倭国本朝(天武系)と倭国東朝(天智系)の2つ王朝が福岡県にあったというのが私の考えである。

隋書俀国伝(抄録)
 明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
 明くる年(大業四年六〇八)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。
 百済へ渡り、竹島に至る。南に聃羅国を望み、はるかな大海の中にある都斯麻國を経て、また東の一支國へ至る。また竹斯國へ至り、また東の秦王国に至る。
 その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
 また十余国を経て海岸に到達する竹斯國以東はみなに付属している
『隋書』俀国伝

 『隋書』俀国(たいこく)伝に書かれているように隋の裴世清が竹斯(筑紫)國にやって来た。それから東の秦王国へ行った。その秦王国は、豊国である。

阿毎多利思比孤豊御食炊屋姫天皇の崩御

法隆寺金堂 釈迦三尊像・光背銘
綾塚古墳

法隆寺金堂 釈迦三尊像 光背銘
西暦622年、阿毎多利思比孤崩御。

綾塚古墳(推定:推古天皇陵) 
西暦628年、推古天皇崩御。
「科長大陵」に遷る。

 竹斯國=倭国本朝の王が、阿毎多利思比孤である。「日出処天子」といったその人であり、聖徳太子ではない。聖徳太子は、平安時代以降に作られた人物であり、架空の人物である。
 本物の「日出処天子」は、阿毎多利思比孤である。現在の法隆寺金堂にある釈迦三尊像の真ん中の仏像にその姿が写されていると思われる。
 釈迦三尊の光背銘には、「法興元」という消しようのない金文(元号)が残されている。阿毎多利思比孤が、倭国本朝の天子(天皇)である。阿輩雞彌=阿毎雞彌(あまきみ)=天皇である。

 倭国東朝(豊国)側の天皇は、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)である。その陵は、みやこ町にある綾塚古墳だと解っている。

 推古天皇の崩御は西暦628年で、阿毎多利思比孤の崩御は西暦622年と少しズレがある。裴世清は、阿毎多利思比孤と推古天皇の両方の天子(天皇)に会っている。

 考古学の先生方はこの隋書を嫌がる。裴世清が派遣された倭国の場所がハッキリと「竹斯國」と書かれている。その竹斯國の東の秦王国は、豊前だとなる。
 絶対に九州に王朝があったと言いたくないのである。ましてや福岡県にね。

皇極天皇紀の倭国本朝倭国東朝の京師

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倭国東朝 (近つ)飛鳥板葺宮

大宰府条坊復元図
福原長者原官衙遺跡

Ⓒ福原長者原官衙遺跡

 倭国本朝、倭国東朝の京師跡もある。倭国本朝は大宰府である。これは我が国で最初の条坊制の京師跡であり、地方の役所跡ではない。

 倭国東朝の皇極天皇の京師跡もあった。福原長者原遺跡が、飛鳥板葺宮である。この場所で、蘇我入鹿が暗殺されたと夢物語の様な事を言っているが、だぶん現実である。

白村江の戦い

天智二年663)秋八月壬午朔戊申(二十七日)倭国本朝白村江に敗戦
 筑紫君薩野馬、唐の捕虜のまま敗戦を知る。

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地図「白村江の戦い」
絵図「白村江の戦い」

 白村江の戦いの前、西暦660年の百済の役で既に筑紫君薩野馬は唐軍の捕虜になっているので、白村江では戦っていない。

御笠団遠賀団

仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走
(旧唐書)

倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船 (三国史記)

千艘-四百艘=六百艘

御笠団印

遠賀団印

Ⓒ東京国立博物館

銅印〈印文「御笠団印」)
銅印〈印文「遠賀団印」)

 白村江の戦いには、大宰府から出土した銅印の2つの軍団、御笠団と遠賀団が出かけて行ったが、唐軍と戦ったのは御笠団の400艘で焼かれて沈んだ。
 倭船は、1000艘出かけて行ってたが、謎の600艘が残っている。

 この600艘が、遠賀団だと思われる。天智天皇に就いてたのか、白村江で戦いが始まっても戦うなと言われていたかもしれない。
 600艘は戦わずして帰って来たから天智天皇側の軍隊は残り、倭国本朝側の軍隊はゼロとなり、天智天皇は軍事力で圧倒的に優位に立った。これで天智天皇がナンバーワンになったというのが私の説である。

白村江戦戦後処理

九月廿日至于筑紫

⑦ 天智四年(六六五 → 六六四)

廿二日進表函焉 冬十月己亥朔己酉
(十一日)、大きに菟道(香春古宮ヶ鼻)
に閲す(閲兵する)

※ 唐の羈縻政策 ①
 筑紫都督府を置く。大宰府占領さる。

※ 唐の羈縻政策 ②
 倭国東朝に主権を授く。

都督府址
阿曾隈社(香春町古宮ヶ鼻)

 白村江戦の後、唐軍がやって来て、大宰府は占領された。その後に、天智天皇に会いに香春町の古宮ヶ鼻にやって来る。白村江の戦いで敗れたハズの唐軍の兵士を天智天皇がここで閲兵をする。「大きに菟道に閲す」と日本書紀に書かれている。

 戦争で敗れた側の天皇が閲兵は出来ない。勝った側の唐軍の兵士を閲兵するという事は世界史上ありえない。という事は、天智天皇は戦っていない。唐と密約をしていた。
 唐より倭国のナンバーワンを倭国を治めるようにいわれた。天智天皇が閲兵をした菟道の場所が、古宮ヶ鼻だと思っている。福永説である。奇想天外な事ばかり言っている。

 『日本書紀』を正しく捉え直す。

日本書紀の成立(福永説)
 壬申の大乱は豊君の天智天皇筑紫君薩野馬すなわち後の天武天皇との直接の戦いであったとした。
 天智天皇は玄界灘に入水し天武が勝利した。
 勝者天武天皇(=筑紫君薩夜麻)が、修史を企図する。その編修方針こそ「削偽定実」であった。
 分析の結果は、「豊国の神々と天皇の歴史を削り、筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」ことと判明した。
 なお、古事記藤原京(福原長者原遺跡第二期遺構)の周辺で編まれ、日本書紀平城京(嘉穂郡桂川町)の周辺で編まれたようだ。
 本講演は、古事記豊国の歴史)の時系列を縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国豊国)を横糸にして編み直した、福永独自の古代史観(鷹羽の神々から武・卑弥呼・日本武尊・神功皇后までの歴史)を述べるものである。

 『日本書紀』が編まれた平城京は、嘉穂郡桂川町にあったという証拠がある。

京師(=桂川町)への噴石の落下

噴石の落下は宝亀2年(771)の鶴見火山伽藍岳の噴火による。

・宝亀二年五月二十三日、豊後國速見郡教見郷、山崩れ潤填し、水為に流れず
 十餘日を積みて、忽ち決し百姓七人を漂没す埋めらるる家四十三区あり。
 其の調庸を免じ、之に賑給を加ふ
・宝亀二年十一月、辛亥(29)、星有り西南に隕つその声雷の如し
・宝亀三年六月、戊辰(19)、往々京師に隕石あり其の大きさ柚の実の如し
 数日にして止む。
・宝亀三年六月十二月、己未(13)、星隕ること雨の如し
・宝亀四年五月、辛丑(27)、星有りて南北に隕つる各一つ其の大きさ盆(瓦)
 の如し

・宝亀七年(776)二月、是夜、流星有り其の大きさ盆の如し
・宝亀七年九月、是月、毎夜、瓦石及び塊自ら内堅の曹司及び京中往々屋上に
 落つ
明けて之を視れば、其の物あり。二十餘日を経て乃ち止む。

 奈良県では起こりえない事が『続日本紀』に書かれているから、平城京は桂川町にあったと言っている。

長岡京遷都
 延暦三年(七八四)に九州の平城京から近畿の長岡京に遷都した。
 延暦十年九月十六日甲戌、越前、丹波、但馬、播磨、美作、備前、阿波伊予等の國に仰せて、平城宮の諸門を壊して運び、以て長岡宮に移し作らしむ。 (続日本紀)
地図「平城京から長岡京へ遷都」

 長岡京の遷都によって初めて福岡にあった王朝の京が近畿に遷った。『続日本紀』に平城宮の諸門を壊して運び、以て長岡宮に移した時に阿波、伊予の國に仰せとあるのか? 瀬戸内海を通して運ぶ必要があったからということだと書いている。

 採銅使 柿本朝臣佐留  に続く ・・・ 柿本佐留と柿本人麻呂は同一人物である