「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
(令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より
採銅所の猿丸大夫
平成8年(1996年)6月28日の讀賣新聞の記事である。
この新聞記事の中の十一面観音の木像の台座裏面の記録に「聖徳太子の末」とあるが、私の説をお聞きになっている方は、「聖徳太子はいなかった」という事に納得頂けますか?
聖徳太子のモデルは誰だったかお解りでしょうか? 倭国本朝(天武系)と倭国東朝(天智系)の2つ王朝が福岡県にあったというのが私の考えである。
『隋書』俀国(たいこく)伝に書かれているように隋の裴世清が竹斯(筑紫)國にやって来た。それから東の秦王国へ行った。その秦王国は、豊国である。
竹斯國=倭国本朝の王が、阿毎多利思比孤である。「日出処天子」といったその人であり、聖徳太子ではない。聖徳太子は、平安時代以降に作られた人物であり、架空の人物である。
本物の「日出処天子」は、阿毎多利思比孤である。現在の法隆寺金堂にある釈迦三尊像の真ん中の仏像にその姿が写されていると思われる。
釈迦三尊の光背銘には、「法興元」という消しようのない金文(元号)が残されている。阿毎多利思比孤が、倭国本朝の天子(天皇)である。阿輩雞彌=阿毎雞彌(あまきみ)=天皇である。
倭国東朝(豊国)側の天皇は、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)である。その陵は、みやこ町にある綾塚古墳だと解っている。
推古天皇の崩御は西暦628年で、阿毎多利思比孤の崩御は西暦622年と少しズレがある。裴世清は、阿毎多利思比孤と推古天皇の両方の天子(天皇)に会っている。
考古学の先生方はこの隋書を嫌がる。裴世清が派遣された倭国の場所がハッキリと「竹斯國」と書かれている。その竹斯國の東の秦王国は、豊前だとなる。
絶対に九州に王朝があったと言いたくないのである。ましてや福岡県にね。
倭国本朝、倭国東朝の京師跡もある。倭国本朝は大宰府である。これは我が国で最初の条坊制の京師跡であり、地方の役所跡ではない。
倭国東朝の皇極天皇の京師跡もあった。福原長者原遺跡が、飛鳥板葺宮である。この場所で、蘇我入鹿が暗殺されたと夢物語の様な事を言っているが、だぶん現実である。
白村江の戦いの前、西暦660年の百済の役で既に筑紫君薩野馬は唐軍の捕虜になっているので、白村江では戦っていない。
御笠団と遠賀団
仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走
(旧唐書)
倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船 (三国史記)
※ 千艘-四百艘=六百艘
御笠団印
遠賀団印
Ⓒ東京国立博物館
白村江の戦いには、大宰府から出土した銅印の2つの軍団、御笠団と遠賀団が出かけて行ったが、唐軍と戦ったのは御笠団の400艘で焼かれて沈んだ。
倭船は、1000艘出かけて行ってたが、謎の600艘が残っている。
この600艘が、遠賀団だと思われる。天智天皇に就いてたのか、白村江で戦いが始まっても戦うなと言われていたかもしれない。
600艘は戦わずして帰って来たから天智天皇側の軍隊は残り、倭国本朝側の軍隊はゼロとなり、天智天皇は軍事力で圧倒的に優位に立った。これで天智天皇がナンバーワンになったというのが私の説である。
白村江戦の後、唐軍がやって来て、大宰府は占領された。その後に、天智天皇に会いに香春町の古宮ヶ鼻にやって来る。白村江の戦いで敗れたハズの唐軍の兵士を天智天皇がここで閲兵をする。「大きに菟道に閲す」と日本書紀に書かれている。
戦争で敗れた側の天皇が閲兵は出来ない。勝った側の唐軍の兵士を閲兵するという事は世界史上ありえない。という事は、天智天皇は戦っていない。唐と密約をしていた。
唐より倭国のナンバーワンを倭国を治めるようにいわれた。天智天皇が閲兵をした菟道の場所が、古宮ヶ鼻だと思っている。福永説である。奇想天外な事ばかり言っている。
『日本書紀』を正しく捉え直す。
『日本書紀』が編まれた平城京は、嘉穂郡桂川町にあったという証拠がある。
京師(=桂川町)への噴石の落下
噴石の落下は宝亀2年(771)の鶴見火山伽藍岳の噴火による。
・宝亀二年五月二十三日、豊後國速見郡教見郷、山崩れ潤填し、水為に流れず。
十餘日を積みて、忽ち決し、百姓七人を漂没す。埋めらるる家四十三区あり。
其の調庸を免じ、之に賑給を加ふ。
・宝亀二年十一月、辛亥(29)、星有り、西南に隕つ。その声雷の如し。
・宝亀三年六月、戊辰(19)、往々京師に隕石あり。其の大きさ柚の実の如し。
数日にして止む。
・宝亀三年六月十二月、己未(13)、星隕ること雨の如し。
・宝亀四年五月、辛丑(27)、星有りて南北に隕つる各一つ。其の大きさ盆(瓦)
の如し。
・宝亀七年(776)二月、是夜、流星有り。其の大きさ盆の如し。
・宝亀七年九月、是月、毎夜、瓦石及び塊自ら内堅の曹司及び京中往々屋上に
落つ。明けて之を視れば、其の物あり。二十餘日を経て乃ち止む。
奈良県では起こりえない事が『続日本紀』に書かれているから、平城京は桂川町にあったと言っている。
長岡京の遷都によって初めて福岡にあった王朝の京が近畿に遷った。『続日本紀』に平城宮の諸門を壊して運び、以て長岡宮に移した時に阿波、伊予の國に仰せとあるのか? 瀬戸内海を通して運ぶ必要があったからということだと書いている。
▶ 採銅使 柿本朝臣佐留 に続く ・・・ 柿本佐留と柿本人麻呂は同一人物である