「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 猿丸大夫は採銅所にいた!

※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 柿本猨(佐留)と柿本人麻呂

 ※ この関係は根強い。

柿本猨と柿本人麻呂
 兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。
(古事記 孝昭天皇)
 十一月丙申朔丁酉、地震。十二月乙丑朔甲戌、小錦下河邊臣子首遣筑紫、饗新羅客忠平。癸巳、田中臣鍛師・柿本臣猨・田部連國忍・高向臣麻呂・粟田臣眞人・物部連麻呂・中臣連大嶋・曾禰連韓犬・書直智德、幷壹拾人授小錦下位
(日本書紀 天武天皇十年681)
 十一月戊申朔、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穗積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・輕部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・來目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波彌臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣
(日本書紀 天武天皇十三年684)

 六国史の一番目の『日本書紀』天武天皇十年の記事に柿本臣猨が出てくる。猿丸太夫の事である。その柿本臣猨が小錦下の位に就いたと書かれている。

 『日本書紀』天武天皇十三年の記事には、柿本臣となっているが、天武天皇十年の記事の柿本臣猨であろう。その時に朝臣という姓を賜ったと書かれている。但し、人麻呂ではなく、猨である。
 『万葉集』にはよく出てくる柿本人麻呂は、六国史である『日本書紀』にも『続日本紀』にも一度も登場しない。ところが、柿本猨は『万葉集』に出てこない。猿丸太夫が出てこない。
 冒頭に説明した『古今和歌集』真名序には、柿本大夫(人麻呂)と猿丸大夫の両方とも出ていた。柿本人麻呂が、六国史に一度も出てこないというのは厳密な事実である、

 柿本人麻呂と猿丸太夫(柿本猨)は、同一人物かという事が昔から言われてきていて、そのような事がいっぱい書かれている。
 それを立証していく。そして、採銅所の猿丸太夫の墓が何を意味するのかという結論にいく。

柿本佐留と柿本人麻呂
四月二十日 従四位下柿本朝臣佐留
     した。
五月十一日 はじめて和同開珎銀銭
     使用させた。
(続日本紀 元明天皇和銅元年)
柿下佐留とも書かれている。
※《新撰姓氏録》には敏達天皇代(五七二~
 五八五)に家門に柿の木のあったことから
 柿本の名がおこったと記されている。
 渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也、母曰石姬皇后。石姬皇后、武小廣國押盾天皇女也。天皇、不信佛法而愛文史。廿九年、立爲皇太子。卅二年四月、天國排開廣庭天皇崩。
 元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是月、宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣

 六国史の二番目の『続日本紀』元明天皇和銅元年の記事に従四位下の柿本朝臣佐留とある。ここに出てくる柿本朝臣佐留佐留は、勿論、『日本書紀』天武天皇の記事にあった柿本朝臣猨である。

 ここでは、柿本朝臣佐留と万葉仮名「さる」と書かれている。その柿本朝臣佐留が卒したとある。その亡くなった時に「卒する(しゅっする)」が使われており、もと四位・五位の人である。

 その後、「五月十一日 はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。」という記事が重要になってくる。

 『続日本紀』の版本によっては、柿下佐留に「柿下(かきのもと)」の字が使われている。香春町には柿下温泉がある。
 柿下という地名がある香春町で猿丸太夫の墓を見せられて以来、20数年、柿本猨(佐留)はこの地にいたと思っていた。

 『新撰姓氏録』の中に敏達天皇代にの「柿本」の名がおこったと記されたいるので『日本書紀』敏達天皇の記事を示した。

天皇家と蘇我氏の歴史
敏達天皇(五七二~五八五)
 由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市
 馬子は勅命に違わず、大事にしていた尼等を呼び出し、御室にさずけた。
 役人が尼等の法衣を奪い、絡め捕え、海石榴市の駅舎で鞭打った。
 杖刑に処したのである。
 この海石榴市が行橋市の「椿市廃寺」の辺りであることは間違いあるまい。
 この直後に天皇と守屋は疱瘡(天然痘)に罹る。疱瘡は国中に広がり、人民は「是、仏像焼きまつる罪か」と謂う。
 その年の八月に敏達は病が重くなり崩御。

 『日本書紀』敏達天皇の記事にある「尼等を海石榴市の駅舎で鞭打った」、その海石榴市の場所は行橋市の「椿市廃寺」の辺りで間違いない。

 『新撰姓氏録』に記されている事が史実であれば、敏達天皇の代に柿本家がおこり、柿本家は行橋市の「椿市廃寺」の辺りに居た事になる。

 その場所を地図で示す。柿本家が奈良県にあったのではなく、やはり豊前の土地にいた。

地図「行橋市の北西部」

 椿市廃寺
(四天王寺)

 五社八幡
(難波高津宮)

高山

琵琶隈

 万葉集の柿本人麻呂歌  に続く ・・・ 柿本人麻呂が柿本猨と同一人物かを確かめる