「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 猿丸大夫は採銅所にいた!

※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
 (令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より

 万葉集の柿本人麻呂歌

※『万葉集』によく登場する柿本人麻呂が、柿本猨と同一人物かを確認していく。

柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首(304番)

万葉集の柿本人麻呂歌
 柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首
 大王の 遠(賀)の朝庭と 蟻通ふ 嶋門を見れば 神代し念ほゆ (三〇四)
 大王(天皇)の遠賀の朝廷であるとして、人々が常に往来する岡の海の島門を見ると、この島々の生み出された神代の国土創成(伊弉諾尊の国生み)の頃のことが思われることである。
水巻町多賀山

於能碁呂島

豊前坊山

多賀山

立屋敷遺跡 柱痕跡
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿

「遠賀川式土器」

遠賀川式土器

 『日本書紀』天武天皇13年に柿本猨が朝臣になったが、『万葉集』の柿本人麿も同じく朝臣である。この朝臣という役職を考えても同一人物の可能性が高い。

 万葉集304番は、通説では「遠の朝庭」といわれるが(賀)の字を補って、現在もある遠賀町の島門には、かつて島門駅があった。その地で柿本人麻呂は歌を詠んでいる。

 人麻呂の時代には、まだ島門から岡の海(古遠賀湾)が見えていた。その海に於能碁呂(おのころ)島があった。その場所が水巻町の頃末である。近くには、立屋敷遺跡があり、遠賀川式土器も出土している。

 実際に柿本人麻呂は筑紫国に来ている。その時の歌である。本当は、豊国であるが。

万葉集の柿本人麻呂歌
 柿本朝臣人麻呂が歌集の歌に曰く
 葦原の水穂の國は 神ながら言挙せぬ國 しかれども言挙ぞ吾がする 言幸く真幸くませと 恙無く幸くいまさば 荒磯浪ありても見むと 百重浪千重浪しきに言挙す吾は (三二五三)
  反 歌
 しき島の 倭の國は 言霊の 助くる國ぞ ま幸くありこそ (三二五四)
 建武中元二年、倭奴国、奉賀朝貢す。使人自ら大夫を称す。倭国の南界を極むるや、光武賜ふに印綬を以ってす (後漢書倭伝)
古遠賀湾図

 次は、柿本朝臣人麻呂が歌集というのがある。この中にある3253番、3254番は柿本人麻呂が詠んだ歌では無いかも知れないが、重要な歌である。

 3253番、3254番の歌が詠まれた場所が上記の地図の所である。この地図は昭和38年に九州大学の助教授であった山崎光夫氏が遠賀川流域をボーリング調査をして古代の汽水域の跡からかつて広大な入り江があったことを示し、古遠賀湾と名付けた。

 歌で詠まれた「しき島の 倭の國」、「(豊)葦原の水穂の國」は、立屋敷遺跡から出土している遠賀川式土器と関係するように遠賀川流域が稲作発祥の地と云われているこの場所である。

 この歌に「しき島の 倭の國」と詠まれているから絶対に奈良県ではない。

万葉集の柿本人麻呂歌
 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘(ほほまのをか)に登りて、国の状を廻らし望みて曰く、「(あな)にや、国を獲つること。内木綿の真迮(まさ)き国と雖も、猶ほ蜻蛉(あきづ)臀阽(となめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて秋津洲の号有り。
 昔、伊奘諾尊、此の国を(なづ)けて曰く、「日本(やまと)は浦安の国、細戈(くわしほこ)千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)。」と。復た大己貴(おほなむち)大神、目けて曰く、「玉牆(たまがき)の内つ国。」と。饒速日命、天磐船に乗りて、太虚(おほぞら)翔行(かけ)めぐり、この(くに)()て天降るに及至りて、故、因りて目けて曰く、「虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)。」と。

             (神武天皇三十一年四月)
古遠賀湾図

 『日本書紀』神武紀三十有一年の記事にある「秋津洲」と号したのは、神武天皇ではなく、手研耳命大王と思われる。

 その記事に続く伊奘諾尊が名付けた「日本は浦安の国」、大己貴大神が名付けた「玉牆の内つ国」、饒速日命が名付けた「虚空見つ日本国」いずれも同じこの古遠賀湾沿岸の土地を指す。

 海が無い奈良県では絶対に無理がある。柿本人麻呂は万葉集304番歌で何処を詠んだのか? 人麻呂は古遠賀湾沿岸の土地にいた事になる。香春に近い所である。

・近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌(29、30、31番)

万葉集の柿本人麻呂歌
 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
 玉手次畝火の山の 橿原の日知の宮ゆ 阿礼座しし神の尽 樛の木の弥継ぎ嗣ぎに 天の下知らしめしける 虚見つ倭を置き 青丹よし平山越えて 何方を思ほしけめか 天離る夷には有れど 石走る淡海の国の 楽浪の大津の宮に 天の下知らしめしけむ 天皇の神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は此処と言へども 霞立ち春日か霧れる 夏草か繁くなりぬる 百磯城の大宮処見れば淋しも (二九)
  反 歌
 楽浪の 思賀の辛碕 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ (三〇)
 ささなみの 比良の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや (三一)

 この万葉集29番歌にも天武天皇紀にあった朝臣の役職が付いている。日本書紀では柿本朝臣猨であったのが、万葉集ではまた、柿本朝臣人麻呂になる。

 柿本人麻呂は、六国史である日本書紀、続日本紀には一回も出てこない。出てくるのは、柿本猨であるが、万葉集になれば、人麻呂ばかりである。
 それが、どちらも柿本朝臣である。

万葉集の柿本人麻呂歌
【解釈】
 玉手次畝火の山の橿原の日知(神武天皇)の宮以来、出現された皇神の尽ことごとくが、(樛つがの木の)いよいよ(日知の位を)継ぎ嗣ぎして、天の下をお治めになったところの、虚見つ倭(天満つ倭、古遠賀湾沿岸)をさしおき、青丹よし平山を越えて、何方をお思いになったのだろうか、天離る東方ではあるけれど、石走る淡海の国の、楽浪ささなみの大津の宮に、天の下をお治めになったという、(景行)天皇の皇神の尊の、大宮は此処と聞くけれども、大殿は此処と言うけれども、霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか、(実は涙でぼんやりとかすむ)百磯城の大宮処を見ると荒廃していることだ。
 反 歌(をさめ歌)
 楽浪の思賀の辛碕は、昔に変らずにあるけれど、ここを出たままの大宮人の船を再びここに待ちうけることはできない。
 ささなみの比良の大わだは水が淀んで(大宮人を待って)いても、昔の人に会おうと思うことであろうか。いやそんなことはない。
※ 神功皇后軍が忍熊王(日本武尊の孫)軍を滅ぼし、王を入水自殺に追い込んだ。(四世紀)

 万葉集29、30,31番は通説では、壬申の乱で大友皇子が大海人皇子の軍に敗れて、山崎で自殺をした時の歌だといわれている。

 ところが、大友皇子は、山崎(山の中)で首吊り自殺をした。この歌はあくまでも入水自殺である。

玉手次 畝火の山
香春岳

天香山

耳成山

畝尾山

古代の首飾り

 万葉集29番にある「玉手次畝火の山」が何処にある山か知っていた。古事記の一節「座香山之畝尾木本名泣澤女神」にある畝尾(うねび)山、つまり香春一ノ岳である。

 「玉手次」というのは、古代のネックレス(首飾り)の事である。昭和10年の香春一ノ岳の写真にマークを付けたような首飾りをしているように見えなかったでしょうか?

 柿本人麻呂は実際に「玉手次畝火の山(香春一ノ岳)」を見ている。間違いありません。奈良県の畝傍山は「玉手次畝火の山」というのは無理である。香春一ノ岳のような凹みが無い。また、木が茂っていて山肌が見えない。

 したがって、柿本人麻呂は限りなく香春にいた人である。

魏志倭人伝中の後漢代の記録
『魏志倭人伝』一部分
一二一辛酉年の春正月の庚辰
 朔に、天皇、橿原宮に於いて
 帝位に即きたまふ。

 即位
一三九 皇子神渟名川耳尊手研
 耳命大王
を弑し、王位を奪う。
太歳己卯
一四六~一八九 桓・霊の間、倭国大乱。
謝承・范曄後漢書)
豊国 対 火国
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
 卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇紀)
鶴岡八幡宮

 神武天皇が即位した所「畝傍山の東南の橿原の地」は何処か。

畝傍山の東南の橿原の地
鶴岡八幡宮

 香春の鶴岡八幡宮(橿原宮) 

 畝火の山(畝尾山)が香春一ノ岳であるならば、その東南の地といえば、鶴岡八幡宮としか思えなかった。

 この神社に植わっている木は何でしょうか? 橿(樫)の木である。日本書紀には、神武天皇は橿原宮で即位した書かれているが、宮司の鶴我さんがこの神社で出されている小冊子の名前が「樫山(かしやま)」である。
 だから本当は、「橿山(樫山)宮」だったかも知れませんよ! これは推測です。 日本書紀は、その場所が何処か解らないようにする為に「橿原宮」に書き換えたかも知れない。
 この話は、ここで2回目くらいに話している。鶴我宮司さん、えらい!

 この神社の所には、後の卑弥呼の時代に都怒我阿羅斯等が居たから鶴岡八幡宮というのかも知れません。都怒我阿羅斯等の子孫が鶴我宮司である。

夏草か繁くなりぬる
 (涙に霞む)百磯城の大宮処
御所ヶ谷神籠石

 「百磯城」というのは、沢山の石の城という意味である。この写真の場所は、御所ヶ谷神籠石である。かつて、ここに景行天皇が来られて都を置かれたから京(みやこ)という地名が起こったという謂れである。
 奈良県には、神籠石が一つもない。

 柿本人麻呂は、この写真の場所でぼんやりと水門跡を見て、万葉集29番を詠んでいる。通説の学者は琵琶湖で詠んだ歌だと言っているが、「百磯城の大宮処」が滋賀県の何処にあるのかと言いたい。

 万葉集29番の歴史的背景である。

万葉集の柿本人麻呂歌
※ 神功皇后軍が忍熊王の軍を殲滅し、忍熊王を入水自殺に
 追い込んだ
。(四世紀)
 是に、其の屍を探れども得ず。然して後に、日数て菟道(うぢ)河に出づ。武内宿禰、亦歌ひて曰く、
 淡海の海 齋多の(わたり)に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ
 忍熊王は「淡海の海齋多(せた)の濟」で入水自殺を遂げた。そこはである。王の死を確認し草薙の剣を入手するため、武内宿禰は屍を探索する。その屍は菟道河に上がった。
 菟道河はやはり人麻呂の歌から分かる。
 物乃部の 八十氏河の 網代木に いさよふ浪の 去辺(ゆくへ)知らずも  (二六四)
 天の物部二十五部の居住したところの八十氏河と言えば、古遠賀湾に注ぐ、現代の相当上流に当たる遠賀川の支流を指すようだ。例えば今日の香春町近辺が河口になるあたりか。そこは古代田河道、すなわち菟狭(宇佐)に至る古道の近く。齋多の濟が頴田町勢田(鹿毛馬神籠石の近く)と仮定すると、この淡海に沈んでも満潮時には逆流して氏河(金辺川)に押し戻されることも起こりうる。人麻呂はさらに次の歌も詠んでいる。
 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古念ほゆ  (二六六)

 「淡海の海」とあるから海である。万葉集153番には「鯨魚取り 淡海の海」とあるようにクジラが捕れる海であるから、琵琶湖である訳はない。

 万葉集29、30、31番と万葉集264、266番が一連の歌であったとすれば、高校の教科書でも壬申の乱を詠ったとされているが、柿本人麻呂は4世紀の神功皇后軍が忍熊王(日本武尊の孫)軍を滅ぼした時の歌として詠んでいる。
 忍熊王の死を痛んで詠んでいるという事は、柿本人麻呂は一体何時の時代の人物なのか? これが問題である。早ければ6世紀になる。
 「柿本佐留と柿本人麻呂」のページで説明した『新撰姓氏録』の中の敏達天皇代に家門に柿の木があったから柿本の名がおこったというのもあながち嘘ではない。
 柿本人麻呂は8世紀(7世紀終わりから8世紀初め)の歌人と言われ続けてきたが、もう少し前の時代に柿本人麻呂がいるというのが万葉集を読み続けてきた私の結果であった。
 一番新しい柿本人麻呂は天武紀の所に出てくる柿本朝臣猿(=柿本朝臣人麻呂)という事が解っている。朝臣と云うからには天武天皇の時に朝臣を頂いた柿本猿と限りなく同一の柿本人麻呂が存在する。
 だが、双少し前の時代にも柿本人麻呂がいるのではないかというのが、長年の疑問であった。

神功皇后の戦略と魏使の経路
「神功皇后の戦略と魏使の経路図」

 ※ このスライドの説明は省略しました。他の講演(神功皇后関係)のページを参照下さい。

・壬申年之亂平定以後歌二首(4261番)/天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(235番)

万葉集の柿本人麻呂歌
 壬申年之亂平定以後歌二首
 大王は 神にし座せば 水鳥の 多集(すだく)水沼を 皇都(みやこ)と成しつ
〇〇〇〇〇作者未詳(人麻呂か)
 (四二六一)
 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(二三五)
 紀氏王権の成立(松連系図 倭五王)
『松野連(倭五王)系図』
『宋史』日本伝(王年代紀)
『魏志倭人伝』一部分

 万葉集29番歌と同じ時代の歌である。題詞(だいし)には「壬申年之亂平定以後歌二首」となっていて、「作者未詳」となっているが、人麻呂かと書いた。

 柿本人麻呂の歌である235番歌に「皇者 神二四座者」と4261番歌と同じような歌い方である。「大王は 神にし座せば」という歌が万葉集の中に全部で8首ある。

 その中の6首が人麻呂の歌であるが、4260番と4261番は「作者未詳」である。歌い方から考えれば、この2首も人麻呂の歌ではないかと思われる。

 そうであるとした時に歌が何を詠っているかと言えば、「水鳥の集まる水沼を都と為した」という。新しい王国の新しい都を建設したという歌である。

 その都が建設された水沼の場所が何処かというと現在の久留米市である。かつては、三潴(みずま)郡といった。どう考えてもこの土地である。そこの伝承に「水沼君」がいたとあり、また、日本書意にも「水沼君」は書かれている。

 その水沼君とは何者かというとここに松野連系図で示しているように紀氏王権、讃・珍・済・興・武と呼ばれた倭五王の人達である。その系図の倭五王の讃の前が、縢(とう)である。

 次に『宋史』日本伝(王年代紀)の中の神功天皇(息長足姫天皇、太奈良姫大神)と同じ時代の所に大臣が書かれている。その名前が紀武内とある。

 この『宋史』日本伝(王年代紀)は、我が国の平安時代の東大寺に伝わった書物だという事が解っているが、我国ではなくなってしまったが、『宋史』という中国の正史の中に残っている。

 王年代紀であるにも関わらず大臣である紀武内が書かれているかを考えると神功天皇は豊国側の天皇で紀武内と倭五王は筑紫側の大王だという結論になった。

人麻呂は歴史を詠う
倭国地図(筑紫国と豊国)

 福岡県の東西に2つの王朝が出来た初めであった。豊国で神功天皇が忍熊王を滅ぼした頃、筑紫国では紀武内宿禰が倭五王に繋がる王朝を興していたという事に日本で初めに気が付いた。

 柿本人麻呂は、万葉集29番から豊国の事をしっている。また、万葉集4261番から筑紫国の事も知っている事になる。

 その万葉集4261番とペアになる4260番歌が「大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ」である。この歌が邪馬台国の歌ではないかという事を30年近く前に発表した。

 結局、久留米市の大善寺玉垂宮が、水沼君の都の跡だったという事に気付いた。

・吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌(36、37番)

万葉集の柿本人麻呂歌
 吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌
 やすみしし 我が大君(おおきみ)の 聞しめす (あめ)の下に 国はしも (さわ)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷(ふとしき)()せば ももしきの 大宮人は 船()めて 朝川渡り (ふな)(きほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高しらす 落ち(たぎ)つ 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも  (三六)
  反 歌
 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また(かえ)り見む (三七)
「道の駅やまくに」の案内板

吉野宮(中津市山国町吉野)

若宮神社

若宮神社

 万葉集36番、37番の「吉野の宮」というのも奈良県吉野だと思っているでしょうが違う。

 英彦山の南側、大分県中津市山国町に吉野宮がちゃんとある。山国川から数十段の石段で拝殿まで上がれるというトンデモナイ神社がある。これが私のいう本当の吉野宮である。

 壬申の乱の時に大海人皇子が遠賀湾沿岸にあった大津宮から2日で逃れ去った先の吉野宮である。歩いて2日で行ける距離である。

 滋賀県の大津から奈良県吉野までは、とても2日では歩いて行ける距離ではない。したがって、壬申の乱も豊国で起きたと言っている。

 この万葉集36番、37番は、持統天皇が吉野に行幸された時の歌だと書かれている。柿本人麻呂は、やはり豊国の人物である。

 万葉集成立と柿本人麻呂  に続く ・・・ 『古今和歌集』仮名序に正三位柿本人麿、真名序に先師柿本大夫、
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇古猿丸大夫がでてくる