「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より

(一) 教科書の古代史

 戦後史学の源流は、津田左右吉説の「神武~神功」は架空だというその『古事記及び日本書紀の研究』という新書版が未だに出ている。この本は、古代史を科学的に捉え、八代の天皇の実在に疑義を呈した不敬罪発禁本とある。
 「墨塗り教科書」や認められなかった「暫定国史教科書」の後、現在の教科書に至るまで、GHQの命令と津田左右吉説に基づいて書かれている。
 津田左右吉説のこの本の帯に「科学的に」と書かれているが、私に言わせば、実は非科学的である。神を語らないという事は、逆に非科学的である。

(一)教科書の古代史

 戦後史学の源流 津田左右吉説
神武 ~ 神功は架空 -  実は非科学的

毎日ワンズ「古事記及び日本書紀の研究」の帯

 

 次に高校の日本史の教科書を見てみる。教科書から削られた「神武~神功」という事で、全く出てこない。

(一)教科書の古代史

教科書から削られた「神武 ~ 神功」

《邪馬台国連合》
 中国大陸では220年に後漢が滅び,かわって魏(220~265)・呉(222~280)・蜀(221~263)が並び立つ三国時代を迎えた。
 その三国時代の歴史書『三国志』の「魏志」倭人伝によると,倭国では2世紀の終わり頃に大きな争乱がおこり,なかなかおさまらなかった。
 そこで諸国は共同して邪馬台国やまたい,やまとの女王卑弥呼を立てたところ,ようやく争乱はおさまり,ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。
 卑弥呼は239年,魏の皇帝に使いを送り,「親魏倭王」の称号と金印,さらに多数の銅鏡などをおくられた。
 卑弥呼は巫女として神の意志を聞くことにたけていたらしく,その呪術的権威を背景に政治をおこなったという。

 

(一)教科書の古代史

教科書から削られた「神武 ~ 神功」

《前期・中期の古墳》
 三角縁神獣鏡(邪馬台国が交渉した中国の三国時代の魏の鏡とする説と,中国から渡来した工人が日本でつくったものとする説とがある。)をはじめとする多量の銅鏡や腕輪形石製品,鉄製の武器や農工具など呪術的・宗教的色彩の強いものが多く,この時期の古墳の被葬者である各地の首長たちは司祭者的な性格をもっていたことをうかがわせる。
 中期になって,副葬品の中に鉄製武器・武具の占める割合が高くなるのは,馬具なども加わって被葬者の武人的性格が強まったことを示している。

※ 三角縁神獣鏡だけを取り上げ、後漢式鏡を取り上げない。  
 邪馬台国(大和王朝)近畿説への誘導

 卑弥呼に多数の銅鏡がおくられたとある次に、三角縁神獣鏡について、三国時代の魏の鏡とする説を先に書き、あたかも卑弥呼が魏からもらった鏡のように書いている。
 それに対する私の批判が、三角縁神獣鏡だけを取り上げ、(筑豊に多く出土している)後漢式鏡を取り上げないということが、邪馬台(「やまたい、やまと」というルビを入れて)国(大和王朝)近畿説への誘導ではないだろうか思える。個人的見解である。

 

(一)教科書の古代史

教科書から削られた「神武 ~ 神功」

《前期・中期の古墳》
 最大の規模をもつ古墳は,中期に造営された大阪府の大仙陵古墳仁徳天皇陵古墳)で,前方後円形の墳丘の長さが486mあり,2~3重の周濠をめぐらしている。
 さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢
が営まれた区域をも含めると,その墓域は80haにもお
よぶ。(その築造には,全盛時で1日当たり2000人が
動員されたとして,延べ680万人の人員と,15年8ヵ
月の期間が必要であったと計算されている。)
 第2位の規模をもつ大阪府の誉田御廟山古墳(応神
天皇
陵古墳)
などとともに,5世紀のヤマト政権の
の墓
と考えられる。

大仙陵古墳の上空写真

※ 「応神天皇以後の大和王朝近畿説」の強調

 大仙陵古墳をハッキリと(仁徳天皇陵古墳)と書き、第2位の規模の誉田御廟山古墳を(応神天皇陵古墳)と書いている。
卑弥呼の邪馬台国連合と合わせて、5世紀のヤマト政権の大王の墓と考えられるという事で、三角縁神獣鏡をセットにしていくと「応神天皇以後の大和王朝近畿説」が強調されていないかという個人的見解を持っている。

 

(一)教科書の古代史

教科書から削られた「神武 ~ 神功」

《東アジア諸国との交渉》
 さらに,朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場
を有利にするため,5世紀初めから約1世紀近くのあ
いだ,『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興・武と記され
倭の五王(『宋書』倭国伝に記されている倭の五王のう
ち,とその子であるについては『古事記』『日本書
紀』(「記紀」という)にみられる允恭とその子の安康雄略
の各天皇にあてることにほとんど異論はないが,には応神
仁徳履中天皇をあてる諸説があり,についても仁徳
反正天皇をあてる2説がある。)
があいついで中国の南
朝に朝貢している。

※ 「倭の五王近畿説」の強調

倭五王と天皇の系図

 『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興・武と記された倭の五王についても日本書紀と宋書の系図を並べて、「倭の五王近畿説」も強調しているとしか思えない。
 これが、令和も続く「墨塗り教科書」の影響下にあると私は思われる。