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「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より
(三) 魏志倭人伝は誤字だらけ
教科書や考古学の世界で、魏志倭人伝はよく取り上げられる。しかし、その魏志倭人伝は誤字だらけだと言っている。
まず、魏志倭人伝の本文批判(テキスト‐クリティーク(原典復元))である。三国志を書いた陳寿は、後漢書を見ている。
魏の国の魏志、呉の国の呉志、蜀の国の蜀志と三国の史書があるから三国志という。その呉志の中に「呉主権謝夫人伝」があり、孫権の第一夫人に承という弟がいて、後漢書百餘巻を撰録したと書かれている。
これは、陳寿自身が書いた三国志の一部の記事であるから、明らかに陳寿は、謝承後漢書を知っている。陳寿が書いた三国志より前に出来た後漢書がある。
後の時代に『三国志』斐松之注が出来るが、呉書の周瑜傳の中の割注の中にも「謝承後漢書」という文句がハッキリと書かれている。
※ 上記の影印は『百納本二十四史』即ち宋紹煕刊本の一部
唐の時代に范曄後漢書李賢注が出来る。この後漢書が今、我々が目にしている後漢書である。そこの割注にもやはり「謝承書」という文句が書かれている。
范曄後漢書の7世紀の李賢(章懐太子)に編集されている。中国の正史は、王朝が替わる度に編集が繰り返され続ける。この点は、大事なことである。
したがって、魏志倭人伝も編集し続けるその間に誤植を起こしていく。部分部分、間違った字に変わっていくという認識が、通説の先生方にはちょっと欠けていたのではないかという見解である。
翰苑の中に魏牧魏後漢書、范曄後漢書、名前が無い後漢書の3種類の後漢書が区別されている。また、翰苑の倭国伝の本文「憑山負海鎭馬臺以建都」の注に「後漢書曰」と名無しの後漢書が出てくる。その後に魏志倭人伝の「魏志曰」もある。
大宰府天満宮に世界で唯1冊残された『翰苑』東夷伝から出てくる内容でこれは書誌学である。
「邪馬壹國こそなかった」という事についてである。戦後、九州王朝論というのが盛んに行われた時期があって、その人たちが中国の南宋本『三国志』は、すべて邪馬壹國と書いているから邪馬臺(台)國なんか無かったと唱えた。
私は、それに対してもう一度、中国の原典に帰ってみようと抜き出していった。唐の時代の史書には、「臺」の字が書かれている。
唐の時代までは、「邪馬壹」などという版本は無い。全部、「邪馬臺」である。
唐の時代には、唐詩と呼ばれる近体詩の中に七言絶句平起式、七言律詩仄起式などがある。その李白の「早發白帝城」という詩である。
詩の中に「一」、先ほどの邪馬壹國の「壹」も同じで「イチ」と発音する。
中国語には4つのトーンがあり、その四声を二分して、○で表す平(平声:ひょうしょう)と●で表す仄(上声:じょうしょう・去声:きょしょう・入声:にっしょう)になる。これを平仄法という。
唐の詩人たちは、短い詩の中で平(平声)と仄(上声・去声・入声)をどのように配置すれば、美しく響くかという事を追求した。
詩には法則がある。二四不同は、2字目と4字目は〇(平)と●(仄)が入れ替わる。七言詩の場合は、二六対で2字目と6字目は同じトーンである。これらの約束事がある。
詩の中にある「一」は、●(仄)である。
杜甫が、「登高」という詩を読んでいる。高校の教科書にも出てくるような有名な詩である。この詩の中に「臺」がある。
ここでは、押韻しているので◎となっているが、〇(平)である。
「臺」は〇(平)で、「一」は●(仄)であり、トーンが違う。
『范曄後漢書』李賢注というのは、唐の皇族 李賢がメインとなりブレーンを従えて、范曄後漢書に注を付けた本である。 唐時代の人達であるから唐詩を読むことや唐詩の約束事を知っている。
李賢とブレーンたちは、「臺」が〇(平)で、「一」が●(仄)であることを知っている。その彼らが、我々が今読んでいる魏志倭人伝の「邪馬壹国」という表記を見てそのまままで済ませるかという問題である。
「邪馬壹國こそなかった」についての纏めである。「邪馬臺國」と范曄後漢書李賢注にある正にその李賢とそのブレーンが付けた注に「案今名邪摩惟」とある。「邪馬壹」でもなければ、「邪馬臺」でもない。
「惟(イ)」と言って、それを「音之訛也」と注を付けている。それを漢和辞典で追いかける。
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勿論、中国語の世界である。「臺」は、呉音「ダイ」、漢音「タイ」、押韻の目次(インデックス)が「灰(カイ)」。 平声(ひょうしょう)「灰」の韻である。
注にあった「惟」は、呉音「ユイ」、漢音「ヰ」とあるがたぶん間違いでユ行であるから「イ」を書くべきでしょう。平声「支」の韻である。
「壹」は、呉音「イチ」、漢音「イツ」、入声(にっしょう)「質」の韻である。唐の時代には、英語の「イッツ」と同じように末尾が「-t」で終わる音があったという表れである。
「壹」は●仄。「惟」と「臺」は○平であるが、韻が違う。インデックスを調べていると、「台」の字が、平声「支」の韻であった。
唐の時代には、「邪馬臺國」の「臺」の字にすでに我々が今使っている俗字の「台」の字が使われていた。その「台」の字の発音は、本来中国語で「イ」である。
だから、李賢達は、「邪馬台」という字を見ている。
唐代には古い「臺」の字の「邪馬臺國」と「台」という俗字の「邪馬台國」があったが、「邪馬壹國」は未だ出現していなかったことがわかる。
これが、私がこだわってきた魏志倭人伝は誤字だらけ!という事について、唐詩という中国の文学の華と言われる李白や杜甫を生み出した唐の時代の漢詩から割り出した「邪馬臺國」と「邪馬壹國」の違いである。
唐の時代には、絶対に「邪馬臺」か「邪馬台」であった。これが、文字の異動に関する問題である。
ここの注に「後漢書曰」とあるこれは、謝承後漢書のようである。ここには、「樂浪郡儌,去其國万二千里」とあるが、魏志倭人伝には、「帯方から」と書かれている。
次に注は、「魏志曰」とあるが、(略)されており、その前にある後漢書に書かれている内容と大差なかったと思われる。
この翰苑再読は、注に「魏略曰」とある。ここで、「從帶方至倭」と後漢書にあった楽浪が、帯方に変わっている。
魏志倭人伝とは違って、「對馬國」とあり「對海國」とは書かれていない。「一大國」ではなく、「一支國 」と書かれている。
このように原文を追いかけていくと違いが見えてくる。魏志倭人伝だけでは、ダメである。
ここの「卑彌娥」とあるのは、卑弥呼の事である。注に「後漢書曰」とあるが、「倭面上國王師升」と書かれており、范曄後漢書と違う文句である。
この後漢書に「倭國大乱」も「卑弥呼」も「臺與」も出てくる。「臺與」はやはり「トヨ」である。教科書が「邪馬台国」を「やまと国」と読ませていた事はだけは評価する。この「臺與」も「トヨ」である。「タイヨ」とは言わない。ここでは、このような事が読み取れる。
この「魏略」の①と②の部分の記事についての見解が
①呉の太伯は「姫氏」で夫差の祖。狗奴国は、菊池川流域菊鹿盆地
②夏后少康之子は越王勾践の祖。倭人(倭国)は遠賀川流域
である。あくまでも個人的見解である。
魏志倭人伝が誤字というのはちょっと違うが、魏略にある①の6文字「自謂太伯之後」を魏志倭人伝は、削除している。これも実は、大変なことである。
何故、三国志(魏志倭人伝)より前に書かれた魏略と異なるのか? ここに大きなイデオロギーの違いが見える。
三国時代は、魏・呉・蜀という国が争った。その中でも魏と呉は、どちらが勝つかわからないというという間柄であった。
この魏略にある「太伯」というのは、春秋時代の呉の国の記事であり、三国時代の魏の敵国である呉と同じ国名の記事が魏志からは、イデオロギーで外される。これが、大事な部分であった。
だから、魏氏倭人伝だけを読んでいると危ない。