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ま
と
「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より
(二) 邪馬台国近畿説しか言えない考古学
(考古額の問題ではない)
今日の私の収録より少し前に収録された全邪馬連(ぜんやまれん)会長の井上筑前氏のホームページより持ってきました。
近畿で「女王 卑弥呼の国を探る! 纏向(まくむく)遺跡」という講演会が開かれたようである。その講演会について、井上筑前氏が「畿内説の幻想 こうあって欲しい、こうならいいなという、幻想講演会」という皮肉を書いている。
その井上筑前氏の言葉が、スライドの内容である。
私も井上筑前氏の「邪馬台国問題は、純粋に文献学上の問題なのだ。」という事に賛成する。私は、どちらかというと文献実証史学(文献史学)の立場である。
少し新しい時代の文献である隋書俀国伝に以下の通りある。
俀国は、百済・新羅の東南に在りと書かれているから、九州しかない。書かれている方角からみて奈良県を指しているとは、思えない。
私の考えは、その九州北部にあった倭国には、倭国本朝(筑紫側)と倭国東朝(豊国側)という2つの王朝があったと考えている。
隋書俀国伝の続きの文句の部分は、原文をもってきた。そこの記事は三国志の記録を持ってきており「邪靡堆(やまたい)に都す。魏志の謂う所の邪馬臺なる者也り」とある。
次は、その魏志に云う「邪馬臺」という国に文林郎の裴世清という人物を派遣したという記事である。
隋書俀国伝の記事を追いかけると裴世清は、竹斯國に来ている。そこから、東の秦王国へ行っている。ここに出てくる竹斯國というのは、明らかに福岡県の西部、福岡市中心で良かろう。筑前側である。
東の秦王国というのが、私が言う倭国東朝であり、筑紫の東側に当る。
竹斯國に至るまでの途中に都斯麻國、次に一支國が出てくる。12世紀の南宋時代に出来た版本の魏志倭人伝には、一大國と書かれているが、唐時代に出来た隋書俀国伝には、まだ、一支國とハッキリ書かれている。
都斯麻國は漢字の仮借、つまり漢字の音だけで倭語で表している。「都(つ)斯(し)麻(ま)」と書かれている。この都(つ)は、大事である。後に出てくる伊都國問題に絡んでいる。唐時代においてもまだ、「都」という漢字は「つ」という読みに用いられている。
筑紫年号に「法興」という年号を書いているが、写真に載せた拓本の「法興元丗一年」と刻まれた年号である。その拓本は、奈良県の法隆寺金堂にある釈迦三尊像の裏側に彫られている金文である。
この筑紫年号「法興」の時にやって来た裴世清が、竹斯國で会ったのが、釈迦三尊像の真ん中の仏様 阿毎多利思比孤、後に「日出處 天子」と名乗った人物と思われる。
裴世清が、次に東の秦王国(倭国東朝=豊国)に行って会ったのが豊御食炊屋姫天皇、則ち推古天皇であるという事が解っている。
裴世清は、筑紫側では男王、豊国側では女帝に会っているから間違いなく阿毎多利思比孤と豊御食炊屋姫天皇とは、別人という事になる。それぞれ亡くなった年も違っている。
皇極天皇紀の時代に倭国本朝と倭国東朝にそれぞれの京師があった。倭国本朝は、大宰府にわが国初の条坊制を備えた京師であった。大宰府は、地方都市(地方の役所)ではない。倭国本朝の首都である。
倭国東朝の京師は、行橋市にある福原長者原遺跡のⅠ期遺構跡に(近つ)飛鳥板葺宮があったというのが、私の説である。まだ、奈良県側に京師は遷っていない。
663年に白村江の戦いが起こる。
教科書にある白村江の戦いの地図に、倭軍が滋賀の大津宮から出かけているが、✕印を入れている。倭軍は、北部九州から出かけていった軍隊である。
東京国立博物館にマイナーな遺物である「御笠団印」、「遠賀団印」という銅印が保管されている。この2つの銅印は、大宰府の条坊制の北西部の場所がら出土している。
御笠団 と 遠賀団
仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走
(旧唐書)
倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船
(三国史記)
※ 千艘-四百艘=六百艘
御笠団印
遠賀団印
©東京国立博物館
663年、白村江の戦いに出かけ行った倭軍は、「御笠団、「遠賀団」という2つの軍団で、合わせて倭船千艘で行ったようである。
ところが、白村江で実際に戦ったのは、唐軍に焚かれた四百艘でこれが「御笠団」である。残りの六百艘は何をしていたのか?
というとこれが、「遠賀団」で戦わずに何もしなかったようである。これが、次の白村江戦戦後処理になる。
白村江戦戦後処理で、唐の軍隊がやって来て敗戦した倭国本朝は、唐の羈縻政策で筑紫都督府が置かれ、大宰府は占領される。
ところが、倭国東朝には、唐の天子の国書が届いている。「九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。」の記事の通りである。
白村江戦戦後処理
⑥ 天智四年(665 → 664)
秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。
大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・百済佐平禰軍等百余人、到二対馬島一。
※ 唐の羈縻政策①
筑紫都督府を置く。大宰府占領さる。
⑦ 天智四年(665 → 664)
等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』( 禰軍 六七八年没)
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(前略)去る顯慶五年(六六〇)、官軍の本藩を平らぐる日、機を見て變を識り、劔を杖つき歸を知るは、由余の戎を出づるがごとく、 金磾の漢に入るがごとし。
聖上嘉歎し、擢んづるに榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
唐の天子の国書に相対したのが、天智天皇である。664年に「大きに菟道に閲す」とあるように、閲兵するという謎の一句がある。
天智天皇は、白村江の戦いで敗れていない。敗れたのは、倭国本朝である。天智天皇は、白村江戦に勝ってはいないが、負けてもいない。唐と同盟を結んでいたようである。
この時に天智天皇が、倭国でナンバーワンの天皇となったようである。
日本書紀に665年に「大皇弟、冠位を増し換える」という記事があるが、これの私の自論が、大皇弟とある大海人皇子は筑紫君薩野馬であり、大宰府は唐軍に占領されたので、倭国東朝側の天智天皇の所にやって来て、かつての自分の家来たちに冠位を増し換えたというのがこの記事の正体ではないかと思う。
白村江戦戦後処理
⑨(天智)三年(664 → 665)
春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
(天智)十年
春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
(天智)※四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年(天智紀)
壬申の乱の前、670年に戸籍を作る。これが、庚午年籍である。更に国号を「日本」と更める。
日本国の建国 → 壬申の大乱
⑩ 天智天皇九年(670)春二月に、戸籍を造る。
※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。
倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
(三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)
⑪ 天智天皇十年(671)九月に、天皇寝疾不予したまふ。
冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇に見えて、吉野(山国町若宮八幡)に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈社)に至りて還る。
天智天皇が一時期、旧唐書の「日本は元は小国だったが、倭國の地を併せた」とある日本国の代表となるが、壬申の乱で勝利した天武天皇(=倭国の王だった筑紫君薩野馬)が逆転して、日本国の代表となっていく。
日本書紀に箸陵は2回でてくるが、その2回目が壬申の乱の時である。
古事記も日本書紀も豊国(福岡県)で編纂されているので、中国側の史書、魏志倭人伝と古事記・日本書紀の中身がどのように連動しているのかを解いていく。