「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より

(二) 邪馬台国近畿説しか言えない考古学

 「神武~神功の豊国」のタイトルで紹介する『宋史』日本國(王年代紀)であるが、この『宋史』は、元時代に書かれた正史である。
 ところが、その中の王年代紀は、平安時代の東大寺の僧、奝然が宋の皇帝に献上した書物が収録されたものである。
 ここに天御中主から始まる神の名前が記されている。

(二)邪馬台国近畿説しか
       言えない考古学
神代 ~ 神功の豊国
宋史 日本國(王年代紀)
 其年代紀所 記云、初主號 天御中主 。
次曰 天村雲尊 、其後皆以 尊爲 號。次
天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次
波尊
、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊
角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、次
常立尊
、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊
伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次
、次彦瀲尊、凡二十三世、並都 於筑紫日
向宮
 。
 彦瀲第四子號武天皇 自筑紫宮入居大和
州橿原宮 即位元年甲寅(前六六七)當周僖
(恵)王時也

※ ( )は福永の追記
※ 考古学は、神代も神武天皇も「宋史」日本國も
 語れない。

 ここに彦瀲尊までの二十三世が、筑紫の日向宮に都すると書かれているので、筑紫ということは九州を表している。だから天御中主 (中略) 伊弉諾尊、素戔烏尊、天照大神尊 (中略) 彦瀲尊までの神々は、現在の教科書では語ってはいけないと思われる。

 彦瀲尊の第四子である神武天皇は、筑紫の宮から大和州の橿原宮に入り居ますと書かれている。だから、この神武天皇の「大和州の橿原宮」の部分だけでも取り上げれば、近畿説は成り立つを思うが、何故か神武天皇も取り上げない。

 ここでの結論は、「考古学は、神代も神武天皇も「宋史」日本國伝も語れない」ということが、現在令和に至るまでの教科書の事実である。

 

 古事記には大物主という神が出てくる。その古事記の中で、大物主は別名が八千矛の神でもある。八千矛の神という名前から考えて、この神が引き連れてきた部族が、物部氏二十五部族だろうと常々言っている。
 大物主の「物」、物部氏の「物」というのが、最初の主人と家来の関係ではなかったのか? 八千矛の神とある8,000本の矛を一人で持つことは出来ないので、沢山の兵士たちが持っていたのであろう。

(二)邪馬台国近畿説しか
       言えない考古学
 大物主は別名「八千矛の神」でもある。
 この神が引き連れてきた部族こそおそら
物部氏二十五部族であろう。銅矛の出土
状況がそれを裏付ける。
(福永説)
銅剣・銅鉾・銅戈文化圏と銅鐸文化圏(県別分布)図

 そうである時にこの地図は、私たちの教科書にもよく載っていた弥生時代の銅矛文化圏と銅鐸文化圏の地図である。その銅矛が福岡県に最も多く出土している訳である。
 考古学の世界では、大物主を語れない以上、銅矛文化圏の意味付けが出来ないと思っている。奈良県から銅矛は、1本も出土していない。この地図の著者の井上光貞氏は、有名な「邪馬台国近畿説」の先生であるが、結果は奈良県は銅鐸文化圏である。

 

 次に取り上げる伊邪那岐命について、古事記を読んでいくと於能碁呂島が、福岡県の遠賀川流域の水巻町にあったと近年気が付いた。
 その近くに今は遠賀川の川底になってしまったが、立屋敷遺跡がある。この遺跡からは、高床式建物の柱痕跡が出土している。また、遠賀川式土器が出土している。

(二)邪馬台国近畿説しか
       言えない考古学
 是に天つ神、諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美
命、二柱の神に、「この多陀用弊流国を修理め固め成
せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。
 故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指
し下ろして画き
たまへば、々袁々に画き鳴し
て引き上げたまふ時、その矛のより垂り落つる塩、
累なり積もりて島と成りき。これ於能碁呂島なり。
(許呂末 → 頃末
 その島
に天降り
まして、
天の御柱
を見立て、
八尋殿
見立てた
まひき。
遠賀川越しに豊前坊山と多賀山を望む

於能碁呂島

多賀山

豊前坊山

立屋敷遺跡の柱痕跡

立屋敷遺跡 柱痕跡
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿

「遠賀川式土器」

遠賀川式土器

 古事記の「天の沼矛 ・・・ 塩許々袁々呂々に画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の末より垂り落つる塩、 ・・・ 於能碁呂島なり」とある記事の「許々袁々呂々」の「許呂」と「矛の末」の「末」という字を合わせると「許呂末(ころすえ)」となる。

 

 その「ころすえ(頃末)」という地名が、水巻町に今なおある。古遠賀湾の地図の中に〇印を付けた島の所である。現在のJR水巻駅の北に「頃末」とある。

(二)邪馬台国近畿説しか
       言えない考古学
 伊弉諾尊が「日本(やまと)は浦安の国細戈(くわしほこ)
千足(ちだ)る国
磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)
」と名
付けたとある。
(福永説)

遠賀町
公式ホームページ

直方市天神橋貝塚
マッコウクジラの
歯の装飾品

古遠賀湾

 日本書紀 神武天皇紀の終わりの方に伊弉諾尊が、かつて古遠賀湾がある自分の国について「日本(やまと)は浦安の国、細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国、・・・」と名付けたとある。
 その「細戈(くわしほこ)」というのは、この遠賀町のHPにあるいわゆる細形銅剣の事である。だから、古遠賀湾周辺では、細戈=細型銅剣がいっぱい出土している。

 また、伊弉諾尊の「いさな」というのは、古語でクジラの事である。マッコウクジラの歯の装飾品が、経文時代の貝塚である直方市天神橋貝塚から出土している。
 古遠賀湾には、クジラが泳いでいた可能性があると言える。「日本(やまと)は浦安の国」であるから、どう考えても神代に日本(やまと)は、奈良県には無かったようである。

 

 遠賀川流域から出土している遠賀川式土器は、北部九州で始まった稲作とともに、100年で青森県まで到達したという考古学上の地図である。
 ただ、遠賀川が佐賀県の位置に書かれているという非常に不思議な地図である。

古遠賀湾沿岸の最古の稲作

遠賀川式土器分布圏/遠賀川式・遠賀川系土器分布圏

 

(二)邪馬台国近畿説しか
       言えない考古学
下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學
院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最
古級のすずりを再発見された。
 下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、そ
の中から3点のすずりを確認された。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土してい
る。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、
木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための
道具ということだ。
 同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流
から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字
を書く文化
」があったことになろう。

上:すずり
下:鋳造鉄斧

下稗田遺跡出土のスズリ
下稗田遺跡出土の鋳造鉄斧

 また、立岩遺跡の刀子(小刀)が出土した同じ地層から鋳造鉄斧も出土している。

 したがって、「邪馬台国近畿説しか言えない考古学」に対して、少し批判的に九州から硯や鉄器が出土しているが、如何ですかと問いかけたい所である。

 

 立岩遺跡は、私の考えでは倭奴國の遺跡としている。

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
 鉄剣・鉄矛・刀子・絹

前漢式鏡

 立岩遺跡から出土した鉄刀の持つ所に絹が巻かれていた跡が残っている。

 

 絹の出土した遺跡の分布について、邪馬台国の会がまとめた地図であるが、弥生時代の絹が出土している遺跡は、全て九州である。
 奈良県から出土した絹の遺跡は、ギリギリ古墳時代の遺跡である。

弥生時代の絹

「邪馬台国の会」がまとめた絹が出土した遺跡地図

 魏志倭人伝の中には、絹や鉄鏃が書かれている。弥生時代の鉄鏃とか鉄刀、絹が出土しているのは九州(北部九州)の遺跡である。奈良県の遺跡からは、弥生時代の鉄鏃や絹は出土していない。