「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より

(五) 魏志倭人伝と日本書紀

 魏志倭人伝と日本書紀については、邪馬台国研究では外される。何故、魏志倭人伝を我国の日本書紀と横断しないのか? と言えば、「神武~神功」までは架空だと言う説で日本史の教科書はリスタートした。
 実は卑弥呼は、神武から神功の間の日本書紀では崇神天皇紀、垂仁天皇紀の時代の人物という事が日本書紀の実年代を検討すれば解る。しかし、日本書紀紀年に書いている通りの崇神天皇紀の時代は随分前の時代になってしまうから、通史の先生たちは、卑弥呼と同時代とは思われなかったのである。

 魏志倭人伝に卑弥呼の前に男王がいて、7・80年続いたとある。倭国大乱が起こり、それで卑弥呼を共立したと書かれている。

 その魏志倭人伝にある7・80年続いた最初の男王は、神武天皇であった。日本書紀には、神武天皇が即位した年が、「辛酉年」と書かれていて、日本書紀紀年では、紀元前660年になる。
 しかし、中国の史書と日本の史書とを横断し分析して総合すれば、神武天皇の即位した辛酉年は、西暦121年しかなかった。

 日本書紀には、その後に香春の媛との間に産まれた皇子神渟名川耳尊が、菊池山鹿出身の手研耳命大王を弑したとある。その年が「太歳己卯」とあり、西暦139年になる。
 それで、倭国大乱が始まる。謝承と范曄の後漢書に桓・霊の間、倭国大乱とあるから西暦146年から189年になる。

 卑弥呼が即位した年が、西暦200年という事も魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀を全部整理し直して出した。
 神功皇后紀は、卑弥呼の時代までずらされていて、その中には魏志の記事が出てくるので、それを見直したら卑弥呼が即位した年が西暦200年と見えてくる。
 だから、「魏志倭人伝と日本書紀」という小見出しを付けている。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
一二一辛酉年の春正月の
 庚辰朔に、天皇、橿原宮
 に於いて帝位に即きたま
 ふ。」
 即位
一三九 皇子神渟名川耳尊
 手研耳命大王を弑し、王
 位を奪う。 「太歳己卯」
 
一四六~一八九 桓・霊の間、倭国大乱。
謝承・范曄後漢書)
 「豊国 対 火国
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
 卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
鶴岡八幡神社
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

 

 倭国大乱時の「冢」と思えるものが、田川郡香春町宮原の宮原遺跡の近くに前方後円墳跡の地形が見える。googleで上空から見た写真で、その周りには周溝跡が田んぼとなって残っている。

香春町宮原(宮原遺跡)

香春町宮原(宮原遺跡)

香春町宮原 170m

倭国大乱時の「冢」か(1)

 

香春町宮原(宮原遺跡)

香春町宮原(宮原遺跡)

倭国大乱時の「冢」か(2)

 

 前述の三国志のイデオロギーが、ここに載せた奈良県桜井市のホケノ山古墳で東鯷国のものである。宮原遺跡は、倭国(邪馬臺国)の遺跡である。考古学で調べた結果が、出土した内行花文鏡は後漢式鏡である。
 近畿の奈良県側に一番古いとされる3世紀中葉のホケノ山古墳から出土した鏡は、神獣鏡である。何故か知らないが、内行花文鏡等の鏡片が出土している。

 宮原遺跡の年代とホケノ山古墳の年代には、100年以上の隔たりがある。香春町宮原のある前方後円跡の地形が古墳であれば、こちらの方が古い事になる。
 井上筑前さんも言っていたように、近畿側では何でも彼んでも100年位時代を早めるという傾向があるので、下手をすると200年位の隔たりがあるかも知れない。
 どちらにせよ、田川の前方後円墳の方が古いのではなかろうかというのが、私の個人的見解である。

弥生中期~後期
宮原遺跡(古墳?)
田川郡香春町
箱式石棺4
(大型石棺) 舶載大型鏡1
(大型石棺) 仿製小型内行花文鏡1
(大型石棺) 鉄剣(刀)
(大型石棺)内行花文鏡2
(大型石) (大小各1)後漢鏡後半
3世紀中葉
ホケノ山古墳
桜井市箸中
帆立貝形前方後円墳 全長90m 
石囲い木槨 舟形木棺
(木槨内)画文帯同向式神獣鏡
(足 元)素環頭太刀など刀剣類5
(木槨外?)半肉彫り神獣鏡 
(木槨外?)内行花文鏡等の鏡片23

100年以上

の隔たり

ホケノ山古墳
宮原遺跡(古墳?)

*.インターネット上の画像

倭国大乱時の「冢」か

 

 日本書紀の崇神天皇紀を読み直して、時代を比定していくと魏志倭人伝の倭国大乱の時代に当る。神武天皇が薨去した後に倭国大乱が起きて、西暦200年に卑弥呼が共立される。

 崇神天皇が即位し、その後に倭国大乱の正体についても日本書紀に書かれている。疫病がはやり、人民が流浪したり反乱したので、天皇は天照大神と倭大国魂(=大物主神)の二神を宮殿内に祭ったと書かれている。これが、大嘗祭の起源のようである。

 日本書紀に出てくる神明倭迹迹日百襲姫命を通説の学者が良く出してくる。神明倭迹迹日百襲姫命の箸墓が、奈良県桜井市にある箸墓古墳だとして、それを卑弥呼の墓だと言っている。

 日本書紀には、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命に憑いて私を祭れば、国は治まると告げたと書かれている。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
 神武の薨去後、倭国大乱(欠史八代)が起き、
二〇〇年卑弥呼共立される。
一七四年祟神天皇即位。
一七八年、「国内に疫病が多く、民の大半が
 死亡する。」
一七九年
「人民が流浪し、ある
 者は反乱した。天皇
 は天照大神倭大国
 魂(=大物主神)

 二神を、宮殿内に共
 に祭り
、神祇に罪を
 請うた。」

 (大嘗祭の起源?)
一八〇年春、「時に、
 大物主神神明倭迹
 迹日百襲姫命
に憑いて、我を祭らばは治ま
 るであろうと告げた。神の教えのとおりに祭
 ったが霊験はなかった。」
大嘗祭

主基殿

悠紀殿

 

 古事記に180年秋に意冨多々泥古命が、神主となって御諸山に意冨美和之大神を祭ったとある。これは、香春岳に大物主神を祭ったという事のようである。

 大田田根子がきちんと大物主神を祭ることができたお陰か、疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わったとある。
 日本書紀には、その後に
  この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久
と歌われた倭歌が出てくる。

 神明倭迹迹日百襲姫命の箸墓が、卑弥呼の墓だとして現在も奈良県で祭られているいうのであれば、ここ田川にも箸墓があるというのが、私の見解である。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
一八〇年秋、「意冨多々泥古命を以ち、神主と
 為て、御諸山に、意冨美和之大神の前を拝き
 祭りたまふ。
(記)
  天下に布告し、大田田根子を求めると、
 渟県の陶邑(宗像市須恵)
に彼女を捜し当て
 、十一月に大物主神を祭らせた。すると、
 病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五
 穀がみのり、人民が賑わった
  この神酒は わが神酒ならず 倭成す
  大物主
の 醸みし神酒 幾久幾久
  味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな
  三輪の殿門を
  (紀)
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)卑弥呼共
 立
か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇年「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万
 人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)お
 よび亶州(推定東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)

 

 卑弥呼と呉・魏両国との関係で、呉の国の人々も日本列島に来ている。卑弥呼の倭国(邪馬臺国)に来た魏の人々だけではない。呉の国の人々も来ている事を言っている。
 したがって、魏志倭人伝だけでは解けない。

 232年、朝鮮半島では公孫淵という人物が、権力を振るっていた。その公孫淵は、魏に就いたり、呉に就いたりと二股外交をしている。

 次に朝鮮の記録である三国史記の新羅本紀一七三の中に「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す」とあるが、これは干支一巡60年違っていて、233年と思われる。

 237年に公孫淵が到頭、魏に対して謀反を起こす。三国志魏書の元年に書かれている。翌238年に蜀の諸葛亮(孔明)負けなかった司馬懿(仲達)が、公孫淵を破ったので、海東平ぐと書かれている。これは、三国志魏書景初二年六月から八月の記事である。

卑弥呼両国との関係
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万
 人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国
 および亶州(推定東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
※ 夷洲から数千人
二三二「三月、呉使を遼東に遣はす。七月、
 (公孫)淵、使者二人を遣はし、呉王孫権
 に意を通じ、貂馬を献ず。権、悦び淵に叙
 爵す。」
(三国志呉書嘉禾元年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三七「淵、遂に立ちて燕王を自称し、魏の
 北方を侵す。」
(三国志魏書景初元年)
二三八「司馬懿、淵を破り、三国志魏書景初
 二年六月~八月その首を都に送る。海東平
 ぐ。」
※ 日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の
 一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の
 子孫と称している。

 

 238年の遼隧の戦いで公孫氏は魏に敗れ、滅亡したわけであるが、今我々が見ている南宋本の魏志倭人伝には、景初二年六月に倭の女王が遣いを出したと書かれている。前述で誤植が多いと説明した本である。

 ところが、三国志の後に出来た梁書には、239年である魏の景初三年に公孫淵を滅ぼした後に卑弥呼が始めて遣いを出したと書かれている。

 更に後の時代に出来た『北史』倭国伝にも司馬懿が、公孫淵を滅ぼした後、卑弥呼が始めて遣いを出したと書かれている。

 もっと面白いのが、『日本書紀』神功皇后紀の記事である。ここには、(神功)卅九年、是年也太歲己未と干支が書かれているから、間違いなく239年である。
 その割注に「魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡」と書かれている。

 11月1日に行われた田川古代史フォーラムの講演でも言ったが、私も日本書紀を編纂した歴史官たちと同じようにこの景初三年と書かれている三国志を見てみたかったと言った。
 今我々が目にしている三国志は、誤植だらけである。年代まで間違っている。これが、魏志倭人伝の性格である。

卑弥呼両国との関係
二三八 遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)は、中国
 の三国時代の戦乱。遼東で半独立政権を築い
 た公孫氏と魏が、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海
 城市)
で武力衝突し、結果、遼東公孫氏は滅亡
 した。
  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 
 求詣天子朝獻 太守夏遣吏将送詣京都
(魏志倭人伝)
※ 誤植が多い
二三九 至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺
 使朝貢
(梁書)
  魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣 使朝
 貢
(『北史』倭国伝)
 (神功)卅九年、是年也太歲己未魏志云 
 明帝景初三年六月倭女王、遣大夫難斗米等、
 詣郡、求詣天子朝獻。太守夏、遣吏將送詣
 京都
(『日本書紀』神功皇后紀)

 

 240年に魏使邪馬臺国に至るであるが、原文は「詣倭國」である。万葉仮名で「臺」、「台」は、「ト」である。中国語にもかつて「ト」という音があったと考えられる。
 それが、我が国の万葉仮名の中に残っている訳である。

 後漢書にある後漢の時代には、楽浪郡から倭奴國(倭国)までが、12,000里と書かれていたが、魏略や魏志倭人伝で帯方郡から女王國までが、12,000里に変わっている。
 楽浪郡と帯方郡の間は、1,300里あるから、帯方郡から女王國までは、1,300里短い距離となるにも拘わらず、帯方郡から女王国まで12,000里であるように書かれている。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
二四〇 魏使邪馬臺国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉
 詔書印綬
臺・台(万葉仮名)→   ※ 仮借
魏使のルート図

 

 對馬國においての神の世界である。教科書の中では神は語られないという事が戦後75年続いているが、その神を訪ねて対馬(對馬國)に行った。

 対馬市厳原町にある高御魂神社の祭神は、高(鷹)皇産靈尊である。この神は、今も田川郡の英彦山に祭られている神であることが判明した。

對馬國
御魂神社(旧村社大明神様)
【旧地】
  長崎県対馬市厳原町豆酘字龍良山628
 御祭神 (鷹)皇産靈尊
 由緒
  橿原の朝皇産靈尊の五世の孫津島県直
 建弥己々命に詔して天神
 地祇を祭らせ給ふ処にし
 て神功皇后三韓に向ひ給
 ふ時行宮を定められ御親
 ら戦捷祈願し給ひし社な
 り、皇産靈を祀る社は
 全国にも稀
にして佐護の
 神皇産靈を主基の宮、本
 社を悠紀宮
として上古由
 緒ある社にして顕宗天皇
 3年4月、上より神田十
 四町を献上せられた。
高御魂神社

 

 一支國(壱岐島)の東側に律令時代に、壱岐郡田河郷があった。その田河郷の中にある深江栄触・深江鶴亀触という地域から出土した遺跡が、原の辻遺跡である。
 また、田河郷の諸吉仲触という所に高御祖神社があり、その神社に對馬國の高御魂神社にも祭られていた高(鷹)皇産靈尊が祭られている。

 魏の使者は、壱岐郡田河郷から福岡県田川郡にやってきたことになるということが、神の世界で解る。考古学では絶対に語らないという事が神の世界を通じれば、見えてくる。

一支國
律令制 壱岐郡田河郷
 旧田河村、現在の芦辺町の芦辺浦・諸吉大
石触・諸吉東触・諸吉南触・諸吉本村触・
吉仲触
・諸吉二亦触と深江東触・深江南触・
深江本村触・深江平触・深江栄触深江鶴亀
を含む地域に比定される。
原の辻遺跡
御祖神社(諸吉仲触)
祭神 (鷹)皇産靈尊
原の辻遺跡
高御祖神社

 

 魏使が、一支國(壱岐島)からきた末盧國は、何処かというと宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)である。釣川をさかのぼりそこで魏使は、上陸した。
 かつて宗像高女があった場所で、現在は、いせきんぐ宗像という歴史公園になっている。

末盧國はどこか 福永説
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
田熊石畑遺跡(宗像高女跡)

 

 伊都国は、糸島ではない。魏使の上陸地点が東松浦半島の呼子と違う。私は、以前「宗像が末盧國なら邪馬台国は田川だ」と魏志倭人伝を解いた。
 地図は、直線距離で示したので少し南に伊都国の位置を記したが、実際は鞍手町辺りである。香春町、大任町から田川郡全部が邪馬臺国と考えている。

 伊都国の「都」は「つ」と読むのは、隋書俀国伝の中に都斯麻國(つしま國)の「都(つ)」がある。伊都国は、「いつ国」である。

伊都国へ 東南陸行五百里
地図「末盧國(宗像)から邪馬台国(田川)へ」
古遠賀湾図

 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察
せしむ。諸国、之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中
に於いて刺史の如き有り。

 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、
及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、
文書・賜遺の物を伝送して
女王に詣らしめ、差錯
するを得ず。
(中略)

 

 教科書では、三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏から貰った鏡だと書かれている。これは、明らかに違う。写真にある福智町から出土した内行花文鏡が多く出土しているのは、遠賀川流域である。文献にも銅鏡100枚と書かれている。

 それに対して、赤烏元年という呉の孫権の時の年号が刻まれた鏡が、山梨県から出土している。神獣鏡(三角縁神獣鏡)は、この呉の鏡と共通する鏡であり、つまり東鯷国の鏡という事になる。

 したがって、内行花文鏡=後漢式鏡が、魏鏡である。その内行花文鏡が福岡圏から多く出土している事だけが言いたいのである。

福岡県の内行花文鏡出土地
絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
「写真:内行花文鏡」

内行花文鏡Ⓒ福智町

「写真:赤烏鏡」

赤烏元年鏡Ⓒ山梨県

卑弥呼の鏡=内行花文鏡

 

 倭国と東鯷国の年表の中に魏志倭人伝だけ読んでいては解らない事を纏め直した。倭国(邪馬臺国)の卑弥呼、魏に朝貢した年を239年に修正した。
 238年にまだ司馬懿が公孫淵と戦っている時に卑弥呼が遣いを出さないだろう。239年6月に帯方郡へ遣いを出したであろう。

 238年の呉の赤烏元年銘神獣鏡が山梨県に出土し、244年の呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土している。つまり、日本列島の東鯷国に呉の鏡が出土し、倭国に魏の鏡が出土している。この事から倭国(邪馬臺国)は、九州にあったと言わざるを得ない。
 考古学の先生たちが出した結論を紡ぎ合わせるとこのようになる。

倭国東鯷国
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く
    (この後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝を廃し、
    魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州(狗奴国)
    州(東鯷国)
に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元年銘神
    獣鏡
山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国卑弥呼に「親魏倭王」印を仮授す
    (東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ
二六六 倭国(邪馬臺国)臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」を編む)

 

 魏志倭人伝の記事に戻ると、247年に倭女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼素より和せず。この年にまた遣いが帯方郡へ行く。
 それで塞曹掾史、張政等が遣わされ、この時に詔書と黄幢が239年に遣いだった難升米に拝仮されている。つまり、卑弥呼は、クビになった。女王ではなくなった。

 この記事の直ぐ後に「卑弥呼以死」とあるが、その理由が書かれていないが、我々は、女王国が狗奴国に敗れたようだ。国が無くなったのではないが、最前線か何処かで負けたその責任を取らされて亡くなったようである。

 つづいて卑弥呼の墓について「大作冢徑百餘歩」と書かれている。写真は、赤村にある前方後円型地形の1970年代の航空写真である。周溝の跡が見え、また、池や土砂崩れの跡も見える。
 前方後円墳の造出(つくりだし)になる所から土器片が出土していると何度も言ってきた。これが自然地形でしょうか? また、古墳でしょうか? 調査しなければ解らない。
 いきなりダダの自然地形の山だと言って欲しくはない。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
二四七年 其の(正始)八年、太守、王頎官に到
 る。倭女王卑弥呼狗奴国王卑弥弓呼素より和
 せず。、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
 撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、
 因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄
 を為りて之を告諭す。
(魏志)
魏志倭人伝「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服」の部分
1970年代の赤村内田の前方後円墳型

 

 ここに書かれている日本書紀の記事にある「箸墓」が、邪馬台国近畿説の根拠になっている。

 この記事にある話を田川の土地に持ってくれば、大物主神を英彦山と香春岳に祭ってあるから、邪馬臺国の女王卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命であるならば、大物主神つまり、鷹羽の神を祭った巫女王だった。
 だから、赤村にある前方後円型地形が卑弥呼の墓であり、卑弥呼はここに眠っているのではないかと言っているだけである。

 ここで言っておくが、香春岳は本当に三輪の山であるが、奈良県の三輪山は、一輪の山である。この日本書紀にある「三輪山」は、どちらの山が本物であるのかを問いかけている。
 ここが、卑弥呼の墓と考えた時に南北の位置に大物主神が祭られていたというのが、箸墓だと言ってる理由の一つである。
 先ほど壬申の乱の所で話したように、天武天皇紀にも箸陵が出てきた。大海人軍と近江軍が戦った場所が、この前方後円型地形の下である。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
 倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となった。神は
昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は翌朝に神
の麗しい姿を見たいと言った。大神は翌朝姫の櫛箱
に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答え
た。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は
驚き叫んだ。大神はたちまちに人の姿となって妻に
言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥
をかかせてやる。」と。神は空に上り三輪山(香春
岳)
に帰った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座っ
た。すると箸に陰部をついて死んだ。そこで大市に
葬った。
 時の人はその墓を名
付けて、箸墓といった。
 邪馬臺国の女王卑弥呼
大物主をつまり鷹羽の
を祭った巫女王だった。
 狗奴国王卑弥弓呼に敗
れたのだろうか、卑弥呼
は責任を問われ自決した
ようだ。
赤村内田の前方後円墳型地形

 

 魏志倭人伝に出てくる鉄鏃である。狗奴国も鉄鏃を使ったらしい。邪馬臺国も鉄鏃を使った。または、骨鏃を使ったと書かれている。
 この地図の数値は、間違いなく奥野正男先生の調査に基づき書かれている。北九州の鉄鏃・銅鏃の出土地の数である。奈良県から、鉄鏃が出土していないのは、熔けたという事である。面白い。
 だから、奈良県からは、1個も出土しないそうだが、北九州からは沢山出土している。しかし、私が主張してる田川郡は出土していない。ゼロであるが、まだ、発掘されていない。
 鉄鏃に絞った数であるが、北九州市、行橋市・京都郡、鞍手郡を足しても二桁であるが、山鹿市・菊池市側は、三桁である。スゴイ出土数である。
 どうもこの鉄鏃の差で、邪馬臺国は、狗奴国に敗れたという推測に至らざるを得ない。

 また、この時に筑紫が女王国側に就いていたか、狗奴国側に就いていたかという政治的な問題もある。そうした時に末盧國が唐津の方にある訳が無い。
 女王国の遣いや魏の遣いがそこに行けば、狗奴国の兵士に直ぐに捕まり、殺される危険性がある。やはり、末盧國は、宗像である。一支國から東方向へ海を1,000里渡る。

 北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地
北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地の地図

 

 11月1日の田川古代史フォーラムの時は、日本武尊についても話したが、卑弥呼も日本武尊も狗奴国の圧倒的な「鉄鏃の千羽矢降る戦術」の前に敗れ去ったというのが、歴史事実では無いかという事が言いたい。
 写真に多賀山が写っている。「おのころ島」である。この遠賀川流域は、かつては全部海であった。

は 国の真秀 畳な付く
  青垣 山隠れる し愛はし
 卑弥呼日本武尊狗奴国の圧倒的な「鉄鏃の
千羽矢降る戦術
」の前に敗れ去った。
 弥生の鉄鏃の物語了。
遠賀川流域、遠方は響灘

 

 臺與の時代には、狗奴国が実権を握っている。臺與は、邪馬臺国のお飾りの女王だったのでしょうか。
 その臺與が、266年に魏の後の晋に遣いを出している。その時に生口三十人を献上したと書かれている。この生口が食肉用の奴隷だと不気味なことを言ってきた。
 その事について、中国側の史書にある。これも魏志倭人伝だけでは解らない。梁書倭伝という魏志倭人伝を受け継ぎ、宋書にある倭の五王も受け継ぎ、唐時代に出来上がった史書に魏志倭人伝と同じ文句が書かれた後に新しい情報が載っている。
 口語約の最後部分「西南万里に海人がいて、身体は黒く、眼は白く、裸でみにくいが、その肉はうまい。旅行者は射たりしてこれを食べる。」である。
 倭人も人肉を食べている。情けないですが、北九州の我々が沖縄の人達を食ったかも知れない。中国の皇帝も人肉が好きであるから、生口を献上したのではないかとなる。
 私は、根拠が無しに話はしない。古代史には、そのような古代人の残虐な一面も表れてくる。全てが、ロマンチックに語れる訳ではない。考古学の先生方は、以外とロマンチックである。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
臺與の遣晋使 生口とは何か
 梁書倭伝は、内実は魏志倭人伝、魏略、後
漢書、宋書(倭の五王)、隋書の記述と、隋
・唐代に新たに入った資料を整理したもので
ある。
 梁書は、貞観三年(六二九)に唐の太宗の
命を受けて編纂し、貞観十年(六三六)すべ
てが完成した。
 其南有侏儒国 人長三四尺 又南黒齒
國裸國
 去倭四千餘里 船行可一年至 
又西南萬里有海人 身黒眼白裸而醜 其
肉羙 行者或射而食之
 その南に侏儒国がある。人の背丈は三、四
尺。また、南に黒歯国、裸国がある。倭を去
ること四千余里、船で行くこと一年ほどで着
く。
 また西南万里に海人がいて、身体は黒く、
眼は白く、裸でみにくいが、その肉はうまい。
旅行者は射たりしてこれを食べる。