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「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より
(五) 魏志倭人伝と日本書紀
魏志倭人伝と日本書紀については、邪馬台国研究では外される。何故、魏志倭人伝を我国の日本書紀と横断しないのか? と言えば、「神武~神功」までは架空だと言う説で日本史の教科書はリスタートした。
実は卑弥呼は、神武から神功の間の日本書紀では崇神天皇紀、垂仁天皇紀の時代の人物という事が日本書紀の実年代を検討すれば解る。しかし、日本書紀紀年に書いている通りの崇神天皇紀の時代は随分前の時代になってしまうから、通史の先生たちは、卑弥呼と同時代とは思われなかったのである。
魏志倭人伝に卑弥呼の前に男王がいて、7・80年続いたとある。倭国大乱が起こり、それで卑弥呼を共立したと書かれている。
その魏志倭人伝にある7・80年続いた最初の男王は、神武天皇であった。日本書紀には、神武天皇が即位した年が、「辛酉年」と書かれていて、日本書紀紀年では、紀元前660年になる。
しかし、中国の史書と日本の史書とを横断し分析して総合すれば、神武天皇の即位した辛酉年は、西暦121年しかなかった。
日本書紀には、その後に香春の媛との間に産まれた皇子神渟名川耳尊が、菊池山鹿出身の手研耳命大王を弑したとある。その年が「太歳己卯」とあり、西暦139年になる。
それで、倭国大乱が始まる。謝承と范曄の後漢書に桓・霊の間、倭国大乱とあるから西暦146年から189年になる。
卑弥呼が即位した年が、西暦200年という事も魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀を全部整理し直して出した。
神功皇后紀は、卑弥呼の時代までずらされていて、その中には魏志の記事が出てくるので、それを見直したら卑弥呼が即位した年が西暦200年と見えてくる。
だから、「魏志倭人伝と日本書紀」という小見出しを付けている。
倭国大乱時の「冢」と思えるものが、田川郡香春町宮原の宮原遺跡の近くに前方後円墳跡の地形が見える。googleで上空から見た写真で、その周りには周溝跡が田んぼとなって残っている。
前述の三国志のイデオロギーが、ここに載せた奈良県桜井市のホケノ山古墳で東鯷国のものである。宮原遺跡は、倭国(邪馬臺国)の遺跡である。考古学で調べた結果が、出土した内行花文鏡は後漢式鏡である。
近畿の奈良県側に一番古いとされる3世紀中葉のホケノ山古墳から出土した鏡は、神獣鏡である。何故か知らないが、内行花文鏡等の鏡片が出土している。
宮原遺跡の年代とホケノ山古墳の年代には、100年以上の隔たりがある。香春町宮原のある前方後円跡の地形が古墳であれば、こちらの方が古い事になる。
井上筑前さんも言っていたように、近畿側では何でも彼んでも100年位時代を早めるという傾向があるので、下手をすると200年位の隔たりがあるかも知れない。
どちらにせよ、田川の前方後円墳の方が古いのではなかろうかというのが、私の個人的見解である。
日本書紀の崇神天皇紀を読み直して、時代を比定していくと魏志倭人伝の倭国大乱の時代に当る。神武天皇が薨去した後に倭国大乱が起きて、西暦200年に卑弥呼が共立される。
崇神天皇が即位し、その後に倭国大乱の正体についても日本書紀に書かれている。疫病がはやり、人民が流浪したり反乱したので、天皇は天照大神と倭大国魂(=大物主神)の二神を宮殿内に祭ったと書かれている。これが、大嘗祭の起源のようである。
日本書紀に出てくる神明倭迹迹日百襲姫命を通説の学者が良く出してくる。神明倭迹迹日百襲姫命の箸墓が、奈良県桜井市にある箸墓古墳だとして、それを卑弥呼の墓だと言っている。
日本書紀には、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命に憑いて私を祭れば、国は治まると告げたと書かれている。
古事記に180年秋に意冨多々泥古命が、神主となって御諸山に意冨美和之大神を祭ったとある。これは、香春岳に大物主神を祭ったという事のようである。
大田田根子がきちんと大物主神を祭ることができたお陰か、疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わったとある。
日本書紀には、その後に
この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久
と歌われた倭歌が出てくる。
神明倭迹迹日百襲姫命の箸墓が、卑弥呼の墓だとして現在も奈良県で祭られているいうのであれば、ここ田川にも箸墓があるというのが、私の見解である。
卑弥呼と呉・魏両国との関係で、呉の国の人々も日本列島に来ている。卑弥呼の倭国(邪馬臺国)に来た魏の人々だけではない。呉の国の人々も来ている事を言っている。
したがって、魏志倭人伝だけでは解けない。
232年、朝鮮半島では公孫淵という人物が、権力を振るっていた。その公孫淵は、魏に就いたり、呉に就いたりと二股外交をしている。
次に朝鮮の記録である三国史記の新羅本紀一七三の中に「倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す」とあるが、これは干支一巡60年違っていて、233年と思われる。
237年に公孫淵が到頭、魏に対して謀反を起こす。三国志魏書の元年に書かれている。翌238年に蜀の諸葛亮(孔明)負けなかった司馬懿(仲達)が、公孫淵を破ったので、海東平ぐと書かれている。これは、三国志魏書景初二年六月から八月の記事である。
238年の遼隧の戦いで公孫氏は魏に敗れ、滅亡したわけであるが、今我々が見ている南宋本の魏志倭人伝には、景初二年六月に倭の女王が遣いを出したと書かれている。前述で誤植が多いと説明した本である。
ところが、三国志の後に出来た梁書には、239年である魏の景初三年に公孫淵を滅ぼした後に卑弥呼が始めて遣いを出したと書かれている。
更に後の時代に出来た『北史』倭国伝にも司馬懿が、公孫淵を滅ぼした後、卑弥呼が始めて遣いを出したと書かれている。
もっと面白いのが、『日本書紀』神功皇后紀の記事である。ここには、(神功)卅九年、是年也太歲己未と干支が書かれているから、間違いなく239年である。
その割注に「魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡」と書かれている。
11月1日に行われた田川古代史フォーラムの講演でも言ったが、私も日本書紀を編纂した歴史官たちと同じようにこの景初三年と書かれている三国志を見てみたかったと言った。
今我々が目にしている三国志は、誤植だらけである。年代まで間違っている。これが、魏志倭人伝の性格である。
240年に魏使邪馬臺国に至るであるが、原文は「詣倭國」である。万葉仮名で「臺」、「台」は、「ト」である。中国語にもかつて「ト」という音があったと考えられる。
それが、我が国の万葉仮名の中に残っている訳である。
後漢書にある後漢の時代には、楽浪郡から倭奴國(倭国)までが、12,000里と書かれていたが、魏略や魏志倭人伝で帯方郡から女王國までが、12,000里に変わっている。
楽浪郡と帯方郡の間は、1,300里あるから、帯方郡から女王國までは、1,300里短い距離となるにも拘わらず、帯方郡から女王国まで12,000里であるように書かれている。
對馬國においての神の世界である。教科書の中では神は語られないという事が戦後75年続いているが、その神を訪ねて対馬(對馬國)に行った。
対馬市厳原町にある高御魂神社の祭神は、高(鷹)皇産靈尊である。この神は、今も田川郡の英彦山に祭られている神であることが判明した。
一支國(壱岐島)の東側に律令時代に、壱岐郡田河郷があった。その田河郷の中にある深江栄触・深江鶴亀触という地域から出土した遺跡が、原の辻遺跡である。
また、田河郷の諸吉仲触という所に高御祖神社があり、その神社に對馬國の高御魂神社にも祭られていた高(鷹)皇産靈尊が祭られている。
魏の使者は、壱岐郡田河郷から福岡県田川郡にやってきたことになるということが、神の世界で解る。考古学では絶対に語らないという事が神の世界を通じれば、見えてくる。
魏使が、一支國(壱岐島)からきた末盧國は、何処かというと宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)である。釣川をさかのぼりそこで魏使は、上陸した。
かつて宗像高女があった場所で、現在は、いせきんぐ宗像という歴史公園になっている。
伊都国は、糸島ではない。魏使の上陸地点が東松浦半島の呼子と違う。私は、以前「宗像が末盧國なら邪馬台国は田川だ」と魏志倭人伝を解いた。
地図は、直線距離で示したので少し南に伊都国の位置を記したが、実際は鞍手町辺りである。香春町、大任町から田川郡全部が邪馬臺国と考えている。
伊都国の「都」は「つ」と読むのは、隋書俀国伝の中に都斯麻國(つしま國)の「都(つ)」がある。伊都国は、「いつ国」である。
教科書では、三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏から貰った鏡だと書かれている。これは、明らかに違う。写真にある福智町から出土した内行花文鏡が多く出土しているのは、遠賀川流域である。文献にも銅鏡100枚と書かれている。
それに対して、赤烏元年という呉の孫権の時の年号が刻まれた鏡が、山梨県から出土している。神獣鏡(三角縁神獣鏡)は、この呉の鏡と共通する鏡であり、つまり東鯷国の鏡という事になる。
したがって、内行花文鏡=後漢式鏡が、魏鏡である。その内行花文鏡が福岡圏から多く出土している事だけが言いたいのである。
倭国と東鯷国の年表の中に魏志倭人伝だけ読んでいては解らない事を纏め直した。倭国(邪馬臺国)の卑弥呼、魏に朝貢した年を239年に修正した。
238年にまだ司馬懿が公孫淵と戦っている時に卑弥呼が遣いを出さないだろう。239年6月に帯方郡へ遣いを出したであろう。
238年の呉の赤烏元年銘神獣鏡が山梨県に出土し、244年の呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土している。つまり、日本列島の東鯷国に呉の鏡が出土し、倭国に魏の鏡が出土している。この事から倭国(邪馬臺国)は、九州にあったと言わざるを得ない。
考古学の先生たちが出した結論を紡ぎ合わせるとこのようになる。
魏志倭人伝の記事に戻ると、247年に倭女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼素より和せず。この年にまた遣いが帯方郡へ行く。
それで塞曹掾史、張政等が遣わされ、この時に詔書と黄幢が239年に遣いだった難升米に拝仮されている。つまり、卑弥呼は、クビになった。女王ではなくなった。
この記事の直ぐ後に「卑弥呼以死」とあるが、その理由が書かれていないが、我々は、女王国が狗奴国に敗れたようだ。国が無くなったのではないが、最前線か何処かで負けたその責任を取らされて亡くなったようである。
つづいて卑弥呼の墓について「大作冢徑百餘歩」と書かれている。写真は、赤村にある前方後円型地形の1970年代の航空写真である。周溝の跡が見え、また、池や土砂崩れの跡も見える。
前方後円墳の造出(つくりだし)になる所から土器片が出土していると何度も言ってきた。これが自然地形でしょうか? また、古墳でしょうか? 調査しなければ解らない。
いきなりダダの自然地形の山だと言って欲しくはない。
ここに書かれている日本書紀の記事にある「箸墓」が、邪馬台国近畿説の根拠になっている。
この記事にある話を田川の土地に持ってくれば、大物主神を英彦山と香春岳に祭ってあるから、邪馬臺国の女王卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命であるならば、大物主神つまり、鷹羽の神を祭った巫女王だった。
だから、赤村にある前方後円型地形が卑弥呼の墓であり、卑弥呼はここに眠っているのではないかと言っているだけである。
ここで言っておくが、香春岳は本当に三輪の山であるが、奈良県の三輪山は、一輪の山である。この日本書紀にある「三輪山」は、どちらの山が本物であるのかを問いかけている。
ここが、卑弥呼の墓と考えた時に南北の位置に大物主神が祭られていたというのが、箸墓だと言ってる理由の一つである。
先ほど壬申の乱の所で話したように、天武天皇紀にも箸陵が出てきた。大海人軍と近江軍が戦った場所が、この前方後円型地形の下である。
魏志倭人伝に出てくる鉄鏃である。狗奴国も鉄鏃を使ったらしい。邪馬臺国も鉄鏃を使った。または、骨鏃を使ったと書かれている。
この地図の数値は、間違いなく奥野正男先生の調査に基づき書かれている。北九州の鉄鏃・銅鏃の出土地の数である。奈良県から、鉄鏃が出土していないのは、熔けたという事である。面白い。
だから、奈良県からは、1個も出土しないそうだが、北九州からは沢山出土している。しかし、私が主張してる田川郡は出土していない。ゼロであるが、まだ、発掘されていない。
鉄鏃に絞った数であるが、北九州市、行橋市・京都郡、鞍手郡を足しても二桁であるが、山鹿市・菊池市側は、三桁である。スゴイ出土数である。
どうもこの鉄鏃の差で、邪馬臺国は、狗奴国に敗れたという推測に至らざるを得ない。
また、この時に筑紫が女王国側に就いていたか、狗奴国側に就いていたかという政治的な問題もある。そうした時に末盧國が唐津の方にある訳が無い。
女王国の遣いや魏の遣いがそこに行けば、狗奴国の兵士に直ぐに捕まり、殺される危険性がある。やはり、末盧國は、宗像である。一支國から東方向へ海を1,000里渡る。
11月1日の田川古代史フォーラムの時は、日本武尊についても話したが、卑弥呼も日本武尊も狗奴国の圧倒的な「鉄鏃の千羽矢降る戦術」の前に敗れ去ったというのが、歴史事実では無いかという事が言いたい。
写真に多賀山が写っている。「おのころ島」である。この遠賀川流域は、かつては全部海であった。
臺與の時代には、狗奴国が実権を握っている。臺與は、邪馬臺国のお飾りの女王だったのでしょうか。
その臺與が、266年に魏の後の晋に遣いを出している。その時に生口三十人を献上したと書かれている。この生口が食肉用の奴隷だと不気味なことを言ってきた。
その事について、中国側の史書にある。これも魏志倭人伝だけでは解らない。梁書倭伝という魏志倭人伝を受け継ぎ、宋書にある倭の五王も受け継ぎ、唐時代に出来上がった史書に魏志倭人伝と同じ文句が書かれた後に新しい情報が載っている。
口語約の最後部分「西南万里に海人がいて、身体は黒く、眼は白く、裸でみにくいが、その肉はうまい。旅行者は射たりしてこれを食べる。」である。
倭人も人肉を食べている。情けないですが、北九州の我々が沖縄の人達を食ったかも知れない。中国の皇帝も人肉が好きであるから、生口を献上したのではないかとなる。
私は、根拠が無しに話はしない。古代史には、そのような古代人の残虐な一面も表れてくる。全てが、ロマンチックに語れる訳ではない。考古学の先生方は、以外とロマンチックである。