「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より

(四) 三国志のイデオロギー

弥生時代の実年代
国立歴史博物館による弥生時代の実年代表 紀元前660年「倭成す大物主」

 

 「神代の倭人の記録」であるが、ここに出てくる周は、紀元前10世紀の頃に始まる王朝である。論衡に倭人が来て、鬯草を獻上している。

 三国志より前の『漢書』地理志の中に「東夷天性柔順」とあり、その後に有名な「樂浪海中有倭人、・・・」という文句がある。
 また、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」という文句も『漢書』地理志の中にある。『漢書』地理志というのは、前漢の時代の記録である。

 倭人が、紀元前10世紀の記録や前漢の時代の記録に既に登場している。考古学の先生たちは、この書物をどうするのでしょうか?
 井上筑前さんが、おっしゃった「邪馬台国は考古学の問題ではなく、文献の問題だ。」という事を。倭人については、魏志倭人伝よりかなり前の文献にある。
 倭人の「倭」は、たぶん邪馬台国につながる。

(四)三国志のイデオロギー
神代の倭人の記録
『論衡』
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」  
(異虚篇第一八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」  
(恢国篇第五八)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯
 草 食白雉服鬯草 不能除凶」  
(儒増篇第二六)
『漢書』地理志
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故
 孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷
 有以也夫。樂浪海中倭人、分爲
 餘國
、以歳時來獻見云。」  
(燕地)
「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」  
(呉地)

 

 『漢書』地理志にあった東鯷人の事が、『後漢書』東夷伝倭国にも書かれている。

(四)三国志のイデオロギー
後漢書東夷伝倭国
 会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて
二十余国を作っている。また、夷洲と澶洲
がある。
 こう言い伝えられている。
 秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、子供
の男女数千人を率いて海に入り、蓬莱神仙
を求めさせたが出来なかった。
 徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて
帰らず、ついにこの島に止まった。
 代々受け継がれて数万戸がある。その人
民が時おり会稽の市にやってくる。
 会稽東冶県の人で、海に入り、風に流さ
れて澶洲に着いた者がいるが、所在地はあ
まりにも遠く、往来することはできない。

 ここにある会稽郡というのは、三国時代の呉の国にある。

 

(四)三国志のイデオロギー
後漢書東夷伝倭国
會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 
又有夷洲及澶洲
 会稽海外に、東鯷人あり、分かれて
二十余国を為す。また、夷州および
あり。
 伝え言う、「秦の始皇、方士徐福を
遣わし、童男女数千人を将いて海に入
り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。
徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州
に止まる」と。
 世世相承け、数万家あり。人民時に
会稽に至りて市す。会稽の東冶の県人、
海に入りて行き風に遭いて流移し澶州
に至る者あり。所在絶遠にして往来す
べからず。

 

 三国志呉書「孫権伝」黄竜二年(西暦230年)の所に「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む」とある。
 夷州が推定狗奴国であり、亶州が推定東鯷国である。

 その記事の原文を持ってきた。「夷州亶州」、「秦始皇帝」、「方士徐福」、「至亶州」、「夷洲數千人還」等の文句がある。
 先ほどの『後漢書』東夷伝倭国とほとんど同じ文句が、三国志呉書に書かれている。後漢書の中では、倭国伝にあった東鯷人が、魏志倭人伝から外されているが、呉書にはちゃんと東鯷人が書かれている。通説の学者たちは、この事を一切言ってこなかった。
 その東鯷人の国が一体どこにあるのか?

(四)三国志のイデオロギー
二三〇年将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州

  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教學諸子。遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲、不還。世相承有數萬家、其上人民時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠、卒不可得至。但得夷洲數千人還。 三年春二月遣太常潘濬、率衆五萬、討武陵蠻夷。衞溫、諸葛直、皆以違詔無功、下獄、誅。夏、有野

 

 東鯷人の国は、卑弥呼の時代の東アジアの地図で示すように日本列島の近畿地方を中心にある。この地図は、西暦220年に後漢が滅びるまで、その年に三国時代(魏・呉・蜀)が始まる。
 その一つの魏の史書、魏志韓伝の中に倭国(邪馬臺国)は、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の南にあると書かれている。魏志倭人伝だけを読んでいたのでは、ダメである。同じ魏志韓伝の中にちゃんと倭国の位置について書いている。三韓の南は、九州しかない。
 後漢書と三国志呉書に東鯷人の国のことが、書かれている。その場所は、どう考えても近畿地方である。だから、卑弥呼の時代に倭国(邪馬臺国)が、近畿にある訳が無い。

(四)三国志のイデオロギー
卑弥呼の時代の東アジア
後漢時代の地図 日本列島に倭国と東鯷国(東鯷人の国)

 

 丹後半島には、卑弥呼の時代と同時代の古墳がこれだけある。

(四)三国志のイデオロギー
丹後半島の古墳群