「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より
① 天智天皇崩御異聞/② 藤原京/③ 平城京の所在地
天智天皇崩御異聞については、『扶桑略記』第五の天智天皇九年の記事にある。(天智)天皇が馬に乗り、山階郷に行き、還ら無かった。履いていた沓が落ちていた處を山陵をしたという訳が解らない事が書かれている。山林で行方不明になり遺骸が無いと書いている。
福岡県宗像市の織幡神社境内に武内宿祢の沓塚という伝承がある。しかし、武内宿祢の墓は、厳然と高良大社の奥宮にあるので、織幡神社境内にある沓塚から武内宿祢を取り除くと誰の沓塚になるのか?
そうした時に、扶桑略記の「履沓落處・・・」の記事と合わせると天智天皇は、玄界灘に入水自殺されたという考えに至った。
もう一つの証拠が、万葉集の倭歌からの証言である。万葉集148番に「目には見れども 直に逢はぬかも」と歌われているので、「目には見えるけれど、もはや直接には天皇にお逢いできない」という事であるが、倭歌の題名がおかしい。
天智天皇が、御病気の時と書かれているが、その病気の天智天皇に「相觸れる肉體のある人間として直接に相見る事が出来ない」と歌われている。
この万葉集148番の倭歌と日本書記に書かれている天智天皇が病気で亡くなった事とは相受け入れないのである。
また、万葉集153番にある「若草の 夫の 思ふ鳥立つ」の所は、「(若草の)入水した我が夫のように思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから」と私は解釈している。だから、『扶桑略記』と『萬葉集』から言えば、天智天皇は入水自殺されている。
福永説で藤原京の周辺で古事記は編まれたと書いたが、その藤原京跡は、行橋市の福原長者原遺跡のⅡ期の遺構ではないかと考えている。
福原長者原遺跡を発掘された国立歴史民俗博物館の先生が、図内の赤線で描かれたⅡ期の遺構を発掘されて後、行橋市の講演会で藤原宮だと言われている。私もこのⅡ期の遺構が、藤原宮跡だと思っている。だから、藤原京も福岡、豊国にあったと言っているだけである。
平城京の所在地については、私の仲間である桜井貴子さんが、続日本紀の記事から取り出した。
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桂川町の土師三区が、一番中心の宮殿跡ではないかとした時に、そこに長明寺 というお寺があった。
桜井さんが言う事には、771年の鶴見火山伽藍岳の噴火によって、当時の平城京(宮)には噴石(隕石ではなく火山かた飛んできた)が、京師の宮殿の屋根に落ちた。
その事が、続日本紀に書かれているが、奈良県では一切当てはまらない。続日本紀に書かれている細かな記録を追いかけ追究して、我々は平城京が桂川町にあったと言っている。
③ 京師(=桂川町)への噴石の落下
噴石の落下は宝亀2年(771年)の鶴見火山伽藍岳の噴火による。
宝亀二年五月二十三日、豊後國速見郡教見郷、山崩れ潤填し、水為に流れず。
十餘日を積みて、忽ち決し、百姓七人を漂没す。埋めらるる家四十三区あり。
其の調庸を免じ、之に賑給を加ふ。
・宝亀二年十一月、辛亥(29)、星有り、西南に隕つ。その声雷の如し。
・宝亀三年六月、戊辰(19)、往々京師に隕石あり。其の大きさ柚の実の如し。
数日にして止む。
・宝亀三年六月十二月、己未(13)、星隕ること雨の如し。
・宝亀四年五月、辛丑(27)、星有りて南北に隕つる各一つ。其の大きさ盆
(瓦)の如し。
・宝亀七年(776)二月、是夜、流星有り。其の大きさ盆の如し。
・宝亀七年九月、是月、毎夜、瓦石及び塊自ら内堅の曹司及び京中往々屋上に
落つ。明けて之を視れば、其の物あり。二十餘日を経て乃ち止む。