「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題2

 「邪馬台国研究 戦後の諸問題2」(当初有料配信の無料公開)の動画を こちら からご視聴頂けます。

 前回、11月20日に田川広域観光協会の第18回 古代史講座で、「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」と語っている。その簡単な要約をして今日の本題に入る。

・オカルト歴史が「日本遺産」に!? 全国に広がる「偽史」町おこし
・教科書から削られた「神武~神功」(前期・中期の古墳) ・三国志のイデオロギー
・むすび 偽史はどっちだ⁉

 

教科書「邪馬台国論争の地図」
令和二年霜月二三日収録
豊の国古代史研究会有料配信
  記紀万葉研究家 福永晋三
邪馬台国研究
    戦後の諸問題2

 

●「邪馬台国研究 戦後の諸問題2」 (第一部)

 考古学の問題から話す。つい最近、『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』という本が、梓書院から出版された。

  纒向遺跡を発掘された方(関川尚功) が、出した本のタイトルである。

考古学から見た 邪馬台国大和説
畿内ではありえぬ邪馬台国
 「大和・畿内説」で中心として考えられるのが、纒向遺跡、箸墓古墳である。本書の著者(関川尚功(セキガワヒサヨシ))は、長年、纒向遺跡をはじめ、箸墓古墳など多くの大和地域の発掘・調査に携わってきた。  
 そんな著者が出した結論は、「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」。  
 数々の史跡、遺跡を発掘してきた著者が語る本当の「邪馬台国大和説」。
本「邪馬台国大和説畿内ではありえぬ邪馬台国(関川尚功)」

 

 この本の目次を記したが、その第Ⅶ章を赤字で示した通り「考古学が示す邪馬台国大和説の不成立」であると著者の関川尚功氏が書いている。

考古学から見た 邪馬台国大和説
 畿内ではありえぬ邪馬台国

関川尚功 著
2020年9月20日発売 梓書院

目次
第Ⅰ章 邪馬台国と大和の考古学
第Ⅱ章 大和地域の弥生時代遺跡
第Ⅲ章 纒向遺跡の実態
第Ⅳ章 大和地方の遺跡動向と邪馬台国
第Ⅴ章 箸墓古墳と邪馬台国
第Ⅵ章 箸墓古墳と古墳出現年代
第Ⅶ章 考古学が示す邪馬台国大和説の不成立
第Ⅷ章 邪馬台国の位置と今後の行方

著者略歴
関川尚功(セキガワヒサヨシ sekigawahisayoshi)
1951年、長野県生まれ。関西大学文学部史学科卒業。 1974年、奈良県立橿原考古学研究所入所。学生時代を 含め約40年、大和の遺跡や古墳の発掘と検討に携わる。 纏向遺跡、藤ノ木古墳、太安萬侶墓などの調査に従事。 2011 年橿原考古学研究所を退職。 著作に、石野博信先生と共著『纏向』、橿原考古学研究所の論文掲載多数。

本「邪馬台国大和説畿内ではありえぬ邪馬台国(関川尚功)」

 

 箸墓(箸陵)については、日本書紀の中で崇神天皇紀と天武天皇紀の2回出てくるという事を話した。

日本国初の大乱 壬申の乱
箸陵の下の決戦(六七二年七月四日)
 三輪君高市麻呂置始連莵(おきそめのむらじうさぎ)上道に当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、廬井鯨(いほゐのくぢら)の軍の後ろを断ったので、鯨の軍はすべて解散して逃げ散った。は辛うじて逃げることができた。
天武天皇十五年(六八六
 六月の戊寅((十日))に、天皇の病を(うらな)ふに、草薙劒に(たた)れり。即日に、尾張国熱田社(鞍手町)に送り置く。
朱鳥元年六八六
 九月丙午((九日))に、天皇の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。
 鷹羽の神々を正しく祭らなかったせいで、天武天皇はついに鷹羽の神々に祟られて薨去したのであろう。
 皇室の菩提寺とされる京都の泉涌(せんにゅう)寺には歴代天皇の位牌が並ぶが、天武系の八代七人の天皇の位牌は無い。

 

 11月1日にも日本書紀の成立について、福永説は以下の通り一見すると飛んでも無いことを述べている。

日本書紀の成立(福永説)
 壬申の大乱は豊君の天智天皇筑紫君薩野馬(さちやま)
すなわち後の天武天皇
との直接の戦いであった
とした。天智天皇は玄界灘に入水し天武が勝
利した。
 勝者天武天皇(=筑紫君薩夜麻(さちやま))が、修史を
企図する。その編修方針こそ「削偽定実(くぎていじつ)」であ
った

 分析の結果は、「豊国の神々と天皇の歴史を
削り
筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」こ
とと判明した。
 なお、古事記は②藤原京(福原長者原遺跡第
二期遺構)
の周辺で編まれ、日本書紀は③平城
(嘉穂郡桂川町)の周辺で編まれたようだ。
 本講演は、古事記豊国の歴史)の時系列を
縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国豊国)を
横糸にして編み直した、福永独自の古代史観(
鷹羽の神々から武・卑弥呼・日本武尊・神功
皇后までの歴史
)を述べるものである。

(参1)

 天皇家の支配の正統性を裏づけるため、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を修正し(これを「削偽定実」という)、稗田阿礼に誦習(しょうしゅう)(単なる暗誦ではなく、諸家においてバラバラであったものを一つに定めることを意味する)させた。

 上記の番号を付けた ①天智天皇は玄界灘に入水②藤原京③平城京の3点について、少し証明していく。

 

・扶桑略記第五 ・宗像市の織幡神社 ・万葉集一四八、一五三
・行橋市の福原長者原遺跡
・続日本紀 ・桂川町の長明寺

 *.ここから、今日の本論に入っていく。

・下稗田遺跡の硯と鉄器 ・立岩遺跡(倭奴国の遺跡) ・天満倭国=倭奴國の成立
・記紀、その「漢字の音訓」 ・万葉仮名と呉音

・万葉仮名「伊都」(古事記)、(日本書紀)、(播磨国風土記)
・万葉仮名「都」(日本国語大辞典) ・邪馬台国の読み方 ・万葉仮名「と」(記紀)
・万葉仮名「台」(日本書紀) ・万葉仮名「臺」(続日本後紀)

・七言絶句平起式(早發白帝城 李白) ・七言律詩仄起式(登高 杜甫) ・邪馬壹國こそなかった

 

●「邪馬台国研究 戦後の諸問題2」 (第二部) 

 「記紀と筑豊の古伝承」の関りを後半、詳しく述べていく。

 11月1日の田川古代史フォーラムにも出したが、「田川の語源は鷹羽 天武が隠した鷹羽の神々」という事で、香春町の北方にある龍之鼻権現縁起であるから最初から筑豊(田川)の古伝承である。
 この縁起の中で大事な所は、「彦山に田心姫命がいるので、田心乃国と云った」とある。次に「其山に三乃あやしき峯(英彦山)ありて鷹・・・鷹の羽乃落ちたる所かならず幸あればとて、落ちるかぎりの里を又鷹羽郡と云」。それを「白鳳の比(天武天皇の頃)おひよりや、田川郡と名付た」事は、「田と河」で十分であるからという事を言った。
 つまり、天武天皇が鷹羽の神々。鷹羽の地名その物を隠したという古伝承である。これも筑豊(田川)の古伝承の一つである。

記紀と筑豊の古伝承
田川の語源は鷹羽
 天武が隠した鷹羽の神々
豊前州田川郡龍之鼻権現縁起
木村晴彦『香春・英彦山の歴史と民俗』所収
 筑紫の国は身ひとつにして面よつあり、
其ひとつを豊国豊比咩(とよひめ)とも又は豊日別(とよひわけの)
(つま)
ともいへり、その国に郡八あり第一乃
彦の山あり、田心姫(たごりひめ)います故に其
所を田心(たごり)乃国と云しとかや、其山に三乃
あやしき峯
ありてつねにすめり、此鳥
今の龍が鼻と云へる所にやゝもすれば、
かけり行ぬ、其あいだ、鷹の羽乃落ちた
る所かならず幸あれば
とて、落ちるかぎ
りの里を又鷹羽郡と云
ける
が、白鳳の(ころ)
おひ
よりや、田川郡と名付たる
といへる
事は、田と河とのたれる所なればなり、
※  鳳元年((673))  ~  十三年( (685))

 

 彦御山宝印より鷹羽の神々について、古事記の冒頭にある別天神五柱の中の三柱の神が、元々は英彦山に祭られていた神であると、ここ1、2年のテーマとして言い続けている。

彦御山宝印-天御中主
『古事記』 別天神五柱
 天地初めて發けし時、高天原に成
りし神の名は、天之御中主神、次に
(鷹)御産巣日神、次に神産巣日
、この三柱の神は、みな獨神と成
りまして、身を隱したまひき。
「彦御山宝印」

 

 この古事記の大国主の系譜については、前回は出さなかったが、この系譜にある赤枠で囲んだ「大国主の神」の所に入るのは、「大物主神」である。
 多紀理毗売の命は、大物主神の妻である。したがって、古事記には、大国主神が書かれているが、これは間違いである。大国主神は、大物主神の子孫という事で、系譜のズーッと後に行かないといけない。大物主神から大国主まで十七代くらいあると言った。
 大物主神が、最初に(やまと)国を造ったので、大倭國という言い方がある。これが、後に大和となって、我々が良く知る宇宙戦艦「大和」(戦艦「大和」)にもなった。

倭国の始まり-倭成なす大物主
 次に掲げる系図は古事記の大国主の系譜であるが、これも改竄の跡があり、もともと大物主から始まる系譜であったようだ。
 大国主は最低でも十七代後の子孫であろう。「大倭國」は数百年続いたようである。
「古事記の大国主の系譜」

 

 当初の無料動画の部分の説明は終了。 その後、ページ作成出来ていません。

 

 「偽史はどっちだ⁉」。教科書ですか? 私ですか? 以上で終わります。