「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題2

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より

墨で漢字を書く文化 / 記紀中の「漢字の音訓」

 11月1日の田川古代史フォーラムでも話したが、行橋市の下稗田遺跡から出土している硯の中から紀元前150年の硯が発見された。國學院大學客員教授の栁田康雄さんの業績である。
 また、飯塚市の立岩遺跡からは刀子が出土しているが、その刀子は、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具であると言っている。
 その事から言えば、紀元前から墨で漢字を書く文化があったという事になる。この下稗田遺跡自体が、紀元前150年の遺跡であるから、そのころから豊国では、墨で漢字を書く文化があったと考古学の先生の言う事を真に受ければそのようになる。

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、
國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国
から国内最古級のすずりを再発見された。
 下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調
査、その中から3点のすずりを確認された。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土
している。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さ
んによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらそ
の個所を削るための道具ということだ。
 同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、
賀川流域
から京築方面にわたって、確実に「紀元前
から墨で漢字を書く文化
」があったことになろう。

上:すずり
下:鋳造鉄斧

 

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
 鉄剣・鉄矛・刀子・絹
立岩遺跡の「前漢式鏡」

前漢式鏡

鉄剣・鉄刀の柄に絹

 

 天満倭国=倭奴國が、福岡県に興る。その事を書いているのが『後漢書』倭国伝である。後漢の建武中元二年であるから、紀元後57年に倭奴国が貢を奉りて朝賀する。
 その時に、光武帝より授かったのが、有名な「漢委奴国王」の金印である。

 当時は、まだ紙がないので倭奴国では、木簡に墨で書いて木簡を簾のように巻物にして、一番外側に封泥(ふうでい)という粘土塊で封緘(ふうかん)をする。
 その封泥にこの金印を押して、国書として倭奴国と後漢のやり取りをしていた。11月1日の田川古代史フォーラムの時にもそうした文化を確認した訳である。

天満倭国=倭奴國の成立
 ② 墨で漢字を書く国家
 これらに関連するのが『後漢
書』倭国伝の次の一節である。
 建武中元二年、((五七年))倭奴国
貢朝賀す。使人自ら大夫
称す。
 倭国の極南界を極むるや
、光武賜うに
印綬を以てす。

 安帝の永初
元年((一〇七年))倭国
王帥升等、生
口百六十人を
献じ請見を願
う。
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」
金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」

 

 次に、いよいよ文献に入る。古事記・日本書紀に用いられている「漢字の音(声)と訓(読み)」である。まず、古事記序文にある古事記成立について、下記の原文に青字、赤字で示したように「音」、「訓」という言葉が見えている。

記紀、その「漢字の
於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因述者、詞不逮心、全以連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用、或一事之內、全以錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下玖沙訶、於名字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
『古事記』「序文」

 

 原文では、解り難いので書き下し文を持ってきた。

記紀中の「漢字の音訓」
 (ここ)舊辭(ふるきことば)の誤り(たが)へるを惜しみ、先紀の(あやま)(まじ)ふるを正さむと、和銅四年九月十八日を以ち、臣安萬侶(やすまろ)に詔りたまはく、稗田(ひえだの)阿禮(あれ)()める勅語の舊辭を撰ひ録して、獻上(たてまつ)れとのりたまへば、謹みて詔の(むね)のまにまに、子細(こまやか)に採り(ひり)ひつ。
 然れども上古の時、言と意と(みな)(すなほ)にして、文を敷き(ことば)を構ふること、字にはすなはち難し。
 (すで)(よみ)に因りて述ぶれば、(ことば)は心に(およ)ばず。
 全く(こゑ)を以ち連ぬれば、事の(おもぶき)更に長し。
 (ここ)を以ち、今、或るは一つの句の中に、とを交へ用ゐ、或るは一つの事の内に、全く訓を以ち(しる)しつ。
 すなはち(ことば)(すぢ)の見え(がた)きは、(いれしる)すを以ち明かし、(こころ)(おもぶき)の解しり易きは更に(いれしる)さず。
 また(うぢ)日下(にちげ)玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に(たい)の字を多羅斯(たらし)といふ。()くの如き(たぐひ)は、(もと)のまにまに改めず。

 稗田阿禮については、先ほど紹介した行橋の下稗田遺跡の近くの土地にいた人物だと考えている。

 書き下し文の「上古の時、言と意と(みな)(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字にはすなはち難し。」は、「昔の言葉は、素直であるがゆえに字にすると中々表現し難い」と書かれている。
 続いて「全く音を以ち連ぬれば、事の趣更に長し」は、「結局、音だけを写して書いていくと、滅茶苦茶長くなってしまう」とあり、「一つの句の中に、(こえ)(よみ)とを交へ用ゐ」、或る時は「一つの事の内に、全く訓を以ち(しる)しつ」とある。
 すなわち「(ことば)(すじ)の見え(がたき)は、(いれしる)すを以ち明かし(=注釈を付けた)」とある。また、「(こころ)(おもぶき)の解しり易きは更に(いれしる)さず」とある。

 次が、具体例で重要である。
 (うぢ)の日下(音読み:ニチゲ)を玖沙訶(くさか)と謂う。この玖沙訶は、万葉仮名である。名の帶(タイ)の字を多羅斯(たらし)という。
 神功皇后を息長帯姫(おきながたらしひめ)大神という時の(たらし)である。

 「()の如き類は、本のまにまに改めず」という事で、太安万侶が、きちんと古事記は、こう表記した。音と訓両方用いたとハッキリ書いている。
 ところが、現在の邪馬台国研究をする人たちは、古事記や日本書紀の中の漢字を読んでくれない。
 太安万侶が、日本書紀の編纂にも関わっていることは、以前にも述べている。太安万侶が、日本書紀とどのように関わったかというと、私はたぶん、表記の仕方の所で大いに関わっていると考えている。
 ここに記された具体例が示す通りである。「日下(にちげ)」を「玖沙訶(くさか)」謂い、「(たい)」の字を「多羅斯(たらし)」と謂うこれだけを覚えておいて貰っても結構である。

 

 万葉集などで用いられている国語学の中で言われる万葉仮名と呉音という古い中国語が、非常に関わってくる。これが、邪馬台国研究とどのように関わっていくか。

 熟田津尓(にぎたつに) 船乗世武登(ふなのりせむと) 月待者(つきまてば) 潮毛可奈比沼(しほもかなひぬ) 今者許藝乞菜(いまはこぎいでな)

 この中にある万葉仮名は、「世武登(せむと)」、「毛可奈比沼(もかなひぬ)」というように漢字で仮名を表している。万葉仮名が、古事記や日本書紀にも使われいる事に注意をしょう!

万葉仮名と呉音
 万葉仮名は、主として上代日本語を表記するために漢字を借用して用いられた文字のことである。
 『萬葉集』での表記に代表されるため、この名前がある。

α

 『古事記』や『日本書紀』の歌謡訓注などの表記も『万葉集』と同様である。
 『古事記』にはすべて呉音が、森博達氏の云う『日本書紀』 には時折、漢音が反映されている。
「万葉集八番歌」(熟田津尓 船乗世武登  月待者  潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜)