「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題2

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より

万葉仮名「伊都」 / 邪馬台国の読み方

 万葉仮名の「伊都」は、邪馬台国研究と深く関わってる。何度も言ってきているが、「伊都」は「いつ」と読む。下記は古事記の中から「伊都(いつ)」の用例を中巻の垂仁天皇記まで追いかけて取り上げたものである。

万葉仮名「伊都(いつ)(古事記)
伊都之尾羽張 ― イツのおはばり
(上巻 伊耶那岐命と伊耶那美命 伊耶那美命の死)
② 阿曇連等之祖神以伊都久神也 ― もちイツ
(上巻 伊耶那岐命と伊耶那美命 みそぎ)
③ 所取佩伊都之竹鞆而 ― イツのたかとも
(上巻 天照大御神と須佐之男命 須佐之男命の昇天)
伊都之男建 ― イツのをとたけぶ
(上巻 天照大御神と須佐之男命 須佐之男命の昇天)
⑤ 以伊都久三前大神者也 ― もちイツ
(上巻 天照大御神と須佐之男命 うけい)
伊都岐奉于倭之青垣東山上 ― イツきたてまつれ
(上巻 大国主神 大国主神の国造り)
伊都之尾羽張神 ― イツのおはばりの神
(上巻 忍穂耳命と邇々芸命 建御雷神の派遣)
伊都岐奉 ― イツきたてまつれ
(上巻 忍穂耳命と邇々芸命 天孫降臨)
伊都能知和岐知和岐弖 ― イツのちわきちわきて
(上巻 忍穂耳命と邇々芸命 天孫降臨)
⑩ 近淡海之御上祝以伊都久天之御影神 ― もちイツ
(中巻 開化天皇)
⑪ 葦原色男大神以伊都久之祝大庭手 ― もちイツ
(中巻 垂仁天皇 本牟智和気の御子)
 右の何例かは、「伊都二字は(もち)いよ」などとの割注が
ついている。すなわち、わざわざ「イツ」と読めとあるので
ある。

 「伊都二字は音を(もち)いよ」と万葉仮名の「伊都(いつ)」を知っていた太安万侶が、古事記の序文に音と訓で表記したと書いている。
 我々は、当然、古事記の中で「伊」と「都」の組み合わせは、「いつ」と読んでいて一つも例外が無いから、魏志倭人伝の中にでてくる「伊都国」は、「いと国」ではなく「いつ国」と読むべきだと言い続けた訳である。
 太安万侶は、8世紀の人物であり、古事記が完成したのは、713年である。この時点で「伊都」は、全て「いつ」である。だから、魏志倭人伝の「伊都国」も「いつ国」ではないですか。「伊都(いつ)国」以外の読み方は、無いと思う。

 

 日本書紀にある万葉仮名「伊都」の用例である。垂仁紀にある都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の記事である。

万葉仮名「伊都(いつ)(日本書紀)
 一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦。故號其處角鹿也。問之曰、何國人也。對曰、意富加羅國王之子、名怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智干岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人。名伊都都比古。謂臣曰、吾則是國王也。除吾復無二王。故勿他處。然臣究見其爲人、必知王也。既更還之。不道路、留連嶋浦、自北海廻之、經出雲國於此間也。
(垂仁天皇二年)
鶴我家(香春町)の家系図
香春町の鶴我家系図(始祖 阿羅斯等)

 崇神天皇の時に、都怒我阿羅斯等が角鹿(敦賀)へ行った記事である。意富加羅國から来た都怒我阿羅斯等を最初に迎えた王が、伊都都比古(いつつひこ)である。

 余談になるかも知れませんが、香春町に鶴我さんという家がある。その鶴我家に伝わる家系図に、「鶴我家」と書かれた下に「都怒我号角鹿」、「敦賀大神」と書かれている。その系図の始祖は、「阿羅斯等」と書かれているから「都怒我阿羅斯等」となる。
 日本書紀の垂仁天皇紀に出てくる名前をピタッと重なっている。現在の香春町の鶴我家は、この系図はもちろん本物だと思うが、本物であれば日本書紀に出てくる都怒我阿羅斯等のご子孫の方が香春町にいらっしゃる事になる。これは、現地伝承である。

 

 ひつこい位、万葉仮名「伊都」について述べる。今度は、『播磨国風土記』にある「伊都」の用例である。

万葉仮名「伊都(いつ)(播磨国風土記)
揖保の郡 石海里(いはみのさと)
 伊都(いつ)伊都と称ふ所以は、御船の水手(かこ)(ども)云ひしく、「何時(いつ)かこの見ゆる所に到らむかも」といへり。
 故、伊都と曰ふ。
 伊都村伊都というわけは、皇后のお召し船の水夫らが言ったことには、「将来のイツ(何時)か、この見えているところに行き着いて暮らしたいものだなあ。いい村だ」と言った。
 だから伊都というのである。

 「何時(いつ)か・・・ここに着いて」とある。だから、伊都(いつ)村という。と書かれている。ここにある「伊都」を誰が「いと」と読みますか?
 日本の古典(古事記・日本書紀・風土記等)のあらゆる所から引き出しても「伊都」は全部「いつ」である。「いと」と読んだ例はひとつも無い。
 「伊都」を魏志倭人伝だけで解いてはいけないという私の主張の根拠である。

 

 日本国語大辞典に載っている万葉仮名「都」については、11月1日にも出したが、「()」という字から平仮名「つ」もカタカナ「ツ」も出来ていると当たり前の事を述べただけである。

万葉仮名「()(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)

 

 「邪馬台国」の読み方についても何度も出している。次は、日本武尊が、伊吹山の神に敗れて能煩野(のぼの)で亡くなっていく時に読んだ思國歌(くにしのひうた)である。

 倭(夜麻登)は 國のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし

 ここに示した古事記では、「倭」以外は原文を外しているが、「やまと」は「夜麻登」とある。「と」に「登」の字を使っている。

 ところが、日本書紀の景行天皇紀にある同じ倭歌では、「夜摩苔波」の「と」に「苔」の字を使っている。

 夜摩苔波(やまとは) 區珥能摩倍邏摩(くにのまへらま) 多多儺豆久(たたなずく) 阿烏伽枳(あおかき) 夜摩許莽例屢(やまこもれる) 夜摩苔之(やまとし) 于屢破試(うるはし)

 と書かれている。「と」は「苔」の字である。「台」の字に「艹」が付いた「苔」の字でも「と」である。ここに注目をしてもらいたい。

邪馬()国の読み方
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那藝の
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置きて、()
服岐能(ふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
(伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國を思
ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻は 國のまほろば たたなづく
 青垣 山ごもれる しうるはし
夜摩波 區珥能摩倍邏摩 多多儺豆久
 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩之于屢破試」
景行天皇紀十七年)
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群(へぐり)の山の
 熊樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
『古事記 景行天皇記』

 

 古事記と日本書紀の中で、万葉仮名「と」に使われている字の統計を取られた方がいる。古事記で一番使われているのは、先ほどの「倭(夜麻登)」の「登」の字である。
 日本書紀での「と」の字に一番使われているは「等」で、2番目が「苔」の字である。「夜摩苔波(やまとは)」の「苔」である。

万葉仮名「(記紀)
万葉仮名「と」の使用例表

 

 日本書紀のもう一つの用例は、かなり古い神代の「巻一 第七段 一書第三」にある。

 注の部分に「興台産靈」は「此云許語等武須毘(こごとむすび)」とある。万葉仮名で「と」の字に「等」が使われている。原文に「興台産靈」とある「台」の字は、明らかに「と」である。
 いつも言っているように私は、何も創作をしていない。これは、日本書紀に書かれている事をそのまま出しただけである。
 したがって、「台」の字は、「と」と読む。注釈に所に万葉仮名で「等」の字が使われているから明らかである。

万葉仮名「()(日本書紀)
 至於日神、閉居于天石窟也、諸神遣中臣連遠祖興産靈兒天兒屋命、而使祈焉。
 日神(ひのかみ)(あめの)石窟(いわや)(こも)(いま)すに至りて、(もろもろ)の神、中臣連(なかとみのむらじ)が遠つ(おや)(こご)()産靈(むすび)(みこ)天兒屋命(あめのこやねのみこと)(つか)はして祈らしめき。
産靈、此云許語武須毘
(巻一 第七段 一書第三)

 

 万葉仮名に「台」の旧字の「臺」が使われている用例が、時代がずーっと下った平安時代の続日本後紀の中にある。仁明天皇の40歳のお祝いの時に興福寺の大法師が言祝(ことほ)ぎをした。
 そこで、長歌を歌っているが、その出だしの「日本乃」に「ヤマト」と書かれているが、本来は「日本乃(ヒノモトノ) 野馬臺能國遠(ヤマタイノクニヲ)」という文句で始まっている。「ヤマト」の「と」に使われている「臺」は、「台」の旧字である。
 平安時代においてもまだ、「臺」という字を「と」という音仮名に使っている。

万葉仮名「()(続日本後紀)
「続日本後紀」(野馬臺)

 私は、講演において「臺(台)」の字を「と」と読むと簡単に言ってきたが、これだけ広範囲に日本の古典を読み続けて、このような用例を拾い出して、これを根拠にして講演で述べている。
 講演の中で、古典の原文の中身ばかりを言っていると嫌がられる思うので、あっさりと邪馬台国の「台」は「と」読むんだとしか言わないのである。