「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より
「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」(要約)
オカルト歴史が「日本遺産」に!? 全国に広がる「偽史」町おこし。という「卑弥呼連邦」に対する非難文章が出た。
これに反論する形で、「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」を出した。
オカルト歴史が「日本遺産」に!?
全国に広がる「偽史」町おこし
単なる山を「卑弥呼の墓」と自治体首長が猛アピール
11月1日「邪馬台国は福岡・筑豊の田川地域にあった」と福岡県田川市など地元8市町村の首長が揃って宣言し誕生したのが、田川市など筑豊地域の地域共通のシンボル「卑弥呼連邦」だ。
地元の文化財関係者に訊ねたところ、言葉を選びながらも「それほどの規模の古墳があれば、周辺地域に関連する古墳や遺跡があるはずなのですが、そうしたものはありません」というのであった……。
田川広域観光協会は、こう答えた。
「西日本新聞の記事にもありましたが――厳しいです。地元にそう主張するグループがありまして……発掘調査の予定? まったくありませんよ」なにか言いたげだがいえない。そんな印象が残った。
<取材・文・撮影/昼間たかし>
教科書から削られた「神武~神功」で、前回は読まなかった所が、大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の括弧書きの部分で、「その築造には、全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。」と記されている。これについて、私は気が付いている。
教科書から削られた「神武 ~ 神功」
《前期・中期の古墳》
最大の規模をもつ古墳は,中期に造営された大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)で,前方後円形の墳丘の長さが486mあり,2~3重の周濠をめぐらしている。
さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢
が営まれた区域をも含めると,その墓域は80haにもお
よぶ。(その築造には,全盛時で1日当たり2000人が
動員されたとして,延べ680万人の人員と,15年8ヵ
月の期間が必要であったと計算されている。)
第2位の規模をもつ大阪府の誉田御廟山古墳(応神
天皇陵古墳)などとともに,5世紀のヤマト政権の大
王の墓と考えられる。
※ 「応神天皇以後の大和王朝近畿説」の強調
全古墳は自然地形の加工して造られているというのが、我々の立場である。したがって、教科書に書かれている「その築造には、全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。」は、教科書の大ウソである。
何故かというと、全国の前方後円墳は地全地形を加工したものに過ぎない。この教科書の解説は、あたかも平らな土地に土を盛ってこれだけの労働力とこれだけの歳月を費やして造ったというあくまでも机上の計算である。
ハッキリ言って大嘘である。
前方後円墳を平地から土を盛り上げて造るのであれば、エジプトのピラミッドのように一定の方向、何処か聖なる地に向かって方向を揃えることが出来るハズである。
ところが、百舌鳥エリアの航空写真で見られるように古墳の向きが、バラバラである。また、堺市博物館に展示している資料の百舌鳥古墳群の全体図には、かつて町が開ける前には自然丘陵がちゃんと描かれている。
我々が知る所の伝仁徳天皇陵古墳でも良いが、自然の地形をある程度利用して、それを少しだけ加工して造った物だという事が直ぐに判る。
三国志のイデオロギーの中で、東鯷人を出して、魏志倭人伝だけでは解けないと話した。東鯷人(東鯷国)は、教科書の中には、出てこない。
三国志呉書「孫権伝」の中に、後漢書 東夷伝倭国に書かれているほぼ同じ記事が出てくると話した。
卑弥呼の時代の東アジアの地図で、北部九州を中心に倭国があり、地図には書かれていないが、倭国の南側に狗奴国がある。
東鯷人の国は、近畿地方にあったとの見解を出している。
当然、卑弥呼が魏から貰った鏡(魏鏡)は、後漢式鏡と同じあり内行花文鏡であると何度も言った。写真は、福智町から出土した内行花文鏡で、地図にあるように福岡から多くの内行花文鏡が出土している。また、近畿の側である山梨県からは、呉の年号である赤烏元年の銘がある神獣鏡が出土していることも説明した。
魏志倭人伝だけでは解けないと言う事で、三国志呉書あるいは後漢書 東夷伝倭国等を読んでいくと当然、倭国と東鯷国という日本列島にあった二国の関係を考えなければいけない訳である。
倭国(邪馬臺国)が、当然九州にあったと言っているから、日本書紀にある箸墓が卑弥呼の墓ではないかとして、赤村内田にある前方後円型地形をあげている。
これを自然地形だと言うのは結構である。ただ、少し加工が施されているから、古墳ではないのかと我々は言っているだけである。
むすびにはっきりと持ってきた。偽史はどっちだ⁉
色々な説に騙されない為にも原文を読もう!と呼びかけた。文字にはしなかったが、最後に偽史は教科書ですか? 我々ですか? と問いかけた訳である。
以上が、前回の「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」の要約である。