「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬台国研究 戦後の諸問題2

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より

「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」(要約)

教科書「邪馬台国論争の地図」
令和二年霜月二〇日収録
第18回 古代史講座
主催:田川広域観光協会
撮影・編集:豊の国古代史研究会
  記紀万葉研究家 福永晋三
邪馬台国研究
    戦後の諸問題

 

 オカルト歴史が「日本遺産」に!? 全国に広がる「偽史」町おこし。という「卑弥呼連邦」に対する非難文章が出た。

 これに反論する形で、「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」を出した。

オカルト歴史が「日本遺産」に!?
     全国に広がる「偽史」町おこし

単なる山を「卑弥呼の墓」と自治体首長が猛アピール

 11月1日「邪馬台国は福岡・筑豊の田川地域にあった」と福岡県田川市など地元8市町村の首長が揃って宣言し誕生したのが、田川市など筑豊地域の地域共通のシンボル「卑弥呼連邦」だ。

 地元の文化財関係者に訊ねたところ、言葉を選びながらも「それほどの規模の古墳があれば、周辺地域に関連する古墳や遺跡があるはずなのですが、そうしたものはありません」というのであった……。

 田川広域観光協会は、こう答えた。
 「西日本新聞の記事にもありましたが――厳しいです。地元にそう主張するグループがありまして……発掘調査の予定? まったくありませんよ」なにか言いたげだがいえない。そんな印象が残った。

<取材・文・撮影/昼間たかし>

 

 教科書から削られた「神武~神功」で、前回は読まなかった所が、大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の括弧書きの部分で、「その築造には、全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。」と記されている。これについて、私は気が付いている。

(一)教科書の古代史

教科書から削られた「神武 ~ 神功」

《前期・中期の古墳》
 最大の規模をもつ古墳は,中期に造営された大阪府の大仙陵古墳仁徳天皇陵古墳)で,前方後円形の墳丘の長さが486mあり,2~3重の周濠をめぐらしている。
 さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢
が営まれた区域をも含めると,その墓域は80haにもお
よぶ。(その築造には,全盛時で1日当たり2000人が
動員されたとして,延べ680万人の人員と,15年8ヵ
月の期間が必要であったと計算されている。)
 第2位の規模をもつ大阪府の誉田御廟山古墳(応神
天皇
陵古墳)
などとともに,5世紀のヤマト政権の
の墓
と考えられる。

「大仙陵古墳」

※ 「応神天皇以後の大和王朝近畿説」の強調

 

 全古墳は自然地形の加工して造られているというのが、我々の立場である。したがって、教科書に書かれている「その築造には、全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。」は、教科書の大ウソである。

 何故かというと、全国の前方後円墳は地全地形を加工したものに過ぎない。この教科書の解説は、あたかも平らな土地に土を盛ってこれだけの労働力とこれだけの歳月を費やして造ったというあくまでも机上の計算である。
 ハッキリ言って大嘘である。

 前方後円墳を平地から土を盛り上げて造るのであれば、エジプトのピラミッドのように一定の方向、何処か聖なる地に向かって方向を揃えることが出来るハズである。
 ところが、百舌鳥エリアの航空写真で見られるように古墳の向きが、バラバラである。また、堺市博物館に展示している資料の百舌鳥古墳群の全体図には、かつて町が開ける前には自然丘陵がちゃんと描かれている。
 我々が知る所の伝仁徳天皇陵古墳でも良いが、自然の地形をある程度利用して、それを少しだけ加工して造った物だという事が直ぐに判る。

全古墳は自然地形の加工

 その築造には、全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。

※ 教科書の大ウソ

「地図(百舌鳥エリア)」
「百舌鳥古墳群の全体図」

 

 三国志のイデオロギーの中で、東鯷人を出して、魏志倭人伝だけでは解けないと話した。東鯷人(東鯷国)は、教科書の中には、出てこない。

(四)三国志のイデオロギー
後漢書 東夷伝 倭国
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國
又有夷洲及澶洲
 会稽(かいけい)海外に、東鯷(とうてい)あり、分かれて
二十余国を為す。また、夷州および
あり。
 伝え言う、「秦の始皇、方士(ほうし)徐福(じょふく)
遣わし、童男女数千人を(ひき)いて海に入
り、蓬莱(ほうらい)神仙(しんせn)を求めしむれども得ず。
徐福、誅を畏れて還らず。遂にこの州
に止まる」と。
 世世相承け、数万家あり。人民時に
会稽に至りて市す。会稽の東冶(とうや)の県人、
海に入りて行き風に遭いて流移し澶州
に至る者あり。所在絶遠にして往来す
べからず。

 

 三国志呉書「孫権伝」の中に、後漢書 東夷伝倭国に書かれているほぼ同じ記事が出てくると話した。

(四)三国志のイデオロギー
二三〇年将軍衛温・諸葛直を遣はし、
  甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州

  (推定狗奴国)および亶州(推定
  東鯷国)を求む
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
「三国志呉書「孫権伝」黄竜二年の原文」

 

 卑弥呼の時代の東アジアの地図で、北部九州を中心に倭国があり、地図には書かれていないが、倭国の南側に狗奴国がある。
 東鯷人の国は、近畿地方にあったとの見解を出している。

(四)三国志のイデオロギー
卑弥呼の時代の東アジア
後漢時代の地図(朝鮮半島・西日本を含む)

 

 当然、卑弥呼が魏から貰った鏡(魏鏡)は、後漢式鏡と同じあり内行花文鏡であると何度も言った。写真は、福智町から出土した内行花文鏡で、地図にあるように福岡から多くの内行花文鏡が出土している。また、近畿の側である山梨県からは、呉の年号である赤烏元年の銘がある神獣鏡が出土していることも説明した。

「写真」

内行花文鏡Ⓒ福智町

「写真」

赤烏元年鏡Ⓒ山梨県

卑弥呼の鏡=内行花文鏡

 

 魏志倭人伝だけでは解けないと言う事で、三国志呉書あるいは後漢書 東夷伝倭国等を読んでいくと当然、倭国と東鯷国という日本列島にあった二国の関係を考えなければいけない訳である。

倭国東鯷国
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く
    (この後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝を廃し、
    魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州(狗奴国)
    州(東鯷国)
に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元年銘神
    獣鏡
山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国卑弥呼に「親魏倭王」印を仮授す
    (東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ
二六六 倭国(邪馬臺国)臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」を編む)

 

 倭国(邪馬臺国)が、当然九州にあったと言っているから、日本書紀にある箸墓が卑弥呼の墓ではないかとして、赤村内田にある前方後円型地形をあげている。
 これを自然地形だと言うのは結構である。ただ、少し加工が施されているから、古墳ではないのかと我々は言っているだけである。

(五)魏志倭人伝と日本書紀
二四七年 其の(正始)八年、太守、王頎官に到
 る。倭女王卑弥呼狗奴国王卑弥弓呼素より和
 せず。、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
 撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、
 因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄
 を為りて之を告諭す。
(魏志)
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
航空写真「赤村内田の前方後円型地形」

 

 むすびにはっきりと持ってきた。偽史はどっちだ⁉

 色々な説に騙されない為にも原文を読もう!と呼びかけた。文字にはしなかったが、最後に偽史は教科書ですか? 我々ですか? と問いかけた訳である。
 以上が、前回の「邪馬台国研究 戦後の諸問題1」の要約である。

むすび 偽史はどっちだ⁉
原文を読もう!
「倭国伝」(後漢書)冒頭部分
本「倭国伝」(藤堂明保・竹田晃・影山輝國)

 

むすび 偽史はどっちだ⁉
「古事記」(神武天皇記) 冒頭部分
本「古事記」(中村啓信)

 

むすび 偽史はどっちだ⁉
「日本書紀(一)」(神武天皇紀)冒頭部分
本「日本書紀(一)」(岩波文庫)