「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる ②)
赤村の岩石山(國見丘)に八十梟帥を破った後、添田町と通過し川崎町の天降神社(菟田穿邑)へ戻り、そこから嘉麻方面に向かう為に、擂鉢山(帝王山)を越える。
次に行く小野谷(現嘉穂郡宮野村)は、現在の嘉麻市小野谷の高木神社がある場所である。
一、帝王越(帝王山の山の尾をいふ)
川崎町(田川)から嘉麻市(嘉麻水系)に入った。
一、小野谷(現嘉穂郡宮野村)
一、神武山(同宮野村、熊田村)
一、馬見山(同、足白村)
一、天降八所神社(同、頴田村)/ 一、鳥居(同)
馬見山辺りから飯塚市佐與の天降八所神社へ向う。少し西に立岩丘陵がある。
磯城彦(兄磯城)は、立岩(飯塚市の立岩丘陵)の主である。使者に名前が書かれていないが、現地伝承と合わせると馬見神社の主駒主命である。
天神の子とあるが、これは神武天皇である。また、天壓神とあるが、これも神武天皇である。
兄倉下・弟倉下は、鞍手の人である。
一、杉魂明神(同)/ 一、佐與(同)
ここに出てくる「菟田川」は、中元寺川である。
日本書紀の「天皇其の策を善めて」の部分が、射手引神社社伝の「佐與:天皇の靈跡―佐與計牟(そうするがよかろう)の約言」の事で、佐與という地名の謂れの一つだと思われる。
天皇がそれは良い考えがだと言った椎根津彦の策は、立岩丘陵にいる磯城彦を攻める前に一旦、川崎町(田川)に戻って、先に女坂・男坂・墨坂を攻めるように進言したようだ。
一、天降八所神社(同、頴田村)
※1
日尾山:福智町神崎の日王山
※2
道主貴 = 宗像三女神
※3
「天皇諸兄」とあるので、この時にはまだ、二人の兄である次男の稻飯命。三男の三毛入野命と一緒である。
※4
「然らば善からむ」の原文(漢文)は、「然善」の2字である。この「然善」を「佐与計牟」と読んだのかも知れない。尚、由緒の原文は、天降八所神社のページに掲載しています。
この浮世絵は、天降八所神社縁起の「日尾の頂から霊鳥が西南に遙かに飛び去る所を烏尾という」と書かれているように描かれている。
日本書紀にある「大きなる兵」は、神武天皇軍。その神武軍を待ち構える。神武を待ち構える軍がいる所が、香春(田川)方面の男坂・女坂・墨坂である。
神武軍は、立岩丘陵の磯城彦を牽制しながら一旦、田川方面に戻るようである。
日本書紀にある「毒氣」の記事は、天降八所神社縁起にある「気頻り」の記事が一致している。だから、烏尾峠を越えると田川に出る。そこの何処かに墨坂の地があったハズである。
日本書紀の前述に「炭の火に灌きて」とあったように多分、石炭を燃やしている。神武軍は、その近くに居て、気流の関係か何かで二酸化中毒になったのではないかと考えた。
墨坂の戦い(福永説)
二酸化炭素は空気など地球の環境中にごくありふれた物質で、その有毒性が問題となることはまずない。
しかし、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、ヒト(人間)は危険な状態に置かれる。濃度が 3 - 4 % を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7 % を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う。
この状態が継続すると麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る(二酸化炭素中毒)。
比較的苦痛を感じないまま死に到るとされ、脊椎動物の屠殺や殺処分の法規制においては、二酸化炭素による安楽殺のみが許されることも多い。
(ウイキペディア)
※5
日本書紀では、「宴饗」と書いて何故か「とよのあかり」と読む。宮中の大宴会場が、豊明殿である。
①頴田村、②烏尾峠、③田河、④奈良、⑤弓削田村、⑥県立西田川高等学校
この地図の北が香春岳(天香山)。南が川崎町の天降神社(菟田の穿邑)の位置関係となる。ここに女坂・男坂・墨坂があったと思われる。
射手引神社社伝・東征コースの順序を入替え
神武軍は、田川の敵に勝利した後、再度、烏尾峠を越えて、飯塚方面に戻ってくる。
一、鹿毛馬(同)/ 一、嚴島神社(同)