「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「伍」)

第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる  ②)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 冬十月の癸巳(みづのとのみ)(ついたち)に、天皇、先づ八十梟帥國見丘赤村岩石山)に擊ちて、破り斬りつ。天皇獨り、皇子手研(たぎし)(みみの)と軍を(ひき)ゐて進む。既にして皇師(みいくさ)中洲(なかつくに)(おもむ)かんと欲す。
(日本書紀)
 馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ田川郡吾勝野に迎へて足白の駿馬を献じ、因て奏して曰く、是より應に導き奉る可し、宜しく先づ着行すべし、臣が馬は野の牧馬にして發行に奉るなり
(擊鼓神社古縁起)
一、帝王越(帝王山の山の尾をいふ)
一、小野谷(現嘉穂郡宮野村)  
  迷路を質すべく高木の神を祭りたまふ

 赤村の岩石山(國見丘)に八十梟帥を破った後、添田町と通過し川崎町の天降神社(菟田穿邑)へ戻り、そこから嘉麻方面に向かう為に、擂鉢山(帝王山)を越える。
 次に行く小野谷(現嘉穂郡宮野村)は、現在の嘉麻市小野谷の高木神社がある場所である。

 

一、帝王越(帝王山の山の尾をいふ)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
「写真」

帝王山(摺鉢山)

 川崎町(田川)から嘉麻市(嘉麻水系)に入った。

 

一、小野谷(現嘉穂郡宮野村)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 馬見神社々記によると、天皇はこの往復の途中、山田の邑及び宮野足白を通過されたものと思われる。また、小野谷神社々記によると、  
 昔神武帝東征の時、宇佐島より高羽田川を経て筑紫の岡田に出で給う途次、山田の邑熊田村を過ぎ宮野の邑躬親(みずか)高皇産霊神(いつ)き祀れり
とある。
「高木神社(小野谷)」
「高木神社(小野谷)」
高木神社(小野谷)

一、神武山(同宮野村、熊田村)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、神武山(同宮野村、熊田村)  
   カムタケ山といひしが今は單に神山と
  いふ
高木神社社伝(嘉穂郡山田町大字熊畑字政處)
 神産霊大神は神武天皇東征の時、宇佐島より田河邊を経て筑紫の国の岡田宮に出御の途次、山田邑の山路より此の村を過ぎ給ひて躬親ら斎き給ふ所の神なり、因りて此の山を号して神武山と云ふ。今神山と云ふは略称なり。
「高木神社(嘉穂郡山田町大字熊畑字政處)」
「高木神社(嘉穂郡山田町大字熊畑字政處)」

高木神社(嘉麻市熊ヶ畑)

一、馬見山(同、足白村)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、馬見山(同、足白村)
   天孫ニニギの尊の靈跡を訪ね、降臨
  供奉の臣馬見物部の裔駒主命を東道役
  とし給ふ
馬見神社
(嘉麻市馬見)
「馬見神社」
「馬見神社」
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
「馬見神社由緒」
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
「馬見神社由緒」

馬見山

屏山

古処山

一、天降八所神社(同、頴田村)/ 一、鳥居(同)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、天降八所神社(同、頴田村)  
   皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現
  して進路を教へ給ふ
一、鳥居(同)  
   前記八所神社附近の地名、靈烏
  伊那和』と鳴きて皇軍を導いた土地
「天降八所神社」
「天降八所神社」
天降八所神社(飯塚市佐與)
「馬見神社由緒」

馬見山

馬見神社●

立岩

 馬見山辺りから飯塚市佐與の天降八所神社へ向う。少し西に立岩丘陵がある。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 十有一月の(みずのと)()(ついたち)(つちのと)()皇師(みいくさ)大きに(こぞ)りて、磯城(しき)(ひこ)を攻めむとす。先づ使者(駒主命)を遣はして、()()()()さしむ。兄磯城命()けず。更に、頭八咫烏を遣はして召す。時に、其の(いほり)に到りて鳴きて曰はく、「天神の子実は神武天皇) 、(いまし)を召す。怡奘過(いざわ)、怡奘過。」といふ。過の音は()兄磯城忿(いか)りて曰はく、「天壓神(あめおすのかみ)至りつと聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何(いか)にぞ烏鳥(からす)若此(かく)惡しく鳴く」といひて、、此をば飫蒭(おす)と云ふ。乃ち弓を()きて射る。烏即ち(たち)去りぬ。
(日本書紀)

 磯城彦(兄磯城)は、立岩(飯塚市の立岩丘陵)の主である。使者に名前が書かれていないが、現地伝承と合わせると馬見神社の主駒主命である。
 天神の子とあるが、これは神武天皇である。また、天壓神(あめおすのかみ)とあるが、これも神武天皇である。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 次て(おと)磯城(しき)が宅に到りて、鳴きて曰はく、「天神の子、汝を召す。怡奘過(いざわ)怡奘過。」といふ。時に弟磯城惵然()ぢて改容(かしこま)りて曰はく、「臣、天壓神(あめおすのかみ)至りますと聞きて、旦夕(あしたゆふべ)()(かしこま)る。善きかな、烏、()若此(かく)鳴く」といひて、卽ち葉盤(ひらで)八枚を作して、(くらひもの)を盛りて()ふ。葉盤、此をば毗羅耐(ひらで)と云ふ。因りて烏の(まま)に、詣到りて告して曰さく、「吾が兄()()()、天神の子()でますと聞きて、則ち八十梟帥を(あつ)めて、兵甲(つはもの)を具へて、(とも)決戰(たたかは)むとす。(すみやか)(たばかり)たまふべし」とまうす。
(日本書紀)
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 天皇乃ち諸將を(つど)へて、問ひて曰はく、「今()磯城(しき)、果して逆賊(あたな)ふ意有り。召すにも來ず。爲之(あれをせむこと)奈何(いか)に」とのたまふ。諸將の曰さく、「兄磯城は、(さと)き賊なり。先づ(おと)磯城(しき)を遣して(をし)(さと)さしめ、幷せて()倉下(くらじ)(おと)倉下(くらじ)(いひさと)さしめたまへ。如し遂に歸順(まつろ)はずは、然して後に、兵を舉げて臨まむこと、亦(おそ)からじ」とまうす。倉下、此をば衢羅餌(くらじ)と云ふ。乃ち弟磯城をして、(よさ)(あしさ)開示(しめ)さしむ。而るを兄磯城等、猶愚かなる(はかりこと)を守りて、承伏(したが)()へにす。
(日本書紀)

 兄倉下・弟倉下は、鞍手の人である。

 

一、杉魂明神(同)/ 一、佐與(同)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 時に、(しひ)根津(ねつ)(ひこ)(たばか)りて曰さく、「今は先づ我が女軍を遣はして、忍坂(おしさか)(「()(さか)」)の道より出でむ。虜見て必ず(ときつはもの)()くして赴かむ。吾は則ち(つよ)(いくさ)を駈け馳せて、(ただ)墨坂を指して、菟田川の水を取りて、其の炭の火に(そそ)きて、儵忽(にはか)の間に、其の不意(おもひのほか)に出でば、則ち破れむこと必じ」とまうす。天皇其の(はかりこと)()めて、乃ち女軍を出だして()しめたまふ。
(日本書紀)
一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ
  祭神は天皇駒主命椎根津彦
一、佐與(同)  
   天皇の靈跡 ― 佐與計牟の約言

 ここに出てくる「菟田川」は、中元寺川である。

 日本書紀の「天皇其の(はかりこと)()めて」の部分が、射手引神社社伝の「佐與:天皇の靈跡―佐與計牟(さよけむ)(そうするがよかろう)の約言」の事で、佐與という地名の謂れの一つだと思われる。
 天皇がそれは良い考えがだと言った椎根津彦の策は、立岩丘陵にいる磯城彦を攻める前に一旦、川崎町(田川)に戻って、先に女坂・男坂・墨坂を攻めるように進言したようだ。

 

一、天降八所神社(同、頴田村)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、天降八所神社(同、頴田村
   皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現
  して進路を教へ給ふ
天降八所神社縁起
     (頴田村大字佐與字柱松)
 初め、天皇中州に向かはむとし、日向より至る。処々の土賊を平らげ、筑紫国を巡狩したまふ時、馬見山の北麓、山澤四周して田野未だ開けず、道路泥濘にして行歩(かん)(なん)、人馬漸く疲れて進むこと能はず、天皇之を憂ひたまひ、嚮導(きょうどう)駒主に勅して曰はく、「前途悠遠、然るに軍卒の疲労今既に此の如く夫れ甚だし。又転ずる可き道有りや否や」とのりたまふ。駒主(つつし)みて奏して曰さく、「厳垣(いつかき)の神城近きに在り」とまうす。(且つ其の東南に神嶺有り、日尾山と曰ふ。太古、三女神宇佐嶋より御許山(おもとやま)を歴

※1

日尾山:福智町神崎の日王山

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
天降八所神社縁起(つづき)
宗像の沖合に()く時に暫く駐まりて、其の属神をして石を其の北の尾鼻に一夜にして成さしむ。故に強石(こわいし)明神の名有り。其の後姫遂に海北道中に遷り永遠に道主貴(みちぬしのむち)と成る。天皇も亦今宇佐島より出発して、中州に向かはんとす。宜しく日尾の頂に(ちゅう)(ひつ)し、其の神を祭り、其の築石を看に行くべくして、啓行有るなり。)是に天皇諸兄と皆其の山に登り、駒主の厚礼の如く祭る。時に奇異なるかな、霊鳥刹那に雲間より舞い降り、古松の梢に停まり、鳴きて曰はく、「伊邪佐〻〻〻」と。此くの如く三声鳴き()はりて、又西南に遙かに飛び去るや、天皇之を望みて曰はく、「神の使ひなり。尾行すべし」とのたまふ。(故に因りて時の人号けて是を烏尾と曰ふ。又、其の神を尊び烏尾明神と崇め奉る。後世所謂

※2

道主貴 = 宗像三女神

※3

「天皇諸兄」とあるので、この時にはまだ、二人の兄である次男の稻飯命。三男の三毛入野命と一緒である。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
天降八所神社縁起(つづき②)
筑前國鳥野神とは即ち是なり。)其の地より路を西南斜めに転じ出発の途、故無くして(やや)もすれば気(しき)りに至り宸襟(しんきん)甚だ安からず。是を以て種子命を召し語りたまふ。種子命即ち奏して曰さく、「此の地は山高く谷深し。土地未だ凝らず。埃・陰気の(あつ)まる所なり。(ゆゑ)にか或は(しか)るか。若し然らば則ち宜しく高地を(うらな)ひて天祖の御悟しの随に御魂を鎮祭したまふべし」とまうす。天皇曰はく、「(しか)らば()からむ」とのたまふ。(是に因り此の地を号けて佐与と曰ふ。(けだ)佐与計牟(さよけむ)の方言ならむ。)即ち御頸の珠を神璽(しんじ)とし、種子命之を振り揺らす。御鉾を御杖とし、椎根津彦之を突き轟かす。御魂を此の丘に鎮祭す。
『頴田町史』天降八所神社縁起(原漢文)  元禄十二年(一六九九)白土種直祀官敬白

※4

(しか)らば()からむ」の原文(漢文)は、「然善」の2字である。この「然善」を「佐与計牟(さよけむ)」と読んだのかも知れない。尚、由緒の原文は、天降八所神社のページに掲載しています。

 

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
日王山

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

日尾(日王)山から西南の烏尾峠に飛ぶ霊烏

 この浮世絵は、天降八所神社縁起の「日尾の頂から霊鳥が西南に遙かに飛び去る所を烏尾という」と書かれているように描かれている。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
天降八所神社縁起
     (頴田村大字佐與字柱松)
一、烏尾峠(同)
   靈烏を烏尾明神の出現といひ、
  カラスは八咫烏のカラスに同じ
一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ
  祭神は天皇と駒主命と椎根津彦
一、佐與(同)  
   天皇の靈跡 ― 佐與計牟の約言
一、嚴島神社(同)  
   天皇、宗像三女神を祭り給ふ
  
一、鹿毛馬(同)  
 虜、大きなる(いくさ)(すで)に至ると(おも)ひて、力を(つく)して相待つ。
(日本書紀)

 日本書紀にある「大きなる兵」は、神武天皇軍。その神武軍を待ち構える。神武を待ち構える軍がいる所が、香春(田川)方面の男坂・女坂・墨坂である。
 神武軍は、立岩丘陵の磯城彦を牽制しながら一旦、田川方面に戻るようである。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・男坂の苦戦
 是より先に、皇軍攻めて必ず取り、戰ひて必ず勝たむ。而るに介冑(いくさ)(ひとども)、疲弊すること無きにあらず。故に、(いささか)に御謠を(つく)りて、將卒(いくさのひとども)の心を(やす)めたまふ。(みうたよみ)して曰はく、
 楯並(たたな)めて 伊那嵯の山の 木の間ゆも い行き(まも)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が(とも) 今助けに来ね
 伊那嵯の山の木の間から相手を見守って戦ったので、我らは腹がすいた。鵜飼の仲間よ、たった今、助けに来てくれ。 
(日本書紀)
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・墨坂の戦い
一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ
  祭神は天皇駒主命椎根津彦
 時に毒氣を吐きて人物(ことごと)()えぬ。(これ)()りて、皇軍(また)(おこ)(あた)はず。時に、天皇(すめらみこと)()(みね)せり。忽然(たちまち)にして(さめ)て曰く、「(われ)何ぞ若此(かく)は長く眠りたるや」。()ぎて毒に(あた)りし士卒、悉く(また)()め起きき。
(日本書紀)

 日本書紀にある「毒氣」の記事は、天降八所神社縁起にある「気(しき)り」の記事が一致している。だから、烏尾峠を越えると田川に出る。そこの何処かに墨坂の地があったハズである。
 日本書紀の前述に「炭の火に(そそ)きて」とあったように多分、石炭を燃やしている。神武軍は、その近くに居て、気流の関係か何かで二酸化中毒になったのではないかと考えた。

 

墨坂の戦い(福永説)

 二酸化炭素は空気など地球の環境中にごくありふれた物質で、その有毒性が問題となることはまずない。
 しかし、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、ヒト(人間)は危険な状態に置かれる。濃度が 3 - 4 % を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7 % を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う。
 この状態が継続すると麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る(二酸化炭素中毒)。
 比較的苦痛を感じないまま死に到るとされ、脊椎動物の屠殺や殺処分の法規制においては、二酸化炭素による安楽殺のみが許されることも多い。
                          (ウイキペディア)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・男坂の決戦
 既にして、餘りの(ともがら)猶繁(おほ)くして、其の情測り難し。乃ち(ひそか)道臣命に勅すらく、「(いまし)大來目部を帥ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛りに宴饗(とよのあかり)を設けて、虜を(をこつ)りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に密の(みこと)を奉りて、(むろ)忍坂(「男坂」)に掘りて、我が猛き卒を選びて、虜と()()う。陰かに(ちぎ)りて曰はく、「酒(たけなは)の後に、吾は起ちて歌はむ。汝等、吾が歌の(こえ)を聞きて、則ち一時に虜を刺せ」といふ。已にして坐定(ゐしづま)りて酒()る。虜我が陰謀有ることを知らずして、情の任に(ほしきまま)に醉ひぬ。時に道臣命、乃ち起ちて歌ひて曰く、
 男坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ

※5

日本書紀では、「宴饗」と書いて何故か「とよのあかり」と読む。宮中の大宴会場が、豊明殿である。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 時に、我が卒歌を聞きて、倶に其の(くぶ)(つちの)(つるぎ)を拔きて、一時に虜を殺しつ。虜(また)噍類(のこる)者無し。皇軍大きに悅びて、天を仰ぎて(わら)ふ。因りて歌して曰はく、
 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
 今が最後だよ、今が最後だよ。ああ奴らを(倒すのは)。今を置いてないよ、吾が子よ。今を置いてないよ、兵士等よ。
 今、來目部が歌ひて後に大きに(わら)ふは、是其の(もと)なり。又歌して曰はく、
 (「男坂なる」) 愛瀰詩(えみし)一人(ひだり) 百な人、人は言へども 抵抗(たむかひ)もせず。
 男坂にいるエミシを一騎当千だと、人は言うけれども、(われわれには)手向かいもできなかったぞ。
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 此皆、密旨(しのびのみこと)を承けて歌ふ。敢へて自ら(たくめ)なるに非ず。
 果たして男軍を以て墨坂を越えて、後より(はさ)み撃ちて破りつ。
 時に天皇の曰はく、「戰ひ勝ちて驕ること無きは、良將(いくさのきみ)(しわざ)なり。今(おほ)きなる(あた)已に滅びて、同じく惡しくありし者、匈々(いひおそ)りつつ十數群(とたむらばかり)あり。其の(こころ)知るべからず。如何(いか)にぞ久しく一處(ひとところ)に居て、制變(はかりこと)すること無けむ」とのたまふ。乃ち()てて別處(ことところ)(いほり)
→ 立岩へ
福永説:男坂墨坂の戦い
地図:男坂墨坂の戦い

明治37年の地図(Ⓒ平凡社)

 ①頴田村、②烏尾峠、③田河、④奈良、⑤弓削田村、⑥県立西田川高等学校

 この地図の北が香春岳(天香山)。南が川崎町の天降神社(菟田の穿邑)の位置関係となる。ここに女坂・男坂・墨坂があったと思われる。

 

福永説:男坂墨坂の戦い
地図:田川地方における地域集団と青銅器の分布

烏尾峠

天降神社●

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十二 忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ

十二 忍坂の大室に 男坂の窨に八十梟帥を舞ひ打つ

射手引神社社伝・東征コースの順序を入替え

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、鹿毛馬(同)
一、目尾山(同幸袋町)
一、鯰田(飯塚市) 
   沼田といふ、天皇遠賀川を渡り
  惱み大迂回を行ひ給ふた所
一、勝負坂(同)
一、立岩(同)
   天皇が天祖に祈願し給ふたところ
一、徒歩渡(同)
一、王渡(同)
一、鉾の本(同)
   豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を
  渡河された故名
一、片島(同二瀬村)
   加多之萬、又は堅磐と書き皇軍
  上陸の地を指す

 神武軍は、田川の敵に勝利した後、再度、烏尾峠を越えて、飯塚方面に戻ってくる。

 

一、鹿毛馬(同)/ 一、嚴島神社(同)

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、鹿毛馬(同)
天降八所神社縁起(頴田村大字佐與字柱松)
「此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駈の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。」
一、嚴島神社(同)
   天皇、宗像三女神を祭り給ふ
 由緒に「神武天皇御幼名狭野命と申奉る時筑紫を回り給ふとて豊前国より此村に移給ふ馬牧より足毛の馬を奉り其馬に乗せ給ひ嘉穂郡馬見村へ出給ふ迄老翁見送り奉るより當村駈馬村と唱ふ村稱の起源也」