「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる ③)
*.鯰田は、海だった!
この日本書紀に書かれている記事の内容は、海での出来事である。
この飯塚市立岩にある熊野神社の所が、日本書紀の「至二熊野荒坂津一」の土地である。この神社の鳥居がある所が立岩丘陵の一番南に位置し熊野の崎と呼ばれる所である。
ここに神武天皇と皇子手硏耳命が上陸した。その上陸までが困難であった。
絵巻の題にある「熊野灘の御危難」ではなく、「鯰田(熊野)の海戦」であった。神武のこの時代には、まだ古遠賀湾が飯塚市のこの辺りまで深く入りこんでいたのではないか?
まだ島だったと思われる立岩丘陵へ絵巻に描かれているような大きな船でなく、明治時代まであった平田舟のような小型の舟に兵士を載せて遠賀湾を渡る時に暴風雨が吹いた。
①片島、②浦田、③立岩、④鯰田、⑤熊野神社
鯰田の北側から海を渡って攻めようとした次男の稻飯命、三男の三毛入野命の軍は、全滅か? そのように考えれば日本書紀の記述に合う。
皇祖神社社伝に「目尾山に至り即ち西す」と書かれているので、日尾山の間違いと思われる。
ここの神社社伝でも「諸皇子」とあるので、長男の五瀬命は既に亡くなっているが、次男の稻飯命と三男の三毛入野命と神武天皇は一緒である。
ここの伝承でも「忽然として、風雨頻に起こり」とあるように日本書紀と同じである。
この熊野神社の伝承は、神武天皇が磯城彦を滅ぼした後で、神武天皇を中心とした内容に変えられている。
この立岩丘陵で神武天皇と戦った磯城彦は、社記に出てくる手力男神の子孫である。伝承にある「巨岩を擲て其賊を誅す」とある賊は、神武天皇であり、その神武軍に岩を投げつけている。その伝承が移り変わっている。
*.昭和50年10月に書かれた由緒書き(今から20年くらい前の写真)
*.社紀にある「屏風の如き岩」
射手引神社社伝の「鯰田(飯塚市)」には、ここで「大迂回を行ひ給ふた所」とある。神武軍は、最初の戦いで敗れた為に大迂回を強いられた。
そこから「徒歩渡」「王渡」「鉾の本」へ行き「片島」で上陸し、前述の「熊野の荒坂(熊野神社)」 に達した。
神武軍は、次の「勝負坂」で勝利した後、「立岩」の登った。
*.もう一つ、日本書紀で解けなかった記事
*.韴靈の別名が、布留御魂
石上神宮には、韴靈の剣が祭られている。
*.布留御魂が元々祭られていた劔神社
神武天皇が、立岩丘陵の磯城彦を攻めている時に鞍手町の劔神社にいたかも知れない高倉下に援軍を頼んだ。すると高倉下の一族がやって来たのだろう。いわゆる新分(爾比岐多)物部氏が、武器庫の武器を携えて援軍としてやって来た。
それで倭奴国で最も強力な立岩丘陵に籠る磯城彦の軍に総攻撃が出来た。
一、勝負坂(同)
①立岩(破線:範囲の目安)、②片島、③勝負谷ため池、④旌忠公園、⑤立岩遺跡収蔵庫
⑥立岩遺跡(南隣に立岩神社)、⑦熊野神社
高倉下の援軍を得た神武軍は、熊野の荒坂津(熊野神社の鳥居の所)に上陸し、熊野の神邑(立岩丘陵)の奥へ進み、旌忠公園に陣を敷いていた磯城彦の軍を勝負坂の所で戦い、勝利したという事が見えてきた。
立岩丘陵での激しい戦いで、神武天皇軍も大きな被害を出している。二人の兄、次男の稻飯命と三男の三毛入野命が戦死している。
神武が滅ぼした立岩丘陵(立岩遺跡)の正体
神武天皇は、筑紫から東征し豊国(饒速日が建てた倭奴國)を滅ぼし、邪馬台(倭)国を建国した。
下稗田遺跡のすずり
鋳造鉄斧
弥生時代の絹は、北部九州しか出土していない。奈良県(近畿地方)からは、古墳時代の絹しか出土していない。
神武天皇東征地図
この地図には、豊後海峡の佐賀関の所に「速吸之門」が書かれている。
また、この地図では、北九州市の辺りに崗水門、岡田宮が神武東征コースを書かれているので、この地図の編者は神武天皇がこの地を周っているという予測があったようだ。
今日の神武東征「伍」は、ここでおわる。筑豊最大の軍事基地があった立岩丘陵にいた敵を神武天皇は到頭苦労しながら倒した。
次回、神武東征「陸」は、倭奴国軍の残党狩りと京師の建設に入っていく。