「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「伍」)

第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる  ③)

*.鯰田は、海だった!

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
 六月の乙未の朔丁巳に、軍至名草邑、則誅名草戸畔(とべ)者。戸畔、此云妬鼙(とべ)遂に狹野を越えて、熊野の神邑に到らむとす。且登天磐盾、()りて軍を引きて(よう)やくに進む。(わた)の中にして(にはか)暴風に遇ひぬ。皇舟(みふね)漂蕩(ただよ)ふ。時に稻飯命乃ち歎きて曰はく、「()()、吾が祖は天神、母は海神(わたつみ)なり。如何にぞ我を陸に(たしな)め、復我を海に厄むや」と。言ひ(をは)りて、乃ち劒を拔きて海に入りて、鋤持(さひもち)の神と化爲()る。三毛入野命、亦恨みて曰はく、「我が母及び(をば)は並に是海神なり。何爲(いかに)波瀾(なみ)を起てて、灌溺(おぼほ)すや」とのたまひて、則ち浪の()を蹈みて、常世の(くに)に往でましぬ。天皇獨り、皇子手硏耳命と、軍を帥ゐて進み、熊野荒坂津 亦の名は丹敷浦(にしきのうら) に至ります。

 この日本書紀に書かれている記事の内容は、での出来事である。

 

熊野の荒坂
写真:熊野の荒坂

Ⓒ福岡の杜

 この飯塚市立岩にある熊野神社の所が、日本書紀の「熊野荒坂津」の土地である。この神社の鳥居がある所が立岩丘陵の一番南に位置し熊野の崎と呼ばれる所である。
 ここに神武天皇と皇子手硏耳命が上陸した。その上陸までが困難であった。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

五 熊野灘の御危難

五 熊野灘の御危難 鯰田(熊野)の海戦

 絵巻の題にある「熊野灘の御危難」ではなく、「鯰田(熊野)の海戦」であった。神武のこの時代には、まだ古遠賀湾が飯塚市のこの辺りまで深く入りこんでいたのではないか?
 まだ島だったと思われる立岩丘陵へ絵巻に描かれているような大きな船でなく、明治時代まであった平田舟のような小型の舟に兵士を載せて遠賀湾を渡る時に暴風雨が吹いた。

 

鯰田(熊野)の海戦
地図:鯰田(熊野)の海戦

Ⓒ平凡社

       
田んぼマークの所は、海だった

  立岩丘陵 
(熊野神邑)

 ①片島、②浦田、③立岩、④鯰田、⑤熊野神社

 鯰田の北側から海を渡って攻めようとした次男の稻飯命、三男の三毛入野命の軍は、全滅か? そのように考えれば日本書紀の記述に合う。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
皇祖神社社伝
 (飯塚市大字鯰田字峯)
 神武天皇駒主命を先導となし、馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤(さんたく)淤泥(おでい)の難路を跋渉(ばっしょう)して、(ようや)沼田鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起(くっき)するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆(さきばらい)を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌(かいかん)咫尺(しせき)(べん)ぜず皇軍(すこぶ)る悩む。

 皇祖神社社伝に「目尾(しゃかのお)山に至り即ち西す」と書かれているので、日尾山の間違いと思われる。

 ここの神社社伝でも「諸皇子」とあるので、長男の五瀬命は既に亡くなっているが、次男の稻飯命と三男の三毛入野命と神武天皇は一緒である。
 ここの伝承でも「忽然として、風雨頻に起こり」とあるように日本書紀と同じである。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
熊野神社 (飯塚市大字立岩字浦の谷)
 社記神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺(しせき)を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す(その)(さま)(あたか)屏風(びょうぶ)を立てたるが如し電光赫々(かっかく)の中岩上に神現れて曰く我は天之岩戸神名を手力男(たぢからお)と言ふ此の処に自ら住める惡鬼あり其状熊に似て熊に非ず蜘蛛に似て左に非ず手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を(たの)みて(ほしいまま)天皇を惑はさんとす最も憎む()きなり我巨岩を(なげうっ)て其賊を誅す
(自今吾が和魂は此の岩上に留つて筑紫の守護神たらん又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體(ぎょくたい)を守護すべきなりと爰に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ)

 この熊野神社の伝承は、神武天皇が磯城彦を滅ぼした後で、神武天皇を中心とした内容に変えられている。
 この立岩丘陵で神武天皇と戦った磯城彦は、社記に出てくる手力男神の子孫である。伝承にある「巨岩を(なげうっ)て其賊を誅す」とある賊は、神武天皇であり、その神武軍に岩を投げつけている。その伝承が移り変わっている。

 

*.昭和50年10月に書かれた由緒書き(今から20年くらい前の写真)

熊野神社社伝
説明板:熊野神社・由緒

*.社紀にある「屏風の如き岩」

熊野神社境内の巨石
写真:熊野神社境内の巨石
第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、鹿毛馬(同)
一、目尾山(同幸袋町)
一、鯰田(飯塚市) 
   沼田といふ、天皇遠賀川を渡り
  惱み大迂回を行ひ給ふた所
一、徒歩渡(同)
一、王渡(同)
一、鉾の本(同)
   豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を
  渡河された故名
一、片島(同二瀬村)
   加多之萬、又は堅磐と書き皇軍
  上陸の地を指す
一、勝負坂(同)
一、立岩(同)
   天皇が天祖に祈願し給ふたところ

 射手引神社社伝の「鯰田(飯塚市)」には、ここで「大迂回を行ひ給ふた所」とある。神武軍は、最初の戦いで敗れた為に大迂回を強いられた。
 そこから「徒歩渡」「王渡」「鉾の本」へ行き「片島」で上陸し、前述の「熊野の荒坂(熊野神社)」 に達した。
 神武軍は、次の「勝負坂」で勝利した後、「立岩」の登った。

 

*.もう一つ、日本書紀で解けなかった記事

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

六 高倉下韴靈の剣を奉り危難を祓ふ

六 高倉下韴靈の剣を奉り危難を祓ふ

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
高倉(たかくら)()韴靈(ふつのみたま)の剣を奉る
 時に彼處(そこ)に人有り、()熊野の高倉(たかくら)()と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神武甕雷(たけみかづちの)に謂ひて曰はく、「夫れ葦原中國(なほ)聞喧擾之(さやげり)()()聞喧擾之響焉、此をば左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。(また)往きて、()て」とのたまふ。武甕雷神對へて曰さく、「(やっこ)不行(まか)らずと(いえど)も、予が國を()けし劒を下さば、國自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「(うべ)なり。諾、此を宇毎那利と云ふ」とのたまふ。時に武甕雷神、登りて高倉下に謂ひて曰はく、「予が劒、號を韴靈(ふつのみたま)と曰ふ。韴靈、此をば()屠能瀰哆磨(つのみたま)と云ふ。今當に汝が(くら)の裏に置かむ。取りて天孫に.(たてまつ)れ」とのたまふ。高倉下曰さく、「唯々(をを)」とまうすとみて()めぬ。(くるつ)(あした)に、夢の中の(をしへ)に依りて、庫を開きて視るに、果して落ちたる劒有りて(さかしま)に庫の底板に立てり。(すなは)ち取りて(たてまつ)る。

 

*.韴靈(ふつのみたま)の別名が、布留(ふるの)御魂(みたま)

韴靈(ふつのみたま)の剣(布留御魂)と石上(いそのかみ)神宮
古物(ふるもの)神社
  (鞍手郡古月村大字古門字西山)
祭神:天照大神、日本武尊、
   仲哀天皇、素戔嗚尊、
   神功皇后、宮簀姫神、
   應神天皇、布留御魂神
由緒
 不詳明治五年十一月三日村社に被定、祭神布留御魂神は同村同大字々久保に無格社布留神社として鎮座ありしを大正十年三月十六日許可を得て合祀す。社説に曰く、當社は元劔神社八幡宮(りょう)産土神(うぶすなのかみ)なりしが文政十一年子年八月、九州一帯暴風にて劔岳御鎮座劔神社の神殿幣殿拝殿(ことごと)く倒壊す、依て字西山鎮座八幡宮相殿に合祀せらる。明治四年二月に神祇官の依命村名の(きゅう)號を取り古物神社と改む。

 石上神宮には、韴靈の剣が祭られている。

 

*.布留(ふるの)御魂(みたま)が元々祭られていた劔神社

剣岳城
(Ⓒ鞍手町教育委員会)

「絵(剣岳城)」
写真(劔神社)

劔神社 =
(石上神宮)

 神武天皇が、立岩丘陵の磯城彦を攻めている時に鞍手町の劔神社にいたかも知れない高倉下に援軍を頼んだ。すると高倉下の一族がやって来たのだろう。いわゆる新分(爾比岐多)物部氏が、武器庫の武器を携えて援軍としてやって来た。
 それで倭奴国で最も強力な立岩丘陵に籠る磯城彦の軍に総攻撃が出来た。

 

一、勝負坂(同)

立岩遺跡周辺地図

地図:立岩遺跡周辺地図

地図:勝負谷ため池

 ①立岩(破線:範囲の目安)、②片島、③勝負谷ため池、④旌忠(せいちゅう)公園、⑤立岩遺跡収蔵庫
 ⑥立岩遺跡(南隣に立岩神社)、⑦熊野神社

 

福岡県  ため池  位置図

勝負坂
地図:福岡県 ため池 位置図
地図:勝負谷ため池

旌忠公園

勝負谷ため池の所
に勝負坂の地名が
残っている

 高倉下の援軍を得た神武軍は、熊野の荒坂津(熊野神社の鳥居の所)に上陸し、熊野の神邑(立岩丘陵)の奥へ進み、旌忠公園に陣を敷いていた磯城彦の軍を勝負坂の所で戦い、勝利したという事が見えてきた。

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
 十一月、立岩丘陵飯塚市)に籠る磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征成就を天祖に
祈願する。
其の梟帥兄磯城等を斬る。

立岩神社
神武天皇軍に折られた
天磐船舟石

立岩神社

 立岩丘陵での激しい戦いで、神武天皇軍も大きな被害を出している。二人の兄、次男の稻飯命と三男の三毛入野命が戦死している。

 

神武が滅ぼした立岩丘陵(立岩遺跡)の正体

天満倭国 = 倭奴国の成立
前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
地図「立岩式石包丁分布図」

「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図

笠置山

天照宮(磯光)

 神武天皇は、筑紫から東征し豊国(饒速日が建てた倭奴國)を滅ぼし、邪馬台(倭)国を建国した。

 

立岩遺跡の甕棺と男性の人骨
(手力男命の子孫にして磯城彦の先祖?)
写真「立岩遺跡の人骨」

 立岩遺跡 

護法螺13個の
貝釧(かいくしろ)(貝輪)

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最古級のすずりを再発見された。下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、その中から3点のすずりを確認された。これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたのである。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土している。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具ということだ。同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流域から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字を書く文化」があったことになろう。
写真「すずり」

下稗田遺跡のすずり

写真「鋳造鉄斧」

鋳造鉄斧

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
 鉄剣・鉄矛・刀子・絹
「前漢式鏡」

前漢鏡

「甕棺」
「鉄刀・鉄剣の絵に絹」
「鉄刀・鉄剣の絵に絹の説明」

弥生時代の絹
「弥生時代の絹が出土している遺跡地図」

 弥生時代の絹は、北部九州しか出土していない。奈良県(近畿地方)からは、古墳時代の絹しか出土していない。

 

神武天皇東征地図

Ⓒ山梨 歴史文学館
「神武東征の地図(Ⓒ山梨 歴史文学館)」

 この地図には、豊後海峡の佐賀関の所に「速吸之門」が書かれている。

 また、この地図では、北九州市の辺りに崗水門岡田宮が神武東征コースを書かれているので、この地図の編者は神武天皇がこの地を周っているという予測があったようだ。

 今日の神武東征「伍」は、ここでおわる。筑豊最大の軍事基地があった立岩丘陵にいた敵を神武天皇は到頭苦労しながら倒した。
 次回、神武東征「陸」は、倭奴国軍の残党狩りと京師の建設に入っていく。

二〇二〇年度版 神武東征「陸」
倭奴国軍の残党狩りと京師の建設
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)