「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「参」)

神武東征謀議

 橿原神宮にある神武天皇御一代記御絵巻の「二:神武天皇 高千穂宮に於ける東征御前會議」に描かれているのが、通説のイメージである。

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

二 神武天皇 高千穂宮に於ける東征御前會議

二 神武天皇 高千穂宮に於ける東征御前會議

 

 神武天皇が東征を開始する前の九州島の領土は、免田式土器の広がり方から見ても鸕鷀草葺不合尊と神武天皇が山鹿の日向から吉野ヶ里等の肥前国を平らげて、筑紫・西洲へ入った時までを示している。これが、「壱」と「弐」 までの話である。

 九州島の西半分(半分以上)を領有した神武天皇が目指すのは、饒速日尊の建てた豐葦原瑞穗國(倭奴國)、つまり豊国である。
 神武天皇は、いよいよ筑紫から(やまと)
に東征する。私は、倭国=豊国説を唱えているように神武天皇は、豊国を征伐していくのである。

 その最初が、筑紫高千穗の宮(高祖神社)での神武東征謀議である。

神武東征謀議
筑紫高千穗の宮
 (かむ)(やまと)伊波禮毘古(いはれびこ)の命と、其の伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命と二た柱、高千穗の宮()しまして(はか)りて、「(いず)()()しまさば、平けく天の下の(まつりごと)を聞こし()さん。(なほ)(ひむがし)に行かんと思ふ」と云ひて、即ち()(むき)より()ちて筑紫(ちくし)幸御(いでま)しき。
西洲(日向國)と豐葦原瑞穗國(倭奴国)

西洲
(日向國)

筑紫

日向

豐葦原瑞穗國
 (倭奴國)

 古事記に「(ひむがし)に行かんと思ふ」とあるように東征である。筑紫(西の位置)から豊国へは東に行くことになり、私は「神武は筑豊に東征した」という話をし続けている。
 古事記は、非常に簡単に書かれているが、これが東征謀議である。

 

 東征謀議について詳しく書かれている日本書紀を追いかけていく。

 神武天皇が、年十五で太子になってから、四十五歳まで一気に飛ぶ。

神武東征謀議
筑紫高千穗の宮
 年四十五歳に及びて、諸の兄及び子等に謂ひて曰く、「昔我が天神(たか)皇産(みむす)(ひの)(みこと)(おほ)()(るめの)(みこと)、此の豐葦原瑞穗國(ことあげ)して、我が天祖(ひこ)(ほの)瓊々杵(ににぎの)(みこと)に授けき。
 是に、火瓊々杵尊天關(あまのいはくら)(ひきひら)き、雲路(おしわ)け、仙蹕(みさきはらい)()ひて以ちて(いた)り止まる。
 是の時に、運は鴻荒(あらき)(あた)り、時は草昧(くらき)(あた)る。
 故、(くらき)を以ちて正しきを養ひ、此の西の(ほとり)(しら)す。
 皇祖皇考(みおや)乃神乃聖(かみひじり)にして(よろこび)を積み、(ひかり)を重ねて、(さは)年所(とし)()たり。
 天祖の降跡(あまくだ)りしより以逮(このかた)、今、一百七十九萬二千四百七十餘歳。而るに遼邈(とほくはるか)なる地は、猶未だ王澤(わうたく)(うるほ)はず。
 遂に(むら)に君有り、村に(おさ)有り、各自(おのおの)(さかひ)を分かち、()て相い(しの)(きしろ)はしむ。

 青字の「天祖(ひこ)(ほの)瓊々杵(ににぎの)(みこと)に授けき。」の部分は、筑紫側の神である。天神降臨という(たか)皇産(みむす)(ひの)(みこと)以降の豊国へ降臨した事業を糸島側(筑紫側)の瓊々杵尊の業績に切り替えようとしている。これが、古事記・日本書紀の意図である。
 「豐葦原瑞穗國を・・・天祖彦火瓊々杵尊に授けた」と日本書紀は意図され記されている。天武天皇の詔勅である「偽を削り、実を定む」と言った古事記の編集方針にある。この編集方針を分析すると「豊国の神々と天皇の歴史を 削り、筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」ことを定着させるという図り事である。
 これが、古事記・日本書紀のイデオロギーである。正にここで、天神の業績を筑紫側の神の業績に置き換えている。

 次の「此の西の(ほとり)(しら)す。」は、瓊々杵尊が豊国の西の偏を治めたという事を書いている。

 最後の一節は、この時には倭奴國も筑紫側も国の中が色々と乱れていたという事が粗方書いている。

 

神武東征謀議
筑紫高千穗の宮
 抑又(はたまた)鹽土(しおつちの)老翁(おぢ)に聞くに、曰く、『東に(うま)(くに)有り。
 青き山(よも)(めぐ)り、其の中に亦天磐船(あまのいはふね)に乘りて飛び(くだ)る者有り
』と。
 余、(おも)ふに、彼の地は、必當(かなら)ず以ちて大いなる(わざ)(ひら)()べて、天下(あめのした)に光り()るに足るべし。(けだ)六合(くに)中心(もなか)か。
 ()の飛び降る者は、(これ)饒速日(にぎはやひ)と謂ふか。何ぞ()きて都なさざらん」。
 (もろもろ)皇子(みこ)(こた)へて曰く、「理實(ことわり)灼然(いやちこ)なり。我も亦(つね)に以ちて(おもひ)と爲す。(よろ)しく(すみやか)に行ふべし」。
 是の年、太歳甲寅
(『日本書紀』
   神武天皇即位前紀)
一一四
  磐余彦、諸兄・諸皇子らと(第一次)倭奴国
 東征を謀る。

 この記事の最後にある「是の年、太歳甲寅」という干支より、直ぐに西暦114年を割り出し、第一次(倭奴國)東征を図ると言い続けている。

※「神武東征謀議 筑紫高千穗の宮」のスライドの内容については、動画を視聴して下さい。

 この『東に(うま)(くに)有り。青き山(よも)(めぐ)り、其の中に亦天磐船(あまのいはふね)に乘りて飛び(くだ)る者有り』という記事は、私が言う所の饒速日尊の天神降臨という大事業の事であり、勿論、田川(鷹羽國)での話である。

 『日本書紀』神武天皇即位前紀の始めには、このような神武東征謀議(東征の会議について)の事が書かれているが、通史の先生方も現在の教科書も何一つ扱わない。というのは、神武天皇は架空の存在であるから。

 

天神降臨(福永説)
 冒頭の天神は、高(鷹)皇産靈尊(=高木神)大日孁尊(=女性神の天照大神のモデル)・天祖彦火瓊々杵尊の共通の祖としての天神である。
 「仙蹕」とは、「神仙の通る時の先払い。転じて、天子の行列」を謂う
 『懐風藻』序にも「襲山降蹕之世」の語句が見え、日本古典文学大系は、「日向の襲の高千穂の峰に天孫が降臨した時。蹕は車のさきばらい、行幸をいう。
 降蹕は御車(天孫)が天上より降ること、天孫降臨の意。」と注している。
 (紀元前十四年)、天照大神(天神)こと饒速日尊笠置山(四二五m)に降臨(天照宮社記等、天照宮は福岡県鞍手郡
宮田町〈現宮若市〉
磯光に鎮座する)」
したことを>指すよ
うだ。
 天照宮のご神紋が「御車(天神)」であることは、偶然の一致とは考えにくい。
天照宮のご神紋「御車(天神)」

 

神武東征謀議
筑紫高千穗の宮
 久しくして(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)西(にしの)(くに)の宮(かむさ)りき。
 因りて日向(ひむき)吾平山(あひらのやま)の上の(みささぎ)に葬りまつる。
(『日本書紀』神代下)
 (けだ)六合(くに)中心(もなか)か。()の飛び降る者は、(これ)饒速日(にぎはやひ)と謂ふか。何ぞ()きて都なさざらん。
(『日本書紀』神武天皇即位前紀)
高祖(たかす)神社
高祖(たかす)神社

 

神武東征謀議
天磐船・饒速日尊

福岡市早良区小笠木の舟石
菅原道真公(天神=饒速日尊)の伝承が残されている。

佐賀県鳥栖市の舟石権現

赤村の舟石 天忍穂耳尊

鳥栖市の舟石権現
福岡市早良区小笠木の舟石
赤村の舟石

 

神武東征謀議
六合の中心
 鹽土老翁の答えの直後に、神武の一人称の発言が置かれている。
 明らかに、饒速日尊の「恢弘大業・光宅天下」以来の六合の中心を簒奪し、新たに都せんとする武力革命の宣言である。
 六合とは、天地と四方を合わせたもの、すなわち天下を意味する。
 大漢和辞典の「六合」の説明の第六には、「山名。㋑江蘇省六合県の西南。江浦県の界。六峯が相接してゐるから名づける。㋺安徽省和県の西北。梁の武帝が嘗て此の山に登って六合を望んだので名づける。」との興味深い記述がある。
 饒速日尊の降臨した笠置山の近く、饒速日尊の祀られている天照宮のすぐ側に、宗像三女神が最初に降臨した伝承(風土記逸文)の残された「六ヶ嶽」が、六峯相接して、「恢弘大業・光宅天下以来の六合の中心」と推測される地に、今日も位置している。
 宗像三女神は「天孫降臨」の偉業を助けたとの伝承も残されているから、歴史事実として、「天神降臨」の偉業の助成をしたことになる。

 

神武東征謀議
いやちこなり
 「理實灼然なり。」の「いやちこ」は、岩波大系本の頭注に、「イヤは、イヨイヨの義。チコはチカ(近)の音転か。効験などのすぐさま現れる意。」とある。が、文脈がまるで通らない。
 久留米大学の公開講座で講演したとき、聴講の方から次を教えられた。
 「大分の麦焼酎の『いいちこ』)はここのイヤチコと同じだ。地元では、『もっともだ。いいことだ。』の意で使っている。」と。
 早速、調べてみると、大分県宇佐市の三和酒類株式会社が製造する麦焼酎の名が「いいちこ」、同社が発行する文芸雑誌がiichikoである。
 いいちことは、大分県の方言で「いい(よい)」を強調する言葉とある。言葉としての「いいちこ」という表現は、大分県の中でも主として北部で用いられていて、福岡県東部と合わせて「旧豊前国」の方言であることが知られ、これもまた偶然の一致とは考えにくい。
 神武の皇子たちは、
「東征のお考えはよ
いこと(もっとも)
だ。」と同意したの
である。
むぎ焼酎「いいちこ:iichiko」

 

神武東征謀議
太歳甲寅
 「太歳甲寅」は中国で始まった
干支である。
 日本書紀では、ここが最初の出
現であることが重要だ。
 神武からが「人皇」と称される所以でもある。神武東征の最初は、金文の「漢委奴国王」印(西暦五七年)以後は確実であり、永初年間(一〇七~一一三)の倭奴国の乱直後と仮定すると、そこに最も近い「甲寅」は、西暦一一四年(後漢の安帝の元初元年)ということになる。
(福永説)
《試みに神功・応神二代の紀年を朝鮮の歴史と比較するに、両者の干支符合して、しかも書紀は彼よりも干支二巡百二十年古いこととなっている事例が多多見出される。
 (中略)
 試に一世三十年の率を以て推すに、神武は崇神九世の祖に当るから、崇神までの十世の年数は三百年ばかりとなり、神武の創業は漢の元帝の頃(西暦一世紀前半頃)に当るであろう。》
(那珂通世の学説)
封泥「漢委奴国王」