「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「参」)

神武第一次東征失敗

第一次東征 鉄を求めて
 日向筑紫豊国
 竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一五年 春三月 遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍
 と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近く
 の草香津(大濠公園)に帰還。
  五月 五瀬命死去、竈山(大宰府宝満山)に葬る。
一一四年 磐余、冬十月 諸兄・諸皇子らと第一次
 東征を開始。
  十一月 岡水門に至り、軍備を整える。
 この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使
 が途絶する。
一〇七年 倭国王帥升、
 後漢の安帝に生口

 食肉用奴隷)一六〇
 人を献ず。
  この倭国王は天孫
 本紀に云う天忍人命か。
後八三年 お佐賀の大
 室屋(吉野ヶ里遺跡)
 陥落
鸕鷀草葺不合
 尊
磐余の佐賀平
 野攻略戦。
お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

四 孔舎衛坂の激戦

四 孔舎衛坂の激戦

 

神武第一次東征
一一五
 孔舎衛坂の敗戦によって、神武は「日に向って」すなわち東に向って征討することの非をさとり、「神策」を立てる。一旦、筑紫に帰還し、軍備を再編成し、中洲の皇都を、次は「日を背にして」すなわち東に大迂回し敵を西側に置いて戦おうとの、第二次東征を企てたのである。
 従来説のように、九州から出て大阪の難波に上陸して敗戦したとすると、その後の神武には帰還する場所が無く、軍備も再編成する機会がない。それなのに、兵を補充できなかったはずの神武軍は、後段において敵の大軍と堂々と会戦さえしているのである。矛盾というより他はない。
 いわゆる奈良県「大和の国」に神武は断じて東征していない。
 したがって、「乃ち軍を引きて還る。虜も亦敢て逼まらず。却りて草香之津に至り、盾を植ゑて雄誥爲す。因りて改め其の津を號けて盾津と曰ふ。」は、リアルな記述であり、この「草香之津」は、福岡市住吉神社に伝わる古図に鎌倉期まで「草香江」のあったことが示してあり、そこを指していよう。
 神武は正しく「草香之津」に「軍を引きて還っ」たのである。

 

神武第一次東征
博多古図(八百年前)「草香江」
博多古図(八百年前)「草香江」

 

神武第一次東征
 そして、戦病死した五瀬命を紀の国の竈山に葬った。
 この竈山は、竈門神社の鎮座する大宰府の宝満山(三笠山、竈門山)を指すようである。「竈」は一字でも「かまど」と読む。
 「紀の国」も景行紀に「御木国」、神功・応神紀に「貴国」、私の抽出した「水沼の皇都」付近に「基山」もあり、「紀角宿禰」のように「紀氏」も存在したことから、筑後平野一帯と考えてよいだろう。
 竈門神社の由緒には
祭神玉依姫命は海神の御女であり、()葺草葺(がやふき)不合(あへずの)(みこと)の后、そして神武天皇の母君である。
に始まり、次の神武の故事がある。
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ、されば天皇の大偉業は玉依姫神の御教化に因る事大なるものなり。
※ 神武第二次東征の祈願

 

神武第一次東征
上  竈門山
右上 竃門神社
右下 竃門山山頂
 五瀬命死去、竈山(太
宰府市宝満山)
に葬る。
※ 父彦波瀲武鸕鷀草葺
不合尊の吾平山陵
と同じ
く、竃門山山頂に葬られ
たか。
竃門神社
竃門山山頂
竈門山

 

神武第一次東征
 時間的な整序を考察する。
 甲寅(一一四年)冬十月に糸島水道を発進。十一月に岡水門に入る。
 軍備を整えて、乙卯(一一五年)の春三月、古遠賀湾を遡上る。
 夏四月、長髄彦軍と激突、五瀬命負傷、敗北、草香津に帰還す。
 五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。
 三年積る間に、舟檝を脩へて、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
 吉備の國高嶋宮ではなく、竈山の高千穂の宮に、雌伏三年。戊午(一一八年)春、神武は再び東征に趣いたようだ。
 私の分析した、第二次東征発向である。吉備の国の記述はすこぶる怪しいが、三年間にわたる再軍備は史実と考えられ、次に繋がる。
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ。
※ 神武第二次東征の祈願

 

神武第一次東征の比定地

神武天皇聖蹟調査報告

<聖蹟伝説地>

孔舎衛(くさゑ)
 (大阪府中河内郡孔舎衙村。
  今の枚岡市日下町)

<聖蹟・聖蹟推考地>

・崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)

・竈山(和歌山県和歌山市)

・盾津(大阪府中河内郡孔舎衙村)

<未決定地>

・高千穂宮 ・岡田宮

<福永説>

孔舎(くさ)
 (未詳。孔舎(くさ)の表記あり。
  神武の筑紫北伐時の戦いか?)

・草香津(福岡市大濠公園大濠池)

・崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)

・岡田宮(芦屋自衛隊基地内)

・竈山(太宰府市宝満山)

・盾津(未詳、大濠池の付近か。)

・高千穂宮(糸島市高祖神社)

 

 全国の学者たちが探せなかったものを捜したのである。それは、だた舞台を福岡に置いただけであった。それで、今日の纏めは、竈門神社の由緒にある。
 ここに第二次東征の祈願をした事があり、神武東征の「肆」につづく。

神武第一次東征失敗
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ、されば天皇の大偉業は玉依姫神の御教化に因る事大なるものなり。」神武第二次東征の祈願
 神武東征「肆」につづく
西洲(日向國)と豐葦原瑞穗國(倭奴国)

西洲
(日向國)

筑紫

日向

豐葦原瑞穗國
 (倭奴國)

 神武第一次東征で、神武天皇は遠賀湾に突入して敗れて、博多湾に戻ってくるので、神武天皇の勢力地図は、この地図のまま変わらない。
 次に神武天皇は、いよいよ「 日を背にして戦う神策」を実行する。それは、どういうルートで豊国(豊葦原水穂國=中州)を攻めたのかという神武東征「肆」へ続く。