「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「参」)

神武第一次東征

神武第一次東征
太歳甲寅
 其の年の冬十月(かんなづき)丁巳(ひのとみ)(ついたち)辛酉(かのととり)。天皇(みづか)ら諸の皇子・舟師(ふないくさ)(ひき)いて()つ。
 十有一月(しもつき)丙戌(ひのえいぬ)(ついたち)甲午(きのえうま)。天皇、筑紫國(ちくしのくに)岡水門(をかのみなと)に至る。流れを遡上(さかのぼ)りて、中洲(なかつくに)に入らんと欲す。
 時に長髓彦(ながすねひこ)聞きて曰く、「()天神子等の來つる所以(ゆえ)は、必ず我が國を奪はんとならん」。
 則ち盡く屬する兵を起こして、孔舎衞(くさえの)(さか)(さえぎ)り、(とも)に會ひ戰ふ。
 流矢有り、五瀬(いつせの)(みこと)肱髄(ひじはぎ)(あた)る。皇師(みいくさ)進み戰ふこと(あた)はず。
 天皇之れを(うれ)へ、乃ち神策(あやしきはかりごと)冲衿(みこころのうち)(さだ)めて曰く、「今我は是れ日神の子孫にして日に向ひて(あた)()つは、此れ天道(あめのみち)(さか)る也。()かじ、退き還りて弱きを示し、神

 

神武第一次東征
太歳甲寅
祇を(いや)び祭りて、(そびら)日神(ひのかみ)(いきほひ)を負ひ、影の(まにま)(おそ)()まん。如此(かく)なせば、則ち(かつ)て刃に血せずして、(あた)必ず自づと(やぶ)れん」。
 (みな)曰く、「(しか)なり」。是に軍中(いくさ)(みことのり)して曰く、「(しばし)は停まれ。(また)進むこと(なか)れ」。
 乃ち軍を引きて還る。(あた)(また)敢て()まらず。(かへ)りて草香之津(くさかのつ)に至り、盾を植ゑて雄誥(をたけび)爲す。因りて改め其の津を(なづ)けて盾津(たてつ)と曰ふ。
 時に五瀬命矢瘡(やきず)の痛み(はなは)だし。乃ち撫劒(つるぎのたかみとりしばり)て雄誥して曰く、「慨哉(うれたきかや)大丈夫(ますらを)(あた)が手に傷を()ひて、(むく)いずして死なんや」。時の人因りて其の處を(なづ)けて、雄水門(をのみなと)と曰ふ。
 進みて紀國の竈山(かまどやま)に到りて、五瀬命、(みいくさ)(こう)ず。因りて竈山(はふ)りまつる。

 

神武第一次東征
岡田宮
(福永説)
 ニギハヤヒ直系の王族の大和東
征譚(銅鐸文化圏侵入譚)と考え
られる部分、すなわち、安芸国・
吉備国・波速国の記事を削除し、
宇佐に至る記事を第二次東征(後
述)の冒頭部として後に回すと、
神武は、最初に岡水門に至った。
 そこには、岡湊神社(芦屋町船頭町一二―四八)が鎮座する。
 そこから徒歩二十五分のところ、航空自衛隊芦屋基地の入り口附近に「神武天皇社」があり、いずれにしろ、芦屋に「岡田の宮」が存在したようだ。
 神武天皇社の由緒には、記紀・旧事本紀が引かれ、さらにその他に「芦屋浜の内、砂中より湧出る泉あり、里民呼て御手水池と云ふ、宮域を相去ること四丁ばかり西にあたれり、
 (中略)、是往古神武天皇東征乃御時此水にて盥洗し給ひ、此所より宗像三神を遥拝し給ふ。
」とある。
 御手水池は後に「仲哀天皇神功皇后も先例に従ひ給ひ」とあるが、現在、自衛隊基地内にあり、池の位置もその跡も分からない(明治期の地図には確認される)。
岡湊神社

 

神武第一次東征
太歳甲寅
熊野神社(旧粕屋郡古賀町大字莚内(むしろうち)字城之谷)
 創立社傳に曰く、神武天皇東征の時御船を海濱につなぎ此山に登らせ給ひ、石上に御腰をかけ給ふ、其石を御腰石と云ふ(後略)
熊野神社
神武天皇の御腰掛け石
神武天皇の
  御腰掛け石

 

神武第一次東征
太歳甲寅
神武神社(旧宗像郡神興村大字津丸字四郎丸)
 當社は此村の氏神なり古老説に神武天皇東征仕給はむとて日向國より官軍をひきいて岡の湊に遷り給ふ時鳳輦を假に此所に止め給布依て其跡に社を建立し天照皇大神より六世に當らせ給ふ故に六の權現と奉祝せしが明治の一新に權現の號を廢し
神武神社と
改稱す
 (後略)
神武神社

 

神武第一次東征
太歳甲寅
八所神社(旧宗像郡吉武村大字吉留字宮尾)
 神武天皇天業を恢弘せんと日向の國より舟師を帥ゐて東征し給ふ時、遠賀の郡岡の湊に暫く蹕を駐め當郡蔦岳に到給ふに當社の神赤馬に乗り形を顯して人民を指揮し皇軍に従はしめ永く當地の守護神たるべしと誓ひ給ふ。
 即ち其所を名
付て赤馬の庄
云ふ又清淨なる
地に鎭り座んと
て吉き所に留り
給ふ故に吉留と
云へり、
 (後略)
八所神社

 

神武第一次東征
太歳甲寅
筑前東部

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