「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「壱」)

 神武、日向(ひむき)から筑紫に出る

神武東征前史
日向 → 筑紫
 (かむ)(やまと)伊波禮毘古(いはれびこ)の命と、其の伊呂兄(いろせ)(いつ)()の命と二た柱、高千穗の宮に()しまして(はか)りて、「何地(いずこ)()しまさば、平けく天の下の(まつりごと)を聞こし()さん。
 (なほ)(ひむがし)に行かんと思ふ」と云ひて、即ち日向(ひむき)より()ちて筑紫(ちくし)幸御(いでま)しき
(『古事記』神武天皇)
免田式土器の分布

 

天満倭国=倭奴國
② 墨で漢字を書く国家
 これらに関連するのが『後漢書』倭国伝の次の一節である。
 建武中元二(五七)年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。
 倭国の極南界を極むるや、光武賜うに印綬を以てす。
 安帝の永初元(一〇七)年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。
 永初に(いた)り多難となり、始めて寇鈔(こうしょう)に入る。
 永初年間から多難となり、そして初めて「寇鈔」、すなわち各地の反乱に対し攻撃しなければならなくなった。

(金印)

(封泥)

金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午(一一八)年冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 神風(かむかぜ)の 伊勢(いせ)の海の 大石(おひいし)にや い()(もとほ)る 細螺(しただみ)の 吾子(あこ)よ、細螺の 吾子よ。 細螺の い這ひ廻り ()ちてし()まむ。 撃ちてし止まむ。
【口訳】
 神風の伊勢の海の大きな石のまわりを、這いまわっているシタダミのような吾が子よ。シタダミのような兵士よ。シタダミのように這いまわって、敵を撃ち滅ぼしてしまおう。敵を撃ち滅ぼしてしまおう。
【解説】
 伊勢の海は、福岡県糸島半島付近の海。
 佐賀県神崎の吉野ヶ里(次の歌謡の「オサカの大室屋」)の決戦に臨んだとき、兵士に呼びかける歌にアレンジされたようだ。
 替え歌のほうでは、城柵の上から矢を射掛けられ、濠に次々味方の兵の死体が重なってゆく。
 それでもなお、兵士はシタダミのように濠を這って敵陣に迫るのである。生々しい戦闘歌だ。

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋

 吉野ケ里遺跡の前期環濠集落の東側に、当時の東方すなわち筑紫方面から攻めてくる敵を想定して設けられたと思われる「逆茂木」遺構のあることだった。

吉野ケ里遺跡の「逆茂木」遺構

 兵士はシタダミのように濠を這って敵陣に迫るのである。
 生々しい戦闘歌だ。

シタダミ

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午(一一八)年冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ
【口訳】
 お佐賀の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。
お佐賀の大室屋(吉野ヶ里)

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午(一一八)年冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 今はよ、今はよ。ああしやを。今だにも、吾子よ。今だにも、吾子よ。
【口訳】
 今が最後だよ、今が最後だよ。ああ奴らを(倒すのは)。今を置いてないよ、吾が子よ。今を置いてないよ、兵士等よ。
【解説】
 通例では、敵を倒した後、この歌が歌われ、みんなで笑ったとある。
 だが、歌を普通に読むなら、長期戦のあと、終に訪れた総攻撃の合図の歌ととらえるのが順当のように思われる。
 歌の元々は、鵜飼の鵜を捕らえるタイミングを子に教える歌とする解釈(古田武彦氏)がある。
【通例の解釈】
「今はもう、(すっかり敵をやっつけたぞ)。わーい馬鹿者め。これでもか、ねえおまえたち。」

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午(一一八)年冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
(お佐賀なる) 愛瀰詩(えみし)一人(ひだり) (もも)(ひと)(ひと)()へども 抵抗(たむかひ)もせず。
【口訳】
 お佐賀にいるエミシを一騎当千だと、人は言うけれども、(われわれには)手向かいもできなかったぞ。
【解説】
 初句「お佐賀(さか)なる」は、我が国最古の歌論書『歌経標式』(七七二年)にある形から採った。
 エミシは通例「蝦夷」と蔑称が使われるが、ここだけ、原文は「愛瀰詩」とイメージの良い字が用いられている。
 エミシの自称と思われる。口訳にあるとおり、この歌こそが、激戦に勝った側の勝どきの歌であろう。

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
吉野ケ里遺跡の前期環濠集落

Ⓒ吉野ケ里公園

 

神武東征前史
筑紫宮に入る
 年四十五歳に及びて、諸の兄及び子等に謂ひて曰く、「昔我が天神高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)大日孁(おほひるめの)(みこと)、此の豐葦原瑞穗國(ことあげ)して、我が天祖(ひこ)火瓊々杵尊(ほのににぎのみこと)に授けき。
 是に、火瓊々杵尊天關(あまのいはくら)(ひきひら)き、雲路披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらい)()ひて以ちて(いた)り止まる。是の時に、運は鴻荒(あらき)(あた)り、時は草昧(くらき)(あた)る。故、(くら)きを以ちて正しきを養ひ、此の西の(ほとり)(しら)す。
今山産石斧の流通地域図

 

神武東征前史
筑紫宮に入る
 瓊々杵尊を祀る神社として前原市高祖山の高祖(たかす)神社があるが、この宮がおそらく『古事記』に云う「高千穂宮」と推測される。
 貝原益軒の『続風土記』には、「中世の頃、怡土の庄一の宮として、中座に日向二代の神、彦火々出見尊を、右座に神功皇后(気長足姫)、左座に日向三代の玉依姫を祭る」と記されている。
 彦火々出見尊(瓊々杵尊)から玉依姫までの「日向三代」が祭られている以上、「日向の神武」も高祖神社に祭られていたと推測される。 
高祖(たかす)神社
高祖(たかす)神社