「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「壱」)

神武の祖先と出身地

神武の祖父と父と兄弟
 故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命高千穗の宮(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)
 御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山西に在り。
 是の天津(あまつ)日高日子(ひこひこ)波限(なぎさ)(たけ)鵜葺草(うかや)(ふき)不合(あへず)の命、其の(おば)玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、(いつ)()の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛(みけ)()の命。次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は(とよ)御毛沼(みけぬ)の命、またの名は(かむ)(やまと)伊波禮毘古(いわれびこ)の命
 故、御毛沼の命は浪の穗を()みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は(はは)の國と()て海原に入り坐しき。
(古事記 上巻)

 

神武の祖父と父と兄弟
 故、因りて(みこ)の名を(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)と曰う。後に久しうして、(ひこ)火火出見(ほほでみの)(みこと)(かむさ)りき。
 日向(ひむき)高屋山(たかやのやま)の上の(みささぎ)に葬りまつる。
 (ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)、其の(おば)玉依姫(たまよりひめ)を以ちて妃と爲し、(ひこ)(いつ)(せの)(みこと)を生む。次に稻飯命(いないひのみこと)。次に三毛(みけ)(いり)(のの)(みこと)。次に(かむ)日本(やまと)磐余(いわれ)(ひこの)(みこと)(すべ)四男(よつはしらのみこ)を生む。
 久しくして(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)西洲(にしのくに)の宮(かむさ)りき。
 因りて日向(ひむき)吾平山(あひらのやま)の上の(みささぎ)に葬りまつる。
(『日本書紀』神代下)

 

神武東征前史
彦瀲尊まで

花房台地から菊池盆地を望む

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
茂賀の浦

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
茂賀の浦

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
松野連系図(紀氏)
前四七三 越王勾践、呉王夫差を討つ 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」 「呉越同舟」
左注は鈴木真年か

 

神代の倭人の記録
論衡
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」  
(異虚篇第一八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」  
(恢国篇第五八)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯
 草 食白雉服鬯草 不能除凶」  
(儒増篇第二六)
『漢書』地理志
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故
 孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷
 有以也夫。樂浪海中倭人、分爲
 餘國
、以歳時來獻見云。」  
(燕地)
「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」  
(呉地)

 

『魏略』中の火国の記録
文身點面猶稱太伯之苗
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有 狗 奴
,(女) 男 子 為 王 , 其 官 曰 拘 右
智 卑 狗
, 不 屬 女 王 也 . 自 帶 方 至
女 國 万 二 千 餘 里其 俗 男 子 皆 點
而 面 文
. 聞 其 舊 語 ,①自 謂 太 伯 之
②昔 夏 后 少 康 之 子 封 於 會 稽 ,
斷 髮 文 身 以 避 蛟 龍 之 吾 . 今 倭 人
亦 文 身 以 厭 水 害.
① 呉の太伯は「姫
 氏」夫差の祖
  狗奴国は菊池
 川流域菊鹿盆地
② 夏后少康之子は
 越王勾践の祖
  倭人(倭国)は
 遠賀川流域
菊池盆地を望む

 

神武東征前史
彦瀲尊まで

 七城地域の「弥生水田」((うてな)台地の城ノ上遺跡)から籾痕(ジャポニカ種)の
ついた弥生土器が出土している。(七城町史)
 この弥生前期に水田稲作の技術とともに日本に伝播した籾は、揚子江下流域を
原産地とするジャポニカ種だとされている。

神来(おとど)地区の字図
肥後国菊池郡(和名類聚抄)

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
エクアドルの筏

エクアドルの筏
Ⓒ古代舟復元プロジェクト

アイラトビカズラ

 茂賀の浦の北端に相良観音があり、
アイラ観音という。この地は、日本で
ただ一つ自生している「アイラトビカ
ズラ」がある。
 原産地は、中国南部の揚子江流域で
ある。

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
吾平山御陵

 

「吾平山御陵考」 佐野経彦
延喜諸陵式 日向吾平山上陵(彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。在日向国。無陵戸。)
陵墓要覧 鹿児島県肝属郡吾平町大字上名(かんみょう)。洞窟。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命の御陵に
ついて
豊前小倉企救の民佐野経彦つつしんで考えを
述ぶ
日向村(ひむきむら)のうちに吾平山(あひらやま)吾平山(ごへいざん)相良寺(あいらじ)③吾平山の頂上六、七合目と思われる南の山腹に彦波瀲武鸕鷀草葺不合の命の陵といって土を盛り立てた古い塚がある。④御平産(ごへいさん)の観音
 安政七年((一八六〇))申年の冬十二月二十五日、肥後国熊本の旅館で書いたものを、万延二年((一八六一))酉年の一月十日に浄書した。
現代語訳 平野雅曠
季刊『邪馬台国』四十一号掲載

 

「吾平山御陵考」 佐野経彦
吾平山御陵
吾平山御陵
吾平山御陵

 

神武東征前史
彦瀲尊まで
 久しくして(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がや)不合(ふきあへずの)(みこと)西洲(にしのくに)の宮に(かむさ)りき。因りて日向(ひむき)吾平山(あひらのやま)の上の(みささぎ)に葬りまつる。
吾平山

吾平山(福永説)

 

神武東征前史
神武の出生地/吾平津媛との婚姻
 (かむ)日本(やまと)磐余(いわれ)(ひこの)天皇(すめらみこと)(いみな)(ひこ)()()()()
 (ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がや)不合(ふきあへずの)(みこと)の第四子也。
 
 母は玉依姫(たまよりひめ)と曰ひ、海童(わたつみ)少女(むすめ)也。
 
 天皇生まれながらにして明達(さか)し。(こころ)礭如(かた)し。年十五にして立ちて(ひつぎの)(みこ)と爲る。
 長じて日向國吾田(あたの)(むら)吾平津媛(あひらつひめ)を娶りて妃と爲し、手研(たぎし)(みみの)(みこと)を生む。
(『日本書紀』神武天皇紀)

 

神武東征前史
神武の出生地
熊本県山都町斗塩の神武の生誕地伝承
神武天皇塚
神武天皇塚

神武天皇塚の全景
   Ⓒ上田喜四郎

神武天皇塚

Ⓒひぼろぎ逍遥