「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
初期福永説補遺
この内容について、もう一度深く掘り下げたいと思う。今日は火の国、あるいは築後の歴史(古代史)という事になる。
・神武即位前紀戊午(前662)年冬十月癸巳朔八十梟帥を討つ。
十有二月癸巳朔、長髄彦を撃つ。
・景行天皇十二年 十二月癸巳朔、議討熊襲。八十梟帥を討つ。
下図:『日本書紀暦日原典』内田正男編著(雄山閣)
下記の『肥前國風土記』に書かれた地名①〜⑦の場所を示す。
景行天皇九州遠征経路
(Ⓒ邪馬台国の会)
(Ⓒ八俣遠呂智)
景行天皇(第12代)の時代。火前国(肥前国)小津の川上(佐賀市川上付近)に取石鹿文(川上梟帥)と言う熊襲の首領がいた。
当時九州の熊襲は、朝廷にしばしば叛乱をおこし、景行天皇の26年に天皇は討伐の軍議を開かれた。皇子小碓尊(後の日本武尊)御年15歳であったが「彼を討つために、大兵を動かし戦争をすると民業をさまたげ、民心をみだす恐れがあるから、私が行って、これを退治しましょう」と天皇に申し上げ許しを得る。
尊は、賊魁川上梟帥が、その親族などを集めて酒宴していることを探知し、女装して剣を懐にし、密にその宴席に入り、他の婦女子と共に働いたが、夜陰になり、梟帥も酔い臥したので、彼を刺さんとされた時、梟帥はガバと跳ね起き「待て」と叫んで「そのもとは何者だ」と尋ねた。
尊は声に応じて「吾はこれ大足彦天皇(景行天皇の御名)の子、日本童男なるぞ」とおっしゃった。
梟帥はこの時を嘆称して「吾れ強力国中に比すべき者無し、しかるに、その武勇皇子の如きものに出会いし事なし、よって願わくば、尊号を奉り、日本武尊と称え申すべし」と言い、尊に御名を献じた。
尊は、彼を刺殺し悪い仲間を悉く討伐され熊襲を平定した。この時、尊に随従して来た弟彦公は神埼、小城方面の賊徒を平げ、武内宿禰は武雄地方の賊徒を討伐して、何れも征服したので、尊は翌28年2月無事都に凱旋された。
出典:かたりべの里本荘東分P.6、本荘の歴史P.102
弥生時代の倭国=豊国の歴史
弥
生
前
期
弥
生
中
期
前
660
前
300
前
100
前
14
後
57
大物主 八千矛の時代
火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」
伊弉諾尊 細型銅剣の時代
遠賀川式土器 立屋敷遺跡
すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡
素戔嗚尊出雲王朝を創建
天照大神笠置山に降臨、倭奴国
天の金山の鐵から鏡製作
ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜
弥
生
中
期
弥
生
後
期
古
墳
前
期
1C
107
121
146
189
200
239
260
320
(漢)委奴国栄える
倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か
神武天皇即位邪馬台国創始
倭国大乱
卑弥呼共立
帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡
日本武尊「草薙剣」
神功皇后征西
いよいよ神武東征が始まる。二〇二〇年度版 神武東征「参」につづく。