「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「弐」)

初期福永説補遺(ほい)

 この内容について、もう一度深く掘り下げたいと思う。今日は火の国、あるいは築後の歴史(古代史)という事になる。

神武東征前史
初期福永説補遺
 十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文 乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」
 於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造
景行天皇紀
神武東征前史
初期福永説補遺
 十二月五日、熊襲を討つことを相談された。天皇は群卿(まえつきみ)たちに(みことのり)して、 「聞くところによると、襲その国に(アツ)鹿文(カヤ)迮鹿文(サカヤ)という者がおり、この二人は熊襲(くまそ)の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥(ヤソタケル)と言っている。
 勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか」と言われた。
 一人の臣が進み出て言った。
熊襲梟帥(クマソタケル)に二人の娘があります。姉を(イチ)乾鹿文(フカヤ)といい、妹を(イチ)鹿文(カヤ)といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。たくさんの贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう」
神武東征前史
初期福永説補遺
 天皇は、「良い考えだ」と言われた。
 そこで贈物を見せて、二人の女を欺いて味方につけた。天皇は(イチ)乾鹿文(フカヤ)を召して、騙すために寵愛された。
 市乾鹿文は天皇に申し上げ、「熊襲(くまそ)の従わないことを気になさいますな。私に良い案があります。一人二人の兵を私につけて下さい」と言った。
 家に帰って強い酒をたくさん用意して、父に飲ませた。すると酔って寝てしまった。
 (イチ)乾鹿文(フカヤ)は密かに父の弓の弦を切っておいた。そこへ従兵の一人が進み出て、熊襲臬帥(クマソタケル)を殺した。
 天皇はその不孝の甚だしいことを憎んで、(イチ)乾鹿文(フカヤ)を殺させた。
 妹、(イチ)鹿文(カヤ)火国(ひのくにの)(みやつこ)に賜わった。 
神武東征前史
初期福永説補遺

・神武即位前紀戊午(前662)年冬十月癸巳朔八十梟帥を討つ
                十有二月癸巳朔、長髄彦を撃つ。
・景行天皇十二年 十二月癸巳朔、議討熊襲八十梟帥を討つ

『日本書紀暦日原典』(景行天皇12年)

             

下図:『日本書紀暦日原典』内田正男編著(雄山閣)

神武東征前史
初期福永説補遺
『松野連<倭王>系図』
「日本武尊の絵」
取石鹿文(とろしかや) 号川上梟帥
 景行二十七年((九七年))十二月、日本武尊に誅殺される。

下記の『肥前國風土記』に書かれた地名の場所を示す。

『地図』
『地図』

景行天皇九州遠征経路
(Ⓒ邪馬台国の会)

神武東征前史
初期福永説補遺
  肥前國風土記抄録
(崇神天皇の世)朝廷、勅して、肥君等が祖健緒組(たけおぐみ)を遣りて、(火の国を)伐たしめたまひき。
 又、纏向(まきむく)日代(ひしろ)の宮に御宇しめしし(おお)足彦(たらしひこ)の天皇球磨贈於を誅ひて火の國に幸しき
基肄(きい)の郡
 昔者、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、筑紫の國御井の郡の高羅の行宮(大善寺玉垂宮)に御まして、國内を遊覧す。
長岡の神の社
 (鳥栖市田代町永吉の永世神社
 同じき天皇、高羅の行宮(大善寺玉垂宮)に還り幸して、酒殿の泉の邊に在しき。
神武東征前史
初期福永説補遺
  肥前國風土記抄録
養父(やぶ)の郡
 昔者、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、御狗、出でて吠えき。(中略) 因りて狗の聲止むの國といひき。(訛りて養父の郡)
曰理(わたり)の郷
 昔者、筑後の國の御井(みい)川の渡瀬、甚廣く、人も畜も、渡り難にしき。ここに、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、生葉(いくは)山(福岡県浮羽町の山)に就きて船山と為し、高羅山(久留米市高良山)に就きて梶山と為して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。因りて曰理の郷といふ。
神武東征前史
初期福永説補遺
  肥前國風土記抄録
神埼(かんざき)の郡
 昔者、此の郡に荒ぶる神ありて、往来の人多に殺害されき。纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、此の神和平ぎき。爾より以来、更、殃あることなし。因りて神埼の郡といふ。
         (吉野ケ里攻防戦)
 神武前紀戊午年((一一八))冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 お佐嘉の 大室屋に
人多に 入り居りとも
人多に 来入り居りと
も みつみつし 来目
の子らが 頭椎い 石
椎いもち 撃ちてし止
まむ
「絵図:吉野ケ里遺跡」
神武東征前史
初期福永説補遺
  肥前國風土記抄録
佐嘉(さか)の郡
 昔者、樟樹一株、此の村に生ひたりき。幹枝秀高く、茎葉繁茂りて、朝日の影には、杵嶋(きしま)の郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には、養父(やぶ)の郡の草横山を蔽へりき。
 日本武尊、巡り幸しし時、樟の茂り榮えたるを覧まして、勅りたまひしく、「此の國は榮の國と謂ふべし」とのりたまひき。
 因りて(さか)の郡といひき。後に改めて佐嘉の郡と號く。
佐嘉川)此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半を生かし、半を殺しき。此の神を祭るに、神、此の祭を歆けて、遂に應和ぎき。
神武東征前史
初期福永説補遺
  肥前國風土記抄録
小城(をき)の郡
 昔者、此の村に土蜘蛛あり、(おき)を造りて隠り、皇命に從はざりき。日本武尊、巡り幸しし日、皆悉に誅ひたまひき。因りて小城の郡と號く。
「写真:土生遺跡公園」
「写真:出土した踏鋤」

上:土生(はぶ)遺跡公園
右:出土した踏鋤
  (Ⓒ小城市)

後八三
 お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。
 (鸕鷀()草葺(がやふき)不合(あえず)尊の佐賀平野攻略戦)
「地図:1800年前の筑紫平野」

(Ⓒ八俣遠呂智)

 景行天皇(第12代)の時代。火前国(肥前国)小津の川上(佐賀市川上付近)取石鹿(とろしか)()(川上梟帥)と言う熊襲の首領がいた

 当時九州の熊襲は、朝廷にしばしば叛乱をおこし、景行天皇の26年に天皇は討伐の軍議を開かれた。皇子小碓尊(後の日本武尊御年15歳であったが「彼を討つために、大兵を動かし戦争をすると民業をさまたげ、民心をみだす恐れがあるから、私が行って、これを退治しましょう」と天皇に申し上げ許しを得る。

 尊は、賊魁川上梟帥が、その親族などを集めて酒宴していることを探知し、女装して剣を懐にし、密にその宴席に入り、他の婦女子と共に働いたが、夜陰になり、梟帥も酔い臥したので、彼を刺さんとされた時、梟帥はガバと跳ね起き「待て」と叫んで「そのもとは何者だ」と尋ねた。
 尊は声に応じて「吾はこれ大足彦天皇(景行天皇の御名)の子、日本童男なるぞ」とおっしゃった。
 梟帥はこの時を嘆称して「吾れ強力国中に比すべき者無し、しかるに、その武勇皇子の如きものに出会いし事なし、よって願わくば、尊号を奉り、日本武尊と称え申すべし」と言い、尊に御名を献じた。
 尊は、彼を刺殺し悪い仲間を悉く討伐され熊襲を平定した。この時、尊に随従して来た弟彦公は神埼小城方面の賊徒を平げ、武内宿禰は武雄地方の賊徒を討伐して、何れも征服したので、尊は翌28年2月無事都に凱旋された。

出典:かたりべの里本荘東分P.6、本荘の歴史P.102

 肥前國の日本武尊は(御年十五の)神武天皇だった
「日本武尊の絵」

弥生時代の倭国=豊国の歴史



 

 

 

 



 

 

 

 


660


300


 


 


100


 


14


57

 
 

大物主 八千矛の時代

 
 

火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」

 
 

伊弉諾尊 細型銅剣の時代

 
 

遠賀川式土器 立屋敷遺跡

 
 

すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡

 
 

素戔嗚尊出雲王朝を創建

 
 

天照大神笠置山に降臨、倭奴国
天の金山の鐵から鏡製作

 
 

ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜



 

 

 

 







1C
 

107
 

121
 

146
189

200
 

239
 

260
 

320
  

 
 

(漢)委奴国栄える

 
 

倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か

 
 

神武天皇即位邪馬台国創始

 
 

倭国大乱

 
 

卑弥呼共立

 
 

帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡

 
 

日本武尊「草薙剣

 
  

神功皇后征西

高羅の行宮 = 大善寺玉垂宮
 大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではないが、景行天皇の皇子国乳別(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが玉垂宮の前身と考えられ、平成一五年(二〇〇三年)に一九〇〇年御神期大祭を終えた古社です。
(社伝)
  肥前國風土記抄録
(崇神天皇の世)朝廷、勅して、肥君等が祖健緒組(たけおぐみ)を遣りて、(火の国を)伐たしめたまひき。
 又、纏向(まきむく)日代(ひしろ)の宮に御宇しめしし(おお)(たらし)(ひこ)の天皇球磨贈於を誅ひて火の國に幸しき
基肄(きい)の郡
 昔者、纏向の日代の宮に御宇しめしし天皇、巡狩しし時、筑紫の國御井の郡の高羅の行宮(大善寺玉垂宮)に御まして、國内を遊覧す。
大善寺玉垂宮
鬼面尊神
火の君健緒組(たけおぐみ)か)
「大善寺玉垂宮・鬼面尊神」
「大善寺玉垂宮・鬼夜」
「絹本著色玉垂宮縁起」

鬼夜:神功皇后以降の祭か

絹本著色玉垂宮縁起

紀氏王権の成立
筑後は、もと火の國だった
二〇二〇年度版 神武東征「参」につづく
『松野連系図』(倭王系図)
『宋史』日本國(王年代紀)

 いよいよ神武東征が始まる。二〇二〇年度版 神武東征「参」につづく。