「邪馬台国=倭国」は、豊国説 (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「漆」)

神武天皇紀と中国史書との関連

※ 2008年版「神武は筑豊に東征した」、「邪馬臺国年表」の改訂版

神武崩御と邪馬臺國年表
神武は筑豊に東征した」と「邪馬台国年表」の発表後も、欠史八代と祟神天皇紀までの干支に留意して記事の信憑性を追究しつづけた。
 安寧(あんえい)天皇以後はおおよそ、立皇太子、前天皇崩御、即位、葬儀、遷宮、立皇后の記事が並ぶ。この時、二代(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみ)綏靖(すいぜい)天皇)即位前紀がはなはだ異常である。
 (かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)(びこ)天皇崩ず。時に神渟名川耳尊、特に心を喪葬(みはぶり)の事に留む。其の庶兄(いろね)手研(たぎし)(みみ)、行年已に長けて、久しく朝機(みかどまつりごと)()たり
 神武が崩御して、二代手研耳命が即位している神渟名川耳尊は直接に神武の喪葬を行っていない。そして、事変が勃発する。

 日本書紀から神武崩御後に、2代手研耳命が即位している事が読み取れる。

 

神武崩御と邪馬臺國年表
手研(たぎし)(みみ)、)二の弟を害せむことを図る。時に、太歳己卯(つちのとう)
 冬十一月、(かむ)八井(やゐ)(みみ)、則ち手脚戦慄して、矢を放つこと(あた)はず。時に(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみ)、其の兄の持つ所の弓矢を()き取りて、手研耳命を射る。一発に胸に中る。再発に背に中て、遂に殺しつ。
 大王(天皇)暗殺の記録である。この己卯に、日本古典文学大系は次の注を付している。
 「神武紀では神武天皇の崩御は七十六年で、その干支は丙子(ひのえね)に当っているから、ここまでに満三年を経過していることになる。」
 手研耳命三年間大王位にあったことになるが、これらを勘案すれば、神武崩御と手研耳命即位が丙子であることが分かる。

 神武天皇の元年の干支は「辛酉」。それから崩御の神武七十六年の干支は、「丙子」が当たる。それから満三年後の干支が「己卯」である。

 

神武崩御と邪馬臺國年表
 己卯(つちのとう)は、すでに西暦一三九年に当るとしたので、必然的に、神武崩御・手研(たぎし)(みみ)即位年の丙子(ひのえね)は三年前の西暦一三六年に当るのである。すると、神武の享年は六十七歳となる。
 神武紀の記述では、
「七十有六年の春三月、天皇、橿原宮に崩ず。時に年一百二十七歳。」とあり、干支一運の六十年分が、在位年数と享年に加算されていたことが判明した。
 この一点だけでも、古田仮説「二倍年暦」は当たらない。
七十有六年(一十有六年(西暦136年))の春三月の甲午(きのえうま)甲辰(きのえたつ)に、天皇橿原宮に崩ず。時に年一百廿七(六十七)歳。
※「日本書紀暦日原典」によれば、136年三月の儀鳳暦朔干支は「甲寅(きのえとら)」である。
一三六 春三月神武崩御。享年六十七と推測される。

 

神武崩御と邪馬臺國年表
 一三六 夏四月手研(たぎし)(みみ)即位。
「皇輿巡幸す」
 二代手研耳命大王は邪馬台国()())を巡幸する。
 因りて腋上(わきがみ)(ほほふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、「(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ(あき)()()(なめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて(豊)(あき)()(しま)の號有り。
 豊秋津島倭の号はこの時に始まったと紀は記す。
 明年(一三七)の秋九月乙卯(きのとう)丙寅(ひのえとら)畝傍山東北陵に葬りま
つる。
 ここには、香春町の人々が代々大切にしてこられた「おほきんさん大王様)」と呼ぶ弥生時代の円墳がある。
写真「おほきんさん(香春町)」

 

※ 時代順に①〜④の番号を付けた(倭国の国号の移り変わり)

神武薨去後の邪馬臺國
二代手研耳命大王の邪馬臺國巡行
 三十有一年の夏四月の乙酉(きのととり)(ついたち)に、(すめら)輿(みこと)(めぐり)(いでま)す。因りて腋上(わきがみ)(ふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、「(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ蜻蛉(あきつ)()(なめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて(あき)()(しま)の號有り。
 昔、伊奘諾尊、此の國を(なづ)けて曰く、「日本(やまと)は浦安の國(くはし)(ほこ)千足(ちだ)る國()()(かみ)秀真(ほつま)(くに)。」と。
 ()(おほ)()(むちの)大神(おほかみ)(なづ)けて曰く、「玉牆(たまがき)の内つ國。」と。
 饒速日命天磐船に乗りて、太虚(おほぞら)翔行(かけめぐ)り、この(くに)()て天降るに及至りて、故、因りて(なづ)けて曰く、「虚空(そら)見つ日本(やまとの)(くに)。」と。

 

弥生時代の倭国 = 豊国の歴史



 

 

 

 



 

 

 

 


660


300


 


 


100


 


14


57

 
 

① 大物主 八千矛の時代
(大倭豊秋津洲、玉牆の内つ國

 
 

火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」

 
 

② 伊弉諾尊 細型銅剣の時代
(大八洲国、浦安國、細戈千足國

 
 

遠賀川式土器 立屋敷遺跡

 
 

すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡

 
 

素戔嗚尊出雲王朝を創建

 
 

③ 天照大神(饒速日命)笠置山
に降臨(倭奴国天満倭国

 
 

ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜



 

 

 

 







1C
 

107
 

121
 

146
189

200
 

239
 

260
 

320
  

 
 

(漢)委奴国栄える

 
 

倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か

 
 

④ 神武天皇即位邪馬台国創始
(秋津洲)

 
 

倭国大乱

 
 

卑弥呼共立

 
 

帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡

 
 

日本武尊「草薙剣

 
  

神功皇后征西

 

神武紀に見られる重層改竄
 故、()れより、大穴牟遅少名毘古那神産巣日神の御子と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の少名毘古那神は、常世(とこよ)に度りましき。
 是に大国主(大物主)神、(うれ)ひて()りたまひけらく、「吾独(あれひとり)して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
 是の時に海を光して依り来る神
渡来神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与(とも)に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め奉る(さま)奈何(いか)にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐(いつき)奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸(みは)山の上に坐す神(=大物主なり。

 

三輪山(①大物主神)= 倭三山
香山畝尾木本名泣澤女神

天香

耳成山

畝尾

昭和十年の香春岳(倭三山)

倭国の始まり ― ①倭成す大物主
 大物主は別名「八千矛の神」でもある。この神が引き連れてきた部族こそおそらく物部氏二十五部族であろう。
 銅矛の出土状況がそれを裏付ける。
銅剣・銅矛と銅鐸圏の地図

 

英彦山豊前坊 鷹巣)神社
豊日別国魂神 = 大穴牟遅神
大物主神 = ①大己貴神

 

神武紀に見られる重層改竄
 是に天つ神、諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、『この多陀用弊流(ただよへる)国を修理(をさ)め固め成せ。』と詔りて、天の沼矛(ぬほこ)を賜ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。
 故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして()たまへば、(しほ)()々袁々(をろこ)()()に画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の(さき)より(しただ)り落つる塩、(かさ)なり積もりて島と成りき。これ於能碁呂(おのごろ)なり。
(許呂末→頃末
 その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。
写真(遠賀川、多賀山)

於能碁呂島

豊前坊山   

多賀山   

立屋敷遺跡(柱痕跡)
「遠賀川式土器」

立屋敷遺跡(柱痕跡)
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿
  

遠賀川式土器   

 

神武紀に見られる重層改竄
 伊奘諾尊が、「日本(やまと)は浦安の國(くはし)(ほこ)千足(ちだ)る國()()(かみ)秀真(ほつま)(くに)。」と名付 けたとある。
古遠賀湾図

於能碁呂島

新北

マッコウクジラの歯の装飾品
銅戈・銅剣

遠賀町公式
ホームページより
  

直方市天神橋貝塚
マッコウクジラの
歯の装飾品
  

 この『神武紀』にある「日本(やまと)は浦安の國」というのは、海が無い奈良県(大和)ではありえない。また、上図にあるように銅矛が全く出土していない奈良県は「(くはし)(ほこ)千足(ちだ)る國」でもない。

 

古遠賀湾沿岸の最古の稲作   

地図(遠賀川式土器の分布図)
遠賀川式土器・遠賀川系土器

 

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最古級のすずりを再発見された。下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、その中から3点のすずりを確認された。これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたのである。
 他方、③飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土している。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具ということだ。同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流域から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字を書く文化」があったことになろう。
写真「すずり」

下稗田遺跡のすずり

写真「鋳造鉄斧」

鋳造鉄斧

 

※ 立岩遺跡は、饒速日が建国した倭奴国の遺跡

立岩遺跡(③倭奴(いぬ)国の遺跡
鉄剣・鉄矛・刀子・絹
前漢式鏡
甕棺
鉄刀・鉄矛

上 :前漢式鏡
右上:10号甕棺(前漢鏡・鉄剣・銅矛)
右下:10号甕棺の鉄剣の柄に絹の撚糸
   36号甕棺の鉄矛に残る平絹

 

天満(あまみつ)(やまと)国 = 倭奴国の成立
前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨

立岩式石包丁分布図

地図「立岩式石包丁分布図」

「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図

写真:笠置山

笠置山

写真:天照宮(磯光)

天照宮(磯光)

 

天満倭国 = 倭奴国の成立
鉄製品を造った国家
 素戔嗚尊を倒したのが天照大神こと饒速日尊であろう。宮若市宮田町磯光の天照宮に祭られる男神である。
 『古事記』天の岩屋戸伝承にこうある。
 かれここに天照大御()(かし)こみて、天の石屋戸を開きてさし隠りましき。ここに高天原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往く。ここに万の神の声は、さ蝿なす満ち、万の(わざはい)悉に発りき。・・・
 天の金山の(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅を()ぎて、伊斯許理度売の命に(おほ)せて、鏡を作らしめ、・・・天の香山の真男鹿の肩を・・・
 (手力男の神)、速須佐の男の命に千座(ちくら)置戸(おきと)を負せ、また(ひげ)と手足の爪とを切り、祓へしめて、(かむ)(やら)(やら)ひき。
 「千座の置戸」とは何枚もの板状の石のことであり、素戔嗚尊は重い石を身体の上に置かれて圧殺されている。
 彼の一族は再び現在の出雲に流されたようだ。

 

倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以建都
 後漢書曰、朝(鮮)東南大海中、山島百餘國。自武帝滅朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、大倭王邦臺
 樂浪郡儌、去其國万二千里。甚地大較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
『謝承後漢書』
樂浪郡 → 樂浪郡
『隋書俀國傳』
(さかい、とりで
『范曄後漢書』
※ 樂浪郡徼は樂浪郡治の謂いか
伊都(イツ)能知和岐知和岐弖(のちわきちわきて )
『古事記 上巻 忍穂耳(おしほみみ)邇々芸(ににぎ)命 天孫降臨
翰苑(かんえん)

 この里程については、周理を用いている。

 

神武紀に見られる重層改竄
 三十有一年の夏四月の乙酉(きのととり)(ついたち)に、(すめら)輿(みこと)(めぐり)(いでま)す。因りて腋上(わきがみ)(ふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、「(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ蜻蛉(あきつ)()(なめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて(あき)()(しま)の號有り。
 この段落には、日本書紀の深い重層の改竄が見られる。
 大きくは、大物主大神の「大倭豊秋津洲」造り以来の王権交替のすべてを、人皇初代神武天皇が「正統に継承した」との改竄(自分の都合のいいように書き直す)である。
 そのために、神武の即位年を紀元前六六〇年に遡らせ、「削偽」(豊国の神々すなわち歴代の王統を削る)したのである。
 小さくは、直前の「倭奴国=天満(あまみつ)(やまと)国」を「虚空(そら)()日本(やまと)国」と貶めている。

 

神武紀に見られる重層改竄
大己貴神
(岩波文庫  日本書紀一  巻第一  神代上 
 第八段  94頁5行  初出)
(補注)大己貴神と出雲神話の歴史的背景 
  神代紀に占める出雲神話の比重は神代記
 のそれに比べると小さいが、やはり不可欠
 の要素となっている。
伊奘諾尊
(岩波文庫  日本書紀一  巻第一  神代上 
 第二段  20頁13行  初出)
「妍哉」
(同  第三段  28頁2行  初出) 
「大日本豊秋津洲」
(同  第三段  28頁10行  初出)
饒速日命
(岩波文庫  日本書紀一  巻第三  神武天皇
 即位前紀甲寅年  200頁8行  初出)
「天磐船」
(岩波文庫  日本書紀一  巻第三  神武天皇
 即位前紀甲寅年  200頁6行  初出)

 

神武崩御と邪馬臺國年表
(魏志倭人伝)部分
一三六
春三月神武崩御。享年六十七と推測される。
夏四月手研(たぎし)(みみ)即位。「皇輿巡幸す」
皇子(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみ)手研耳命大王を弑し、王位を奪う。太歳己卯(つちのとう)
一三九
春正月神渟名川耳尊、天皇位に即く。葛城に都す。是年、太歳庚辰(かのえたつ)
一四〇
夏四月(かむ)八井(やゐ)(みみ)薨ず。即ち畝傍山の北に葬る。
一四三
桓・霊の間倭国大乱
    (謝承・范曄後漢書)
一四六~一八九
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)

 魏志倭人伝の「其國本亦以男子。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名日卑彌呼。」にある初代の男王が、神武天皇である。
 福永説では、神武東征(神武即位が西暦121年)は、卑弥呼の共立(西暦200年)より約80年前としている。

 

神八井耳命の陵?
Googleマップ

香春町宮原(宮原遺跡)

香春町宮原 170m

倭国大乱時の「冢」か(1)

 

神八井耳命の陵?
Googleマップ

香春町宮原(宮原遺跡)

倭国大乱時の「冢」か(2)

 宮原遺跡の近くにあるこの前方後円墳型の地形は、倭国大乱時の「冢」か?としてきたが、神渟名川耳尊(綏靖天皇)の兄神八井耳命の陵?とした。
 日本書紀によれば、「畝傍山の北に葬る」とあるので、ここは神武陵(おほきんさん)の近くに位置する。
 また、宮原遺跡の箱式石棺から後漢式鏡(内行花文鏡)が出土しているが、現時点で香春町の記録では、この前方後円型地形からは、何も出土していない。埴輪も出土していない。後漢式鏡が出土していないので卑弥呼の時代以前の陵という可能性がある。

 

弥生中期~後期
宮原遺跡(古墳?)
田川郡香春町
箱式石棺4
(大型石棺) 舶載大型鏡1
(大型石棺) 仿製小型内行花文鏡1
(大型石棺) 鉄剣(刀)
(大型石棺)内行花文鏡2
(大型石) (大小各1)後漢鏡後半
3世紀中葉
ホケノ山古墳
桜井市箸中
帆立貝形前方後円墳 全長90m 
石囲い木槨 舟形木棺
(木槨内)画文帯同向式神獣鏡
(足 元)素環頭太刀など刀剣類5
(木槨外?)半肉彫り神獣鏡 
(木槨外?)内行花文鏡等の鏡片23

100年以上

の隔たり

ホケノ山古墳
香春町宮原

*.インターネット上の画像

倭国大乱時の「冢」か 神八井耳命の陵?)

 

『中国正史  倭人、倭国伝』(鳥越憲三郎)
 『後漢書』東夷伝に左の注目すべき記事がある。
 永初(いた)り多難となり、始めて寇鈔(こうしょう)に入る。桓、霊失政し、(やや)滋曼(じまん)
 わが国(倭奴国)から後漢朝へ二回目の入貢をしたのは、第六代安帝が即位した年、永初元年のことであった。その永初年間から多難となり、そして初めて「寇鈔」、すなわち各地の反乱に対し攻撃しなければならなくなったという。それは安帝が十三歳で即位し、太后の臨朝が原因で、治世の乱れを起こしたのかもしれない。
 これは倭国大乱 倭奴国の乱のことで、神武東征の故事が含まれる。
 さらに桓帝、霊帝の失政で、かえって「滋曼」、すなわち権勢をふるうようになって世が乱れた。しかも同じ「後漢書」東夷伝の韓の条に、
倭奴(いぬ)国の乱と倭国大乱

 永初:後漢時代、西暦107年〜113年の元号

 わが国とあるのは、「倭奴国」とした。西暦107年に倭面上国王帥升が、後漢の安帝に生口160人を献上したという記録である。

 

 霊帝の末、韓、(わい)(みな)盛んとなり、制すること(あた)わず、百姓は(いた)く乱れ、流亡して韓に入る者多し。
とあるように、楽浪郡の太守も郡内の韓族、(わい)族を治め切れなくなった情勢の中で、海を隔てた倭国でも大乱が起きることになったのである。
 右が倭国大乱に当たる。
魏志韓伝(部分、番号、傍線は福永)
桓・靈之末、韓・濊彊盛、郡縣不、民多流入韓國。②建安中、公孫康分屯有縣以南荒地、為帶方郡、遣公孫模・張敞等集遺民兵伐韓・濊。舊民稍出。是後倭・韓遂屬帶方。③景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣海定二郡
 魏志韓伝の①②は倭国大乱の時期であり、③の景初三年六月に卑弥呼が帯方郡に使いを出した。
倭奴国の乱と倭国大乱

 ①桓・靈之末:後漢の皇帝、桓帝(146年〜168年)、靈帝(168年〜189年)
 ②建安中:後漢の時代、196年〜220年の元号。この時代に卑弥呼が共立させている。
 ③景初中:魏の時代、237年〜239年の元号

 

神代 ~ 神功の豊国
『宋史』日本國(王年代紀)
 其年代紀所記云、初主號天御中主。次曰天村雲尊、其後皆以尊爲號。次天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、次伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次炎尊、次彦瀲尊、凡二十三世、並都筑紫日向宮
 彦瀲第四子號天皇、自筑紫宮大和州橿原宮。即位元年甲寅((前六六七))周僖
(恵)王時也。次綏靖天皇、次安寧天皇、次懿德天皇、次孝昭天皇、次天皇、次孝靈天皇、次孝元天皇、次開化天皇、次崇神天皇、次垂仁天皇、次景行天皇、次天皇。次仲哀天皇、國人言爲鎮國香椎大神、次天皇、開化天皇之曽孫女、又謂息長足姫天皇國人言爲太奈良姫大神

 元の時代に編纂された『宋史』日本國(王年代紀)には、神武天皇の即位元年の干支が「甲寅」とあり日本書紀にある「辛酉」ではない。
 福永説では、「甲寅」年(114年)に神武は、第一次東征に発した年であり、「辛酉」年(121年)に即位したとしている。
 東大寺別当もつとめた奝然が、宋の太宗に献上したこの王年代紀にも神武天皇の次は、綏靖天皇(神渟名川耳尊)と書かれており、手研耳命は外されている。古くから歴代の天皇として数えられていない。

以上で、2020年度版  神武東征(漆)の本文編は終わりである。