「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征(菟狹から彦山へ)
*1
:スライド内にある狹野嶽を求菩提山と括弧書きしている。その説明をしていく。
*2
:「山の中」とある名無し山は、彦山である。
*3
:古事記の原文は「八咫烏」であるが、日本書紀の原文では「頭八咫烏」と「頭」の一字が付いている。長年追究した結果、この「頭」を「かしら」と訳した。これは、豊前坊=大物主神だったと解った。
*4
:日本書紀のこの短い一文「狹野を越ゆ」の手がかりが次の『求菩提山縁起』にあった。
*5
:求菩提山 は、人皇嶽とも狹野嶽とも呼ばれていた。日本書紀に神日本磐余彥尊(神武天皇)の年少時の名前が狹野尊だと書かれている。
「狹野を越ゆ」の一文にある狹野は、求菩提山の事だった。求菩提山は、彦山の近くの山であるから、神武天皇は、菟狹から彦山を越えた事が解った。
以下が、求菩提山縁起の訳です。
*6
:求菩提山で有名なのが、八天狗像である。八咫烏が、ここ求菩提山にいた事に気が付いた。その真ん中の像(大天狗)が、誰か? 日本書紀に書かれている頭八咫烏の「頭」に当る豊前坊(大物主神)だ。
神武天皇は、彦山の大物主神の子孫、求菩提山にいた八天狗(八咫烏)一族と同盟を結び、この山道を知る一族の案内で彦山から田川へ向かう。
*7
:ここに書かれている吉野は、彦山の南側、大分県中津市山国町吉野である。
*8
:吉野の國樔は、現在の大分県の玖珠である。九州弁で「くず」の発音は「くじゅ」であり、玖珠の近くに九重町、九重山もある。