「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「陸」)

第二次神武東征
(倭奴国との最終決戦に勝利、倭奴国滅亡し邪馬臺国成立)

*.倭奴國滅亡

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
十一月、立岩丘陵飯塚市に籠る磯城彦
 攻めようとして、神武は川と海の混ざる
 広大な沼を徒歩で渡り、片島飯塚市
 上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、
 城彦
を滅ぼす。「天磐盾立岩神社に登
 り」、東征成就を天祖に祈願する。
其の梟帥兄磯城等を斬る。

神武天皇軍に
 折られた天磐船(舟石)

「立岩神社」

 

*.神武天皇東征地図(九州部分のみ)

Ⓒ山梨 歴史文学館
「✕」は福永
「神武東征の地図(Ⓒ山梨 歴史文学館)」

 彦山 

 福永説では、神武天皇は菟狹(安心院の妻垣神社)に入った後、そこから陸路で彦山と通過して、天降神社(豊前川崎)へ行った。そこから最終的には、中洲(飯塚市の立岩丘陵)を攻め滅ぼした。
 したがって、通説の神武東征のある菟狹から海路で行くルートは、福永説では存在しません。さらに北九州辺りから瀬戸内海を通って近畿へ行ったというルートもありません。
 福永説では、神武が東征した倭国での出来事は、全て豊国内での出来事である。

 

*.神武の時代の立岩丘陵周辺の地形(海面を13m上げた地図)

立岩丘陵が中洲か
熊野神邑に於ける神武東征最大の決戦
「福岡県飯塚市周辺(Ⓒ)Flood Maps」

ⒸFlood Maps

 +13m 

立岩丘陵

 立岩丘陵周辺の地図を海面を13m上げた状態で再現した理由としては、遠賀川の下流域に当る鞍手町新北の海抜0mの田んぼでは、20〜30mの土砂が埋まっている。
 したがって、上流に位置する立岩丘陵も20mくらいは土砂に埋まっていると思われる。だとすれば、立岩丘陵は海に囲まれている中洲という可能性がある。
 だから、ここが、日本書紀にいう中洲(なかつくに)だと思われるから、神武東征の最大の決戦地である熊野の神邑という事になる。

 

*.立岩遺跡は、神武か滅ぼした饒速日の子孫の遺跡

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
弥生の鉄剣・鉄矛・刀子・絹

右:10号甕棺 前漢鏡・鉄剣・銅矛
左:10号甕棺 鉄剣の柄に絹の撚糸
  36号甕棺 鉄矛に残る平絹

「甕棺」
「鉄刀・鉄剣の絵に絹」

 

立岩遺跡(倭奴国の遺跡)
弥生の鉄剣・鉄矛・刀子・絹
「前漢式鏡」

前漢式鏡
Ⓒ飯塚市歴史資料館

 前漢(前206〜後8年)、後漢(後25〜220年)、その間に王莽(おうもう)が建てた(後8〜23年)という王朝の時代がある。

 立岩遺跡からは、前漢式鏡が出土しているという事は、神武の前の王朝の遺跡という事になるから倭奴國の遺跡と捉えている。

 

一、擊皷神社(同幸袋町)/ 一、白旗山(同)/ 一、笠城山(鞍手郡宮田町)

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
一、擊皷神社(同幸袋町)  
   天皇進軍を命じ給ふた故地
一、白旗山(同)    
   天祖を祭られて神託を得られた靈跡
十二月、長髄彦(ながすねひこ)との最後の決戦に臨む。
「十有二月の癸巳(みずのとみ)(ついたち)丙申(ひのえさる)に、皇師遂に
 長髓彦を撃つ。」
 苦戦を強いられ
 たようだが、辛
 勝し、終に長髓
 彦
を殺す。
一一九年三月一日
  倭奴国
滅亡し、
  邪馬臺国成立。
(日本書紀+鞍手
 郡誌+後漢書)
一、笠城山(鞍手郡宮田町)  
   天祖の靈を祭り給ふた靈地
「神武第二次東征(鳥見野の決戦・金色に輝く鳶)」

鳥野の長髄彦との戦い

(金色靈鵄)

 

*.神武東征の最終決戦の地は、直方市頓野

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 十有二月の癸巳(みづのとのみ)(ついたち)丙申(ひのえさる)に、皇師遂に(なが)髄彦(すねひこ)を撃つ。連戰して取勝つこと(あた)はず。時に忽然として天陰りて雨氷ふる。(すなわ)金色の靈鵄有り、飛び來たりて皇弓の(はず)に止れり。其の(とび)光り()(かがや)きて、(かたち)(いな)(びかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒、皆迷ひ(くら)みて、復た力戰せず。長髓(これ)(むら)(もと)()なり。因りて亦以て人名と()せり。皇軍(みつ)を得るに及びて、時の人()りて鵄邑(とびのむら)(なづ)く。今鳥見(とみ)直方市頓野)と云ふは、是(よこなば)れる也。
 昔孔舍(くさ)()の戰に、五瀬命、矢に(あた)りて(かむさ)りませり。天皇(ふふみも)ちたまひて、常に(いくみ)(うらむること)(いだ)きたまふ。此の(えだち)に至りてや、(みこころ)窮誅(ころ)さむと欲す。

*1

 鳥見(とみ)(= 直方市頓野

*2

 通説の「孔舍衞(くさえ)」は、「孔舍衙(くさか)」ではないかと(参)神武第一次東征の比定地(福永説)で既に説明している。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十三 登美の瑞光(金鵄)

十三 登美の瑞光(金鵄)

 

八咫烏の祭神(八咫鏡?)
 ガルーダ神(ガルダ衆→カラス)
「写真」

 ガルーダ神:ヒンドゥー教の戦いの神で、人間の身体、鷲の頭・嘴・かぎづめと大きな翼をもつ鳥の王でもある。ヒンドゥー教の三大神の一人『ヴィシュヌ神』を載せて戦う。

(福永説)
 「カラス」の語源はガルーダ神。それが、ガルダ衆となり、カラスとなったのではないか。

 

鵄邑 = 鳥見(野)→ 頓野
「Google Earth(直方市頓野)」

 頓野 

 頓野 

 

*.神武天皇に饒速日尊が帰順

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 時に長髓彦、乃ち行人(つかひ)を遣はして、天皇に言ひて曰く、「嘗て、天神の子有り、天磐船に乘りて、天より降り()でませり。(なづ)けて櫛玉饒速日(にぎはやひ)と曰ふ。是吾が(いろも)三炊屋(みかしきや)(ひめ) 亦の名は長髓媛、亦の名は鳥見(とみ)屋媛()りて、遂に兒息(みこ)有り。名をば可美眞手(うましまでの)と曰ふ。
 (かれ)、吾、饒速日命を以て、君と()(つか)へまつる。()天神の子(あに)兩種(ふたはしら)()さむや。奈何(いか)ぞ更に天神の子と稱して、以て人の(くに)(=倭奴國)を奪はむや。吾心に推すに、未だ必ずしも(まこと)()さず。」とまうす。
 天皇曰く、「天神の子亦多きのみ。汝が君と爲る所、是(まこと)天神の子ならば、必ず表物(しるしもの)有らむ。相示すべし。長髓彦、即ち饒速日命の天羽々矢一隻及び歩靫(かちゆき)を取りて天皇に示し奉る。

 

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 天皇之を(みそなは)して曰く、「事不虚(まこと)なりけり」とのたまひて、還りて所御(みはかし)の天羽々矢一隻及び歩靫(かちゆき)を以て長髓彦に示し賜ふ。長髓彦其の天表(あまつしるし)を見て、(ますます)踧踖(おそれかしこま)ることを(うだ)く。然れども凶器(つはもの)(すで)(かま)へて、其の勢ひ、(なかぞら)に休むことを得ず。而して猶ほ迷へる(はかりごと)を守りて、復た(ひるがへ)(こころ)無し。饒速日命、本より天神慇懃(ねんごろ)にしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且つ()長髓彦稟性(ひととなり)愎佷(いすかしまにもと)りて、敎ふるに(きみ)(ひと)(あひだ)を以てすべからざることを見て、乃ち之を殺しつ。其の(もろびと)(ひき)ゐて歸順(まつろ)ふ。天皇、素より饒速日命は、是天より降りし者と聞しめせり。而して今果して忠效(ただしきまこと)を立つ。則ち褒めて之を(めぐ)みたまふ。此物部氏遠祖(とほつおや)なり。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十四 饒速日尊 長髄彦を誅して帰順

十四 饒速日尊 長髄彦を誅して帰順

 

*.日本書紀の「饒速日尊が、長髄彦(ながすねひこ)を誅して神武に帰順」についての
 「神武は筑豊に東征した」の中での 推察 
(2008年「越境としての古代(6)」で発表)

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 結果から言えば、戊午(つちのえうま) 年(一一八年)の春二月に第二次東征に発向した神武は、同年十二月に終に長髓彦軍に勝利し、あろうことか、天神(書紀は天忍穂耳命を当てる)の子である櫛玉饒速日命長髓彦を殺し、神武に帰順したとなっている。倭奴国の滅亡(たん)であることは間違いない。
 紀元前一四年の天神(饒速日命)降臨に始まった「天満倭国=倭奴国」は、紀元一一八年に饒速日命の末裔の帰順により滅亡したらしい。一三二年間の王朝であったようだ。
 この段落は、神武東征の大義名分に満ち溢れた箇所である。
 先ず、饒速日命神武は同時代の人間ではない。長髄彦饒速日命の義弟に当るから、彼も神武と同時代の人間ではない。「長髓は是邑の本の號なり。因りて亦以て人名と()せり。」が事実であるなら、神武の倒した長髄彦は何代目かの長髄彦となる。
 それよりも重大なのは、天神の子である証の「天羽々矢一隻及び歩靫(かちゆき)」の「天表(あまつしるし)」を長髄彦に示したことにある。造作の疑惑濃厚だが、神武天神の正統であることのプロパガンダとして必要不可欠のものであるらしい。

 

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 加えて「饒速日命、本より天神慇懃(ねんごろ)にしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。」(天神が痛切に心配なさるのは、天孫のことだけである。〈岩波本頭注〉)のぎこちない一文が、天孫こそが天神の正統の後継者であることの宣伝に努めていることが分かる。これなくしては、東征の大義名分が立たないようだ。
 また、新王朝の統治に是が非でも必要な宣伝であるようだ。無理は承知の上の造作であろう。
 岩波書店の神武紀の頭注では、櫛玉饒速日命について、私とは真逆の説明が施されている。
《記には邇芸速日命とある。旧事紀、天孫本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、亦名天火明命」と見え、天忍穂耳尊𣑥幡(たくはた)千千(ちぢ)(ひめ)を妃として儲けた子とするが、これは記伝に言うごとく、しいて天孫に付会した造作で、天神ではあるが世系の明らかならぬ神である。下文に物部氏遠祖。》(傍線は福永)
 この頭注の解釈こそ、江戸の国学以来戦後史学に至るまでの、「(やまい)膏肓(こうこう)に入る」ような、誤謬(ごびゅう)に陥って治る見込みのない史観の露呈に他ならないのである。

 

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 饒速日の直系が神武に滅ぼされ、饒速日の傍系が神武に帰順したことは想像に難くない。
 下文において、事代主神(ことしろぬしのかみ)三嶋溝橛耳(みしまみぞくいみみ)の女の玉櫛媛との間に儲けた媛蹈韛(ひめたたら)五十鈴(いすず)媛命(ひめのみこと)を正妃に迎える記事がある。
 記では、大物主神三島(みしま)溝咋(みぞくい)の女の勢夜陀(せやだ)多良(たら)()()との間に儲けた比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を皇后としている。
 いずれが正しいにしろ、要は天孫天神の血統を取り入れることによって、天神王朝の正統の王家の格を得ることにある。このことが、長らく偽書扱いされた『先代(せんだい)旧事(くじ)本紀』の重大性・正当性を回復させることになろう。
 同書において、「天神本紀」と「天孫本紀」は、「饒速日尊」の記事が重複し、天孫本紀ではさらに饒速日尊を「天孫と謂ふ。亦皇孫と称す。」とあるから、饒速日尊天神であり、天孫であり、皇孫である。
 つまり人皇初代神武に始まる皇統に深く関わることが述べられているのである。
 同時に、筑豊から各地に東遷した物部氏の系譜にも「神武東征」の衝撃の余波が色濃く影響しているようである。

 

*.長髄彦は、饒速日尊の義弟であり、神武天皇と同時代の人物ではない。

物部氏と天皇家の系譜

  

  物部氏(天孫本紀)

河内物部氏

海部/尾張氏

 天皇家 

初代

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊       亦名 天火明命

瓊々杵尊

一世

天香語山命

宇摩志麻治命

宇摩志麻治命

天香語山命

彦火火出見命

二世

天村雲命

味饒田命

味饒田命

天村雲命

鸕鷀草葺不合尊

三世

天忍人命

大彌命

大彌命

天忍人命

①神武

四世

瀛津世襲命

大木食命

大木食命

天登目命

②綏靖

五世

建箇草命

鬱色雄命

鬱色雄命

建登米命

③安寧④懿徳⑤孝昭

六世

建田背命

武建大尼命

武建大尼命

建宇那比命

⑥孝安

七世

建諸隅命

建膽心大彌命

建膽心大彌命

建諸隅命

⑦孝霊⑧孝元

八世

倭得玉彦命

物部武諸隅連公

物部武諸隅命

日本得魂命

⑨開化

九世
  

弟彦命(妹は
日女命

物部多遅麻連公
  

  
  

弟彦命
  

⑩崇神卑弥呼
  

十世

淡夜別命

物部印葉連公

  

平縫命

⑪垂仁

十一世

乎止與命

物部真椋連公

  

小登与命

⑫景行臺與

 日本書紀中に出てくる神武天皇が倒した長髄彦は、先代旧事本紀の物部氏(天孫本紀)の系図で、 三世の天忍人命が該当 するのではないか、というのが福永説である。

 饒速日尊の系譜については、『越境としての古代[6]』「神武は、筑豊に東征した」の中で詳述しています。 こちら のページをご覧下さい。