「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(倭奴国との最終決戦に勝利、倭奴国滅亡し邪馬臺国成立)
*.倭奴國滅亡
*.神武天皇東征地図(九州部分のみ)
福永説では、神武天皇は菟狹(安心院の妻垣神社)に入った後、そこから陸路で彦山と通過して、天降神社(豊前川崎)へ行った。そこから最終的には、中洲(飯塚市の立岩丘陵)を攻め滅ぼした。
したがって、通説の神武東征のある菟狹から海路で行くルートは、福永説では存在しません。さらに北九州辺りから瀬戸内海を通って近畿へ行ったというルートもありません。
福永説では、神武が東征した倭国での出来事は、全て豊国内での出来事である。
*.神武の時代の立岩丘陵周辺の地形(海面を13m上げた地図)
立岩丘陵周辺の地図を海面を13m上げた状態で再現した理由としては、遠賀川の下流域に当る鞍手町新北の海抜0mの田んぼでは、20〜30mの土砂が埋まっている。
したがって、上流に位置する立岩丘陵も20mくらいは土砂に埋まっていると思われる。だとすれば、立岩丘陵は海に囲まれている中洲という可能性がある。
だから、ここが、日本書紀にいう中洲だと思われるから、神武東征の最大の決戦地である熊野の神邑という事になる。
*.立岩遺跡は、神武か滅ぼした饒速日の子孫の遺跡
※
前漢(前206〜後8年)、後漢(後25〜220年)、その間に王莽が建てた新(後8〜23年)という王朝の時代がある。
立岩遺跡からは、前漢式鏡が出土しているという事は、神武の前の王朝の遺跡という事になるから倭奴國の遺跡と捉えている。
一、擊皷神社(同幸袋町)/ 一、白旗山(同)/ 一、笠城山(鞍手郡宮田町)
*.神武東征の最終決戦の地は、直方市頓野
*1
鳥見(= 直方市頓野)
*2
通説の「孔舍衞」は、「孔舍衙」ではないかと(参)神武第一次東征の比定地(福永説)で既に説明している。
※
ガルーダ神:ヒンドゥー教の戦いの神で、人間の身体、鷲の頭・嘴・かぎづめと大きな翼をもつ鳥の王でもある。ヒンドゥー教の三大神の一人『ヴィシュヌ神』を載せて戦う。
(福永説)
「カラス」の語源はガルーダ神。それが、ガルダ衆となり、カラスとなったのではないか。
*.神武天皇に饒速日尊が帰順
*.日本書紀の「饒速日尊が、長髄彦を誅して神武に帰順」についての
「神武は筑豊に東征した」の中での 推察 (2008年「越境としての古代(6)」で発表)
*.長髄彦は、饒速日尊の義弟であり、神武天皇と同時代の人物ではない。
物部氏(天孫本紀)
河内物部氏
海部/尾張氏
天皇家
初代
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 亦名 天火明命
瓊々杵尊
一世
天香語山命
宇摩志麻治命
宇摩志麻治命
天香語山命
彦火火出見命
二世
天村雲命
味饒田命
味饒田命
天村雲命
鸕鷀草葺不合尊
三世
天忍人命
大彌命
大彌命
天忍人命
①神武
四世
瀛津世襲命
大木食命
大木食命
天登目命
②綏靖
五世
建箇草命
鬱色雄命
鬱色雄命
建登米命
③安寧④懿徳⑤孝昭
六世
建田背命
武建大尼命
武建大尼命
建宇那比命
⑥孝安
七世
建諸隅命
建膽心大彌命
建膽心大彌命
建諸隅命
⑦孝霊⑧孝元
八世
倭得玉彦命
物部武諸隅連公
物部武諸隅命
日本得魂命
⑨開化
九世
弟彦命(妹は
日女命)
物部多遅麻連公
弟彦命
⑩崇神(卑弥呼)
十世
淡夜別命
物部印葉連公
平縫命
⑪垂仁
十一世
乎止與命
物部真椋連公
小登与命
⑫景行(臺與)
日本書紀中に出てくる神武天皇が倒した長髄彦は、先代旧事本紀の物部氏(天孫本紀)の系図で、 三世の天忍人命が該当 するのではないか、というのが福永説である。
饒速日尊の系譜については、『越境としての古代[6]』「神武は、筑豊に東征した」の中で詳述しています。 こちら のページをご覧下さい。