「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「陸」)

第二次神武東征
(橿原の地に新都建設 〜 神武天皇崩御まで)

 

*.倭奴国の残党狩り後、新都の地を定める

第二次神武東征 
倭奴国掃討戦と新都建設
 三月(やよい)辛酉(かのととり)(ついたち)丁卯(ひのとう)に、(のりごと)を下して曰はく、「我を征ちしより、(ここ)に六年になりにたり。(かうぶ)るに皇天(あまつかみ)(いきほひ)を以てして、凶徒(あた)就戮(ころ)されぬ。(ほとり)(くに)未だ(しづま)らず、(のこり)(わざはひ)()れたりと(いへど)も、中洲の地、(また)風塵(さわぎ)無し。誠に皇都を(ひら)(ひろ)めて、大壯(おほとの)(はか)(つく)るべし。而るを今()(わかく)(くらき)()ひて、の心朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住みて、習俗(しわざ)惟常(これつね)となりたり。()(ひじ)()(のり)を立てて、(ことわり)必ず時に(したが)ふ。(いやし)くも(かが)有らば、何ぞ聖の(わざ)(たが)はむ。且當(まさ)に山林を(ひら)(はら)ひ、宮室(おほみや)經營(おさめつく)りて、(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おほみたから)を鎭むべし。上は(あまつ)(かみ)の國を授けたまひし(みうつくしび)に答へ、下は皇孫(すめみま)(ただしきみち)を養ひたまひし心を弘めむ。(しかう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)(おほ)ひて(いへ)()むこと、亦()からずや。觀れば、夫の畝傍山 畝傍山、此をば宇禰縻夜摩(うねびやま)と云ふ。東南の橿原の地は、蓋し國の墺區(もなかのくしら)か。(みやこつく)るべし」とのたまふ。

 

*.日本書紀の己未年(119年)三月 〜 庚申年(120年)秋八月間の空白期間を射手引神社社伝
 が補う

第二次神武東征 
倭奴国掃討戦と新都建設
 是の月に、即ち有司(つかさ)に命じて、(みや)()(つく)り始む。
一、笠城山(鞍手郡宮田町)
   天祖の靈を祭り給ふた靈地
一、伊岐須(現嘉穂郡宮野村)
   大屋彦の奉迎地
一、神武山(同)
一、神武邑(同)
   天皇に因む地名
一、曩祖の杜(飯塚市)
   曩祖を祭られた所
一、潤野(嘉穂郡鎮西村)
   天祖を祭られた所
一、姿見(同)
一、日の原(同)
   天皇に因む地名

 

第二次神武東征 
倭奴国掃討戦と新都建設
一、高田(同同大分村)
   田中熊別の奉迎地
一、大分(同)
   オホギタと讀む、天皇天皇の神靈を祭る
一、山口(同上穂波村)
   皇軍戰勝休養の地
一、牛頸(同)
   土蜘蛛打猿打首の故地
一、寶滿山竈門山
   登山して御母君の靈位を祭り給ふ
一、田中庄筑紫郡大野村
   荒木武彦奉迎地
一、蚊田の里粕屋郡宇美町
   荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み奉っ
   た地
一、神武原(同)
一、若杉山(同篠栗町)
   いづれも天皇の靈跡地   (以下略)

 射手引神社社伝にある「寶滿山(竈門山)」は、神武天皇が東征に出た筑紫へ陸路で凱旋したことがわかる。
 この事は、日本書紀には一切書かれていない。神武東征が奈良県(近畿)まで行っていない事を判らないようにした。

 

*.神武天皇御一代記御絵巻の順序が違う
 「八紘一宇(八紘を掩ひて宇と為さむ)」の後に「奠都と宮殿造營」とあるべき

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

二十 八紘一宇(八紘を掩ひて宇と為さむ)

二十 八紘一宇(八紘を掩ひて宇と為さむ)

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十五 奠都と宮殿造營

十五 奠都と宮殿造營

 

*.香春一ノ岳が、古事記の一節にある「畝尾山」である
 この山の東南、橿原の地に帝宅を造ったと日本書紀にある

三輪山大物主神)= 倭三山
香山畝尾木本名泣澤女神

天香

耳成山

畝尾

昭和十年の香春岳(倭三山)

*.万葉集29番歌では「玉手次 畝火の山」と詠われている
 「玉手次」は古代のネックレス。削られる前の香春一ノ岳の山頂近くに縊れがあり、ネックレ
 スを付けているように見えた

玉手次(たまたすき) 畝火(うねび)の山
香山畝尾木本名泣澤女神
香春岳(倭三山)
「玉手次」(首飾り)

天香

耳成山

畝尾

 

*.香春一ノ岳(畝尾山)の東南に鶴岡八幡宮がある。そこが橿原の地である

畝尾山(香春一ノ岳)の現在の姿
天智天皇の時代までは大物主神が祀られていた。

「写真:鶴岡八幡宮より香春一ノ岳を望む」

鶴岡八幡宮

「写真:鶴岡八幡宮」
「写真:鶴岡八幡宮」

 

*.筑紫へ凱旋の後に橿原の地(香春)へ戻ってくる

第二次神武東征 
正妃を迎える
 庚申(かのえさる)(一二〇年)の秋八月の癸丑(みずのとうし)(ついたち)(つちのえ)(たつ)に、天皇(まさ)に正妃を立つべく、改めて廣く華胄(よきやから)を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰く、「事代(ことしろ)(ぬしの)(かみ)三嶋(みしまの)溝橛(みぞくひ)(みみの)(かみ)(むすめ)玉櫛媛(みあひ)して生める兒を、號けて(ひめ)蹈韛(たたら)五十()(すず)(ひめの)(みこと)と曰ふ。是、國色(かほ)(すぐ)れたる者なり」とまうす。天皇之を悦びたまふ。
 九月の壬午の朔乙巳に、(ひめ)蹈韛(たたら)五十()(すず)(ひめの)(みこと)(めしい)れて、以て正妃と爲す。
 天の金山(まがね)を取 りて、鍛人(かぬち)(あま)津麻羅(つまら)を求ぎて、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命に(おほ)せて、を作らしめ、
  古事記(天の岩屋)
「画像:タタラ製鉄」

Ⓒ日立金属

 

*.古事記では、神武は大物主神の子孫の娘を正妃に迎えた

邪馬臺国の成立
一二〇年
 「ここに媛女あり。こをの御子と謂ふ。そのの御子と謂ふ所以は、()(しま)湟咋(みぞくひ)(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神、見感でて、その美人の大便(くそ)まる時、丹塗矢(にぬりや)()りて、その大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。すなはちその矢を()ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫(をとこ)に成りぬ。すなはちその美人を娶して生みし子、名は富登多多良伊須須(ほとたたらいすす)岐比売(きひめ)と謂ひ、亦の名は比売多多良(ひめたたら)伊須気余理比売(いすけよりひめ)と謂ふ。こはそのほとといふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。故、ここを以ちての御子と謂ふなり」とまをしき。
(古事記)
※ 火処(ほと) ⇒ 踏鞴(たたら) 製鉄

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十六 立皇后

十六 立皇后

 

*.神武天皇の即位は、2月11日ではなく、6月2日だった

第二次神武東征 
橿原宮に即位
 辛酉(かのととり)(一二一年)の春正月(夏五月)庚辰(かのえたつ)(ついたち)に、天皇橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。是歳を天皇の元年と爲す。
※ 辛酉年(西暦121年)の庚辰朔:6月2日
日本暦日原典(西暦121年、景行天皇51年=辛酉)
第二次神武東征 
橿原宮に即位(つづき)
 正妃を尊びて皇后と爲たまふ。皇子神八井(かむやゐの)(みこと)(かむ)渟名(ぬな)(かは)(みみの)(みこと)を生みたまふ。故に古語(ふること)に稱して曰く、「畝傍橿原に於いてや、宮柱底つ(いは)の根に太立(ふとしきた)て、高天の原()()峻峙(たかし)りて、始馭(はじめて)(あめの)(した)(しらしめす)天皇(すめらみこと)を、けて(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)(びこ)火々(ほほ)()(みの)(すめら)(みこと)(まう)す」。 初めて天皇天基(あまつひつぎ)を草創したまふ日に、 大伴氏の遠祖(みちの)(おみの)(みこと)(おほ)來目部(くめら) を帥ゐて、 (しのび)(みこと)奉承()けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖氣(わざはひ)を掃ひ(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて(ここ)に起れり。
※ 崇神天皇の御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と同じ始馭(はつ)天下之(くにしらす)天皇(すめらみこと)とは、読めない。
 始馭(はじめて)(あめの)(した)(しらしめす)天皇(すめらみこと)と読んだ。これは、号ではなく業績である。(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)(びこ)火々(ほほ)()(みの)(すめら)(みこと)が、号である。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十七 御即位禮

十七 御即位禮

 

*.頭八咫烏が頂いた領地が、「飛ぶ鳥の明日香(赤村)」である

第二次神武東征 
倭奴国征伐の論功行賞
 二年(一二二年)の春二月(夏五月)甲辰(きのえたつ)乙巳(きのとみ)に、天皇功を定め(たまひもの)を行ひたまふ。(みちの)(おみの)(みこと)に宅地を賜ひて、(つき)坂邑(さかのむら)(はべ)らしめたまひ、以て寵異(ことにめぐ)みたまふ。亦(おほ)來目(くめ)をして畝傍山以西の川邊(かはら)の地に居らしめたまふ。今、來目邑(くめのむら)と號くるは、此、其の(ことのもと)なり。珍彦(うづひこ)を以て倭國造(やまとのくにのみやつこ)と爲。又、弟猾(おとうかし)猛田邑(たけだのむら)を給ふ。因りて(たけ)(だの)縣主(あがたぬし)と爲。是菟田(うだの)主水部(もひとら)が遠祖なり。(おと)磯城(しき)、名は黑速(くろはや)磯城(しきの)縣主(あがたぬし)と爲。復劒根(つるぎね)といふ者を以て、葛城國造と爲。又、頭八咫烏、亦(たまひもの)(つら)に入る。其の苗裔(のち)は、即ち葛野(かづのの)主殿(とのもりの)縣主部(あがたぬしら)是なり。
※飛ぶ鳥の明日香
(八咫烏一族の領地、現在の赤村。烏須賀(あすか)
 の説、出現。)

 

*.弟猾が頂いた領地(猛田邑)は、川崎町の田原遺跡辺り

「地図(川崎町:猛田 埴安⇒位登郷)」

日本書紀の猛田(たけだ)埴安(はにやす)は、『倭名類聚抄』にある位登(いとう)

位登

田原遺跡 ●

 

第二次神武東征 
鳥見山中靈畤(まつりのには)
 四年(一二四年)の春二月(夏六月)(みずのえ)(いぬ)の朔甲申(きのえさる)に、詔して曰はく、「我が皇祖(みおや)(みたま)、天より降り()て、朕が()(てら)し助けたまへり。今諸の(あた)已に平げて、海内(あめのした)事無し。以て天神(あまつかみ)(こう)()して、用て大孝(おやにしたがふこと)を申すべし」とのたまふ。乃ち靈畤(まつりのには)鳥見山福智山の中に立てて、其の地を號けて(かみつ)小野(をの)榛原(はりはら)(しもつ)小野(をの)の榛原と曰ふ。用て()(おやの)天神(あまつかみ)を祭りたまふ。
鳥野神社(直方市頓野)
写真「鳥野神社(直方市)」
写真「鳥野神社(直方市)」

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十八 鳥見山中靈畤

十八 鳥見山中靈畤

 

*.鳥見山中靈畤の場所は、直方市頓野にある鳥野神社。ここが、上小野の榛原

地図(直方市頓野)

上小野

 

*.直方市に小野牟田池がある。古遠賀湾(遠賀川)に近い方が、下小野の榛原か?

地図(直方市 小野牟田池)

 

*.日本書紀にある「邪馬臺国巡行、神渟名川耳尊立太子」の記事は、造作

第二次神武東征 
邪馬臺国巡行、神渟名川耳尊立太子
 三十有一年の夏四月の乙酉(きのととり)(ついたち)に、皇輿(すめらみこと)(めぐり)(いでま)す。因りて腋上(わきがみ)(ふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、「(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ蜻蛉(あきつ)()(なめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて(あき)()(しま)の號有り。昔、伊奘諾尊、此の國を(なづ)けて曰く、「日本(やまと)は浦安の國、(くはし)(ほこ)の千足る國、磯輪上(しはかみ)秀真(ほつま)(くに)。」と。復た(おほ)()(むちの)大神(おほかみ)(なづ)けて曰く、「玉牆(たまがき)の内つ國。」と。饒速日命、天磐船に乗りて、太虚(おほぞら)翔行(かけめぐ)り、この(くに)()て天降るに及至りて、故、因りて(なづ)けて曰く、「虚空(そら)見つ日本(やまとの)(くに)。」と。
 四十有二年の春正月の壬子(みずのえね)の朔(きのえ)(とら)に、皇子(みこ)(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみの)(みこと)を立てて、皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。

 

*.神武紀の「七十有六年」は、干支一運が加算されている。「一十有六年」が実年である

第二次神武東征 
神武崩御
 七十有六年(一十有六年、136年)の春三月の甲午朔甲辰に、天皇橿原宮に崩ず。時に年一百廿七(六十七)歳。
一三六年 春三月、神武崩御。享年六十七と推測される。
 夏四月、手研耳命即位。皇輿(すめらみこと)(めぐり)(いでま)す。」二代手研耳命大王邪馬台国旧倭奴国)を巡幸する。「因りて腋上(わきがみ)(ふく)(まの)(をか)に登りて、國の(かたち)(めぐ)らし望みて曰く、『(あな)にや、國を()つること。(うつ)()綿()()()き國と(いへど)も、猶ほ蜻蛉(あきつ)()(なめ)の如きかな。』と。是に由りて、始めて(あき)()(しま)の號有り。」豊秋津島倭の号は、この時に始まったと紀は記す。
 明年(一三七年)の秋九月の乙卯(きのとう)丙寅(ひのえとら)に畝傍山東北陵に(はぶ)りまつる。
 ここには、香春町の人々が代々大切にしてこられた「おほきんさん(大王様)」と呼ぶ弥生時代の円墳がある。

  神武天皇の没年 については、こちらも参照下さい。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十九 天皇崩御

十九 天皇崩御

 

*.橿原市大久保町にある神武天皇陵

神武陵にされる前のミサンザイ

 現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。
 まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図(下図)が残っている。(中略)旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない、という。(はてなブログ)

古地図「神武天皇陵(白橿村)」
絵図「文久の修築(Ⓒはてなブログ)」

Ⓒはてなブログ

 

畝傍山東北陵

Ⓒ奈良・桜井の歴史と社会

現在の神武天皇陵

Ⓒ産経デジタル

 

*.香春町にある弥生時代の「おほきんさん」とよばれる円墳が、畝傍山東北陵

おほきんさん(畝傍東北陵)
写真「おほきんさん(香春町)」

 

二〇二〇年度版 神武東征「漆」
神武天皇紀と中国史書との関連
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

 神武東征(漆)では、神武天皇紀と中国史書を関連付けていき、通説の神武東征と福永説の神武東征の違いをまとめて総括としていきたい。