「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(橿原の地に新都建設 〜 神武天皇崩御まで)
*.倭奴国の残党狩り後、新都の地を定める
*.日本書紀の己未年(119年)三月 〜 庚申年(120年)秋八月間の空白期間を射手引神社社伝
が補う
射手引神社社伝にある「寶滿山(竈門山)」は、神武天皇が東征に出た筑紫へ陸路で凱旋したことがわかる。
この事は、日本書紀には一切書かれていない。神武東征が奈良県(近畿)まで行っていない事を判らないようにした。
*.神武天皇御一代記御絵巻の順序が違う
「八紘一宇(八紘を掩ひて宇と為さむ)」の後に「奠都と宮殿造營」とあるべき
*.香春一ノ岳が、古事記の一節にある「畝尾山」である
この山の東南、橿原の地に帝宅を造ったと日本書紀にある
天香山
耳成山
畝尾山
昭和十年の香春岳(倭三山)
*.万葉集29番歌では「玉手次 畝火の山」と詠われている
「玉手次」は古代のネックレス。削られる前の香春一ノ岳の山頂近くに縊れがあり、ネックレ
スを付けているように見えた
天香山
耳成山
畝尾山
*.香春一ノ岳(畝尾山)の東南に鶴岡八幡宮がある。そこが橿原の地である
*.筑紫へ凱旋の後に橿原の地(香春)へ戻ってくる
*.古事記では、神武は大物主神の子孫の娘を正妃に迎えた
*.神武天皇の即位は、2月11日ではなく、6月2日だった
*.頭八咫烏が頂いた領地が、「飛ぶ鳥の明日香(赤村)」である
*.弟猾が頂いた領地(猛田邑)は、川崎町の田原遺跡辺り
*.鳥見山中靈畤の場所は、直方市頓野にある鳥野神社。ここが、上小野の榛原
*.直方市に小野牟田池がある。古遠賀湾(遠賀川)に近い方が、下小野の榛原か?
*.日本書紀にある「邪馬臺国巡行、神渟名川耳尊立太子」の記事は、造作
*.神武紀の「七十有六年」は、干支一運が加算されている。「一十有六年」が実年である
※ 神武天皇の没年 については、こちらも参照下さい。
*.橿原市大久保町にある神武天皇陵
*.香春町にある弥生時代の「おほきんさん」とよばれる円墳が、畝傍山東北陵
神武東征(漆)では、神武天皇紀と中国史書を関連付けていき、通説の神武東征と福永説の神武東征の違いをまとめて総括としていきたい。