「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
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近つ飛鳥・遠つ飛鳥時代 蘇我氏は「みやこ町」にいた(令和三年睦月二六日収録)
(第19回 古代史講座 第二部、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)
継体天皇が、いわゆる我々が今も使ってる「令和」とかの年号をわが国で始めに建号した天皇である。二中歴と言う本に「継体」とか「善記」、「正和」、「教到」等が書かれている。墨字では見ずらいので、次に活字載せている活字で確認する。
この年号は、継体天皇が田川の土地で始めたのであるから、私はこれを勝手に「豊国年号」と呼ばせてもらっている訳である。
今回の講演では、ここに出ている継体・宣化・欽明・敏達・崇峻天皇までを扱っていく。
年号が、継体天皇の時に遠つ飛鳥(田川)で始まるが、欽明天皇の時に近つ飛鳥(行橋方面)へ出ていく。欽明以降、敏達・崇峻・推古天皇も近つ飛鳥に宮を置いた天皇である。
継体天皇は、ギリギリ遠つ飛鳥川に居た。このような違いがようやく明確になって来た訳である。
教
正和六年(教到元年太歳辛亥 531年)の記事は、風土記の記録である。
『三国史記』百済本紀にある「日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨せり」の記事は、継体天皇側の記録でない。つまり、磐井の乱で滅ぼされた磐井とその子たちという事になる。筑紫王朝が、瓦解してしまったという事を読み取らざるを得ないと思われる。
教到四年(太歳甲寅534)にあたる「或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩ずといふ」の記事が、継体天皇が本当に亡くなったのではないか。
実は、継体天皇紀には、継体天皇が亡くなった年が2ヶ所出てくるので、私たちは、甲寅534が、継体天皇が亡くなった年と考えている。
日本書紀は、筑紫側の記事と豊国側の記事が一緒に書かれているからおかしくなっている。したがって、日本書紀の編者は、後の時代の人によく考えなさいという謎のメッセージを残している。この辺りも日本書紀の面白さである。
神武天皇の中でよく紹介する『求菩提山縁起』に継体天皇についても書かれている。継体天皇は、『日本書紀』では、二六代であるが、ここでは、人皇廿七代である。田川(豊前)の土地では、神功皇后が、一五代天皇で一代入っている。
この時の八咫烏一族は、筑紫君磐井と手を組んでいたのか? だから、豊国側の継体天皇が、筑紫君磐井と手を組んでいたかも知れない八咫烏一族の末裔たちを犬ヶ岳の鬼として滅ぼしたのでしょうか?
八咫烏一族という事は、「飛ぶ鳥の明日香」のキーワードである。