「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『日本書紀』の箸墓 ~ 卑弥呼の墓赤村説 ~

※ 『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~
 (令和3年3月14日、邪馬台国講演会 邪馬台国は北部九州にあった、ビーポート甘木中ホール)より

 卑弥呼共立、魏使のルート、卑弥呼の死

<『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~(その5)「魏使、卑弥呼の墓」>

邪馬臺国のその後
 神武の薨去後、倭国大乱(欠史八代)が起き、
二〇〇年卑弥呼共立される。
一七四年祟神天皇即位。
一七八年、「国内に疫病が多く、民の大半が
 死亡する。」
一七九年
「人民が流浪し、ある
 者は反乱した。天皇
 は天照大神倭大国
 魂(=大物主神)

 二神を、宮殿内に共
 に祭り
、神祇に罪を
 請うた。」

 (大嘗祭の起源?)
一八〇年春、「時に、
 大物主神神明倭迹
 迹日百襲姫命
に憑いて、我を祭らばは治ま
 るであろうと告げた。神の教えのとおりに祭
 ったが霊験はなかった。」
大嘗祭(だいじょうさい)

主基殿

悠紀殿

邪馬臺国のその後
一八〇年秋、「意冨多々泥古命を以ち、神主と
 為て、御諸山に、意冨美和之大神の前を拝き
 祭りたまふ。
(記)
  天下に布告し、大田田根子を求めると、
 渟県の陶邑(宗像市須恵)
に彼女を捜し当て
 、十一月に大物主神を祭らせた。すると、
 病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五
 穀がみのり、人民が賑わった
  この神酒は わが神酒ならず 倭成す
  大物主
の 醸みし神酒 幾久幾久
  味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな
  三輪の殿門を
  (紀)
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)卑弥呼共
 立
か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇年「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万
 人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)お
 よび亶州(推定東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
卑弥呼両国との関係
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万
 人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国
 および亶州(推定東鯷国)を求む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
※ 夷洲から数千人
二三二「三月、呉使を遼東に遣はす。七月、
 (公孫)淵、使者二人を遣はし、呉王孫権
 に意を通じ、貂馬を献ず。権、悦び淵に叙
 爵す。」
(三国志呉書嘉禾元年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三七「淵、遂に立ちて燕王を自称し、魏の
 北方を侵す。」
(三国志魏書景初元年)
二三八「司馬懿、淵を破り、三国志魏書景初
 二年六月~八月その首を都に送る。海東平
 ぐ。」
※ 日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の
 一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の
 子孫と称している。
卑弥呼両国との関係
二三八 遼隧(りょうすい)の戦いは、中国の三国時代の戦乱。
  遼東で半独立政権を築いた公孫氏と魏が、
 遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)で武力衝突
 し、結果、遼東公孫氏は滅亡した。
  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 
 求詣天子朝獻 太守夏遣吏将送詣京都
(魏志倭人伝)
※ 誤植が多い
二三九 至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺
 使朝貢
(梁書)
  魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣 使朝
 貢
(『北史』倭国伝)
 (神功)卅九年、是年也太歲己未魏志云 
 明帝景初三年六月倭女王、遣大夫難斗米等、
 詣郡、求詣天子朝獻。太守夏、遣吏將送詣
 京都
(『日本書紀』神功皇后紀)
邪馬臺国のその後
二四〇 魏使邪馬臺国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉
 詔書印綬
臺・台(万葉仮名)→   ※ 仮借
「魏使のルート(水行十日)」
帯方郡から女王國
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、暦韓國、
到拘耶韓國、七十餘里、始度一海、千餘里至
馬國
。 其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北
市糴。南渡海、至一支國、置官至對同。方可三
百里。又渡海、千餘里至末盧國人善捕魚
浮沒水取之
。東南五百里、至伊都國、戸万餘、
置曰爾支、副曰洩溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王
女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方女國万二千餘里
「古遠賀湾図(新北津)」
對馬國
御魂神社(旧村社大明神様)
【旧地】
  長崎県対馬市厳原町豆酘字龍良山628
 御祭神 (鷹)皇産靈尊
 由緒
  橿原の朝皇産靈尊の五世の孫津島県直
 建弥己々命に詔して天神
 地祇を祭らせ給ふ処にし
 て神功皇后三韓に向ひ給
 ふ時行宮を定められ御親
 ら戦捷祈願し給ひし社な
 り、皇産靈を祀る社は
 全国にも稀
にして佐護の
 神皇産靈を主基の宮、本
 社を悠紀宮
として上古由
 緒ある社にして顕宗天皇
 3年4月、上より神田十
 四町を献上せられた。
高御魂神社(対馬)
一支國
律令制 壱岐郡田河郷
 旧田河村、現在の芦辺町の芦辺浦・諸吉大
石触・諸吉東触・諸吉南触・諸吉本村触・
吉仲触
・諸吉二亦触と深江東触・深江南触・
深江本村触・深江平触・深江栄触深江鶴亀
を含む地域に比定される。
原の辻遺跡
御祖神社(諸吉仲触)
祭神 (鷹)皇産靈尊
絵「原の辻遺跡」
高御祖神社(壱岐)
末盧國はどこか 福永説
 また筑紫末羅(まつら)の縣玉嶌(たましま)の里に到り坐して、
其の河邊に御食(みおし)し時、當に四月(うづき)上旬(はじめ)なりき。
爾くして其の河中の磯に坐して御裳の糸を拔き
取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌と爲し、其の河の年魚(あゆ) 
の河の名を小河と謂ふ。また其の磯の名を(かち)門比賣(どひめ)と謂ふ

釣りき。故、四月の上旬の時、女人(おみな)裳の糸を
拔き、(いいぼ)を以ちて餌と爲し、年魚(あゆ)を釣ること今
に至るまで絶えず。
(仲哀記)
 北到 火前國松浦縣 、而進 食於玉嶋里小
河之側 。

(神功皇后摂政前紀)
帯日売 神の命の 鮎釣ると 御立しせりし
 を誰見き
(山上憶良)
 この「石」の正体について、『鬼の日本史』にこ
う記す。古代の戦で、捕虜になった敵の首長は手足
を切断
され、やがて失血死した。これを「石コロに
」と言い、今日の「殺す」の語源となった。
末盧國はどこか 福永説
伊都国宮地嶽神社の祭神
 勝門姫・勝村大神・勝頼大神
  三柱の神は、社伝に、慶応3年(1867
 年)に
 宮地嶽
 神社

 り分霊
 を勧請
 したと
 ある。
「宮地嶽神社」
「宮地嶽神社(糸島)」
末盧國はどこか 福永説
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
Google Earth「田熊石畑遺跡(いせきんぐ宗像)」
「発掘時の遺構」
「武器形青銅器」
「宗像市釣川」
伊都国へ 東南陸行五百里
魏使のルート(末盧國から邪馬台国へ陸行)
古遠賀湾図

 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察
せしむ。諸国、之を畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中
に於いて刺史の如き有り。

 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、
及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、
文書・賜遺の物を伝送して
女王に詣らしめ、差錯
するを得ず。
(中略)

絵「剣岳城」
写真「八剱神社 上宮」

 鞍手の日本武尊は、魏志倭人伝中の
伊都国王=一大率ではないか。

 剣岳城 

Ⓒ鞍手町教育委員会

←日本武尊の本貫地
 鞍手町 八剱神社(上宮)
地図「中国鏡の出土分布」
卑弥呼の鏡=内行花文鏡
「写真:赤烏元年鏡」

  赤烏元年鏡
(Ⓒ山梨県)

「写真:内行花文鏡」

  内行花文鏡
(Ⓒ福智町)

『魏志倭人伝』(銅鏡100枚)

(Ⓒ宮内庁書陵部)

倭国東鯷国
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く
    (この後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝を廃し、
    魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州(狗奴国)
    州(東鯷国)
に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元年銘神
    獣鏡
山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国卑弥呼に「親魏倭王」印を仮授す
    (東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ
二六六 倭国(邪馬臺国)臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」を編む)
邪馬臺国のその後
二四七年 其の(正始)八年、太守、王頎官に到
 る。倭女王卑弥呼狗奴国王卑弥弓呼素より和
 せず。、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
 撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、
 因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄
 を為りて之を告諭す。
(魏志)
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
航空写真「赤村内田の前方後円型地形」
邪馬臺国のその後
 倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となった。神は
昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は翌朝に神
の麗しい姿を見たいと言った。大神は翌朝姫の櫛箱
に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答え
た。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は
驚き叫んだ。大神はたちまちに人の姿となって妻に
言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥
をかかせてやる。」と。神は空に上り三輪山(香春
岳)
に帰った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座っ
た。すると箸に陰部をついて死んだ。そこで大市に
葬った。
 時の人はその墓を名
付けて、箸墓といった。
 邪馬臺国の女王卑弥呼
大物主をつまり鷹羽の
を祭った巫女王だった。
 狗奴国王卑弥弓呼に敗
れたのだろうか、卑弥呼
は責任を問われ自決した
ようだ。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 赤村の前方後円型地形が卑弥呼の墓説  に続く ・・・ 前方後円型地形は、人工物