「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 伊都(いつ)国の歴史

※  伊都(いつ)国の歴史
(令和5年11月26日(日) 田川広域観光協会  第29回古代史講座 於:福岡県立大学)

(2)天忍穂耳尊は「月氏(げっし)」より渡来し、直方市(伊都国)に上陸

Googleマップ「スライドの表紙の地図」

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BC209年 匈奴(クヌ) (遊牧民族歴史地図)

 地図の中心にある匈奴(きょうど)は、遊牧民の部族連合体であったが、紀元前209年以降に冒頓(ぼくとつ) 単于(ぜんう)が匈奴帝国を建国した。その「匈奴」は、「きょうど」と読まれるが、呉音では「くぬ」と読む。
 この地図の匈奴の南に月氏という国が見える。

大物主は英彦山の地主神
 権現(天忍穂耳尊)は、月氏の中國から来た神(月神、渡来神)
 地主神(大物主)が権現に住所を譲り、妃の多紀理比売沖ノ島の神)を連れて、許斐山(糸田町)に移った。
(金光七年「576年」)
「彦山権現垂迹縁起抜書」

 『彦山権現垂迹縁起書』に権現(天忍穂耳尊)は、上記地図にある月氏の国から来た渡来人だと記されている。

天満倭国=倭奴國の成立
 新王朝の主となった饒速日尊は、大物主の部下であった物部八十氏の新たな主人となったようだ。以後の物部氏を「天の物部氏」という。
 新・物部氏の祖饒速日尊の父こそ天忍穂耳尊である。
 『彦山流記』と『彦山縁起』を解読すると、こうなる。
「彦山権現(天忍穂耳尊)が長い船旅の末ようやく岸辺に着いて上陸された時、香春明神に宿を借りたいと申し入れましたが、香春明神は狭小であることを申し立てて宿を貸そうとはしませんでした。
 そこで権現は大いに立腹され、大勢の金剛童子にお命じになって香春岳の樹木を引き抜かせてしまいました
 そのために今まで生い茂った草木のために蔽い隠されていた磐石がすっかり露出してしまいました。

 天忍穂耳尊は、新・物部氏の祖 饒速日尊の父である。

天忍穂耳尊上陸
 『鞍手郡誌』 一、太古史 にこうある。
ろ、天津速日忍穂耳尊
【學立老天淵記】に云ふ、船魂神有り、告げて曰はく、「疇昔(むかし)天津速日忍穂耳尊、宗像神と此の津に會ひたまふ。
「編者曰く、此の津とは下境村より木屋瀬町に向ふ遠賀川沿岸一帯の低地にして、即ち鷹津と云ふ。」  
 尊、靈鷹(れいおう)と化し、南のかた彦山に遷るに(およ)び珠を留む。宗像神西進して、道主と爲るに及び鈴を遺せり云々。
地図「鞍手郡(部分)」

 旧鞍手郡の地図にある7:下境村(現直方市)から9:木屋瀬村(現八幡西区)へ向かう遠賀川一帯の低地にある津が鷹津とある。

Googleマップ「直方市頓野の小野牟田池」
天忍穂耳尊上陸地点

 直方市頓野の小野牟田池の所は、旧遠賀湾が入り込んでいた。そこには近津神社があり、西隣にあるのが高津の森である。ここが、『鞍手郡誌』の編者が曰う「鷹津」である。渡来してきた天忍穂耳尊は、この津に上陸した。

「原の辻貿易(弥生中期後半の交易活動)」

楽浪式土器伝播図(倭国)

『古事記』(上巻)
 忍穂耳命邇々芸命 天孫降臨)
伊都能知和岐知和岐弖(イツのちわきちわきて )

 原の辻貿易という楽浪式土器伝播図のルート、樂浪郡から朝鮮半島の南端にある勒島(ろくとう)茶戸里(ちゃこり)と通り壱岐の原の辻を経由して、福岡県の比恵・那珂・須玖・三雲から樂浪式土器が出土している。
 このルートが、『古事記』にある天孫降臨の時代から存在する。「伊都(イツ)能知和岐知和岐弖(のちわきちわきて)」とあるように天忍穂耳尊が「伊都(イツ)(鞍手郡の遠賀湾沿岸)」の道を押し分け、かき分けて降臨した訳である。