「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(5)神武東征(倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立)、神武即位と崩御

第二次神武東征
射手引神社社伝等+日本書紀
・墨坂の戦い
一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ
  祭神は天皇駒主命椎根津彦
 時に毒氣を吐きて人物(ことごと)()えぬ。(これ)()りて、皇軍(また)(おこ)(あた)はず。時に、天皇(すめらみこと)()(みね)せり。忽然(たちまち)にして(さめ)て曰く、「(われ)何ぞ若此(かく)は長く眠りたるや」。()ぎて毒に(あた)りし士卒、悉く(また)()め起きき。
(日本書紀)

 

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・男坂の決戦
 既にして、餘りの(ともがら)猶繁(おほ)くして、其の情測り難し。乃ち(ひそか)道臣命に勅すらく、「(いまし)大來目部を帥ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛りに宴饗(とよのあかり)を設けて、虜を(をこつ)りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に密の(みこと)を奉りて、(むろ)忍坂(「男坂」)に掘りて、我が猛き卒を選びて、虜と()()う。陰かに(ちぎ)りて曰はく、「酒(たけなは)の後に、吾は起ちて歌はむ。汝等、吾が歌の(こえ)を聞きて、則ち一時に虜を刺せ」といふ。已にして坐定(ゐしづま)りて酒()る。虜我が陰謀有ることを知らずして、情の任に(ほしきまま)に醉ひぬ。時に道臣命、乃ち起ちて歌ひて曰く、
 男坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ

 

第二次神武東征
射手引神社社伝等+日本書紀
 此皆、密旨(しのびのみこと)を承けて歌ふ。敢へて自ら(たくめ)なるに非ず。
 果たして男軍を以て墨坂を越えて、後より(はさ)み撃ちて破りつ。
 時に天皇の曰はく、「戰ひ勝ちて驕ること無きは、良將(いくさのきみ)(しわざ)なり。今(おほ)きなる(あた)已に滅びて、同じく惡しくありし者、匈々(いひおそ)りつつ十數群(とたむらばかり)あり。其の(こころ)知るべからず。如何(いか)にぞ久しく一處(ひとところ)に居て、制變(はかりこと)すること無けむ」とのたまふ。乃ち()てて別處(ことところ)(いほり)
→ 立岩へ

 

福永説:男坂墨坂の戦い
地図:田川地方における地域集団と青銅器の分布

烏尾峠

天降神社●

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十二 忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ

十二 忍坂の大室に 男坂の窨に八十梟帥を舞ひ打つ

 

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
日王山

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

日尾(日王)山から西南の烏尾峠に飛ぶ霊烏

 神武天皇が、日王山から「八咫烏の後を追え」と行った場所が烏尾峠である。

 

立岩丘陵が中洲か
地図:立岩丘陵

 +13m 

 ⒸFlood Maps 

 立岩丘陵は、古遠賀湾がまだ深く入り込んで島の様な地形だった。ここが、中洲だった。

 

第二次神武東征
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
皇祖神社社伝
 (飯塚市大字鯰田字峯)
 神武天皇駒主命を先導となし、馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤(さんたく)淤泥(おでい)の難路を跋渉(ばっしょう)して、(ようや)沼田鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起(くっき)するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆(さきばらい)を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌(かいかん)咫尺(しせき)(べん)ぜず皇軍(すこぶ)る悩む。

 立岩丘陵は、古遠賀湾がまだ深く入り込んで島の様な地形だった。ここが、中洲だった。

※5-1

 神武の二人の兄、次男が稻飯命、三男が三毛入野命。この二人の兄が、ここ鯰田(熊野)の海戦で戦死している。

 

第二次神武東征
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
熊野神社 (飯塚市大字立岩字浦の谷)
 社記神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺(しせき)を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す(その)(さま)(あたか)屏風(びょうぶ)を立てたるが如し電光赫々(かっかく)の中岩上に神現れて曰く我は天之岩戸神名を手力男(たぢからお)と言ふ此の処に自ら住める惡鬼あり其状熊に似て熊に非ず蜘蛛に似て左に非ず手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を(たの)みて(ほしいまま)天皇を惑はさんとす最も憎む()きなり我巨岩を(なげうっ)て其賊を誅す
(自今吾が和魂は此の岩上に留つて筑紫の守護神たらん又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體(ぎょくたい)を守護すべきなりと爰に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ)

※5-2

 熊野神社社記にある「巨岩を擲て其賊を誅す」の其賊は、神武天皇軍の事であり、神武軍が攻撃されている。

 

● 『日本書紀』には無い詳細な神武東征コースが残されていた

鞍手郡誌の東征コース①
射手引神社社伝抄録
A  一、帝王越(帝王山の山の尾をいふ)
B  一、小野谷(現嘉穂郡宮野村)
   迷路を質すべく高木の神を祭りたまふ
C  一、神武山(同宮野村、熊田村)
   カムタケ山といひしが今は單に神山といふ
D  一、馬見山(同、足白村)
   天孫ニニギの尊の靈跡を訪ね、降臨供奉の
   臣馬見物部の裔駒主命を東道役とし給ふ
   
E  一、天降八所神社(同、頴田村)
   皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現して
   進路を教へ給ふ
F  一、鳥居(同)  
   前記八所神社附近の地名、靈烏が『伊那
   和』と鳴きて皇軍を導いた土地
G  一、烏尾峠(同)
   靈烏を烏尾明神の出現といひ、カラス
   は八咫烏のカラスに同じ

 

鞍手郡誌の東征コース②
射手引神社社伝抄録
H  一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ祭神は天皇
   と駒主命と椎根津彦
I  一、佐與(同)  
   天皇の靈跡―佐與計牟の約言
J  一、嚴島神社(同)  
   天皇、宗像三女神を祭り給ふ
K  一、鹿毛馬(同)
L  一、目尾山(同幸袋町)
M  一、鯰田(飯塚市) 
   沼田といふ、天皇遠賀川を渡り惱み大迂回
   を行ひ給ふた所
N  一、勝負坂(同)
O  一、立岩(同)     
   天皇が天祖に祈願し給ふたところ

 

鞍手郡誌の東征コース③
射手引神社社伝抄録
P  一、徒歩渡(同)
Q  一、王渡(同)
R  一、鉾の本(同)   
   豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を渡河され
   た故名
S  一、片島(同二瀬村)    
   加多之萬、又は堅磐と書き皇軍上陸の地を
   指す
T  一、擊皷神社(同幸袋町)  
   天皇進軍を命じ給ふた故地
U  一、白旗山(同)    
   天祖を祭られて神託を得られた靈跡
V  一、笠城山(鞍手郡宮田町)  
   天祖の靈を祭り給ふた靈地

 

鞍手郡誌の東征コース④
射手引神社社伝抄録
W  一、伊岐須(嘉穂郡二瀬村)  
   大屋彦の奉迎地
X  一、神武山(同)
Y  一、神武邑(同)       
   天皇に因む地名
Z  一、曩祖の杜(飯塚市)    
   曩祖を祭られた所
a  一、潤野(嘉穂郡鎮西村)  
   天祖を祭られた所
b  一、姿見(同)
c  一、日の原(同)
   天皇に因む地名
d  一、高田(同大分村)
   田中熊別の奉迎地
e  一、大分(同)
   オホギタと讀む、天皇の神靈を祭る

 

鞍手郡誌の東征コース⑤
射手引神社社伝抄録
f  一、山口(同上穂波村)
   皇軍戰勝休養の地
g  一、牛頸(同)
   土蜘蛛打猿打首の故地
h  一、寶滿山竈門山
   登山して御母君の靈位を祭り給ふ
i  一、田中庄(筑紫郡大野村)
   荒木武彦奉迎地
j  一、蚊田の里(粕屋郡宇美町)
   荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み奉った
   地
k  一、神武原(同)
l  一、若杉山(同篠栗町)
   いづれも天皇の靈跡地
(以下略)

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

六 高倉下韴靈の剣を奉り危難を祓ふ

六 (たか)倉下(くらじ)韴靈(ふつのみたま)の剣を奉り危難を祓ふ →  ※ 鞍手の語源 

※5-3

 「鞍手」の語源は、欽明天皇紀に出てくる「鞍橋君。鞍橋、此云矩羅膩(くらじ)。」とされているが、神武天皇紀に「倉下、此云衢羅餌(くらじ)。」とある。この「倉下(くらじ)」こそが、「鞍手」の語源である。

 

第二次神武東征
射手引神社社伝等+日本書紀
高倉(たかくら)()韴靈(ふつのみたま)の剣を奉る
 時に彼處(そこ)に人有り、()熊野の高倉(たかくら)()と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神武甕雷(たけみかづちの)に謂ひて曰はく、「夫れ葦原中國(なほ)聞喧擾之(さやげり)()()聞喧擾之響焉、此をば左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。(また)往きて、()て」とのたまふ。武甕雷神對へて曰さく、「(やっこ)不行(まか)らずと(いえど)も、予が國を()けし劒を下さば、國自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「(うべ)なり。諾、此を宇毎那利と云ふ」とのたまふ。時に武甕雷神、登りて高倉下に謂ひて曰はく、「予が劒、號を韴靈(ふつのみたま)と曰ふ。韴靈、此をば()屠能瀰哆磨(つのみたま)と云ふ。今當に汝が(くら)の裏に置かむ。取りて天孫に.(たてまつ)れ」とのたまふ。高倉下曰さく、「唯々(をを)」とまうすとみて()めぬ。(くるつ)(あした)に、夢の中の(をしへ)に依りて、庫を開きて視るに、果して落ちたる劒有りて(さかしま)に庫の底板に立てり。(すなは)ち取りて(たてまつ)る。

 

剣岳城
(Ⓒ鞍手町教育委員会)

「絵(剣岳城)」
写真(劔神社)

劔神社 =
(石上神宮)

※5-4

 高倉下がいた場所は、鞍手町の剣岳である。現在、奈良県天理市布留町にある石上神宮の元宮の跡である。ここに物部氏の一番中心の部族の武器庫があった。

 

第二次神武東征
倭奴国との最終決戦
一、擊皷神社(同幸袋町)  
   天皇進軍を命じ給ふた故地
一、白旗山(同)    
   天祖を祭られて神託を得られた靈跡
十二月、長髄彦(ながすねひこ)との最後の決戦に臨む。
「十有二月の癸巳(みずのとみ)(ついたち)丙申(ひのえさる)に、皇師遂に
 長髓彦を撃つ。」
 苦戦を強いられ
 たようだが、辛
 勝し、終に長髓
 彦
を殺す。
一一九年三月一日
  倭奴国
滅亡し、
  邪馬臺国成立。
(日本書紀+鞍手
 郡誌+後漢書)
一、笠城山(鞍手郡宮田町)  
   天祖の靈を祭り給ふた靈地
「神武第二次東征(鳥見野の決戦・金色に輝く鳶)」

鳥野の長髄彦との戦い

(金色靈鵄)

 

鵄邑 = 鳥見(野)→ 頓野
「Google Earth(直方市頓野)」

 頓野 

 頓野 

※5-5

 神武東征の最後の決戦の地が、鵄邑(とびのむら)(今云鳥見(とみ)是訛也。)とあり、現在の直方市頓野である。ここ頓野にある鳥野神社で、「鳥見山中靈畤(まつりのにわ)」が行われたのであろう。

 

畝尾山(香春一ノ岳)の現在の姿
天智天皇の時代までは大物主神が祀られていた。

「写真:鶴岡八幡宮より香春一ノ岳を望む」

鶴岡八幡宮(香春町高野)
鎌倉より50年早い創建

「写真:鶴岡八幡宮」
「写真:鶴岡八幡宮」

※5-6

 神武天皇が即位した橿原宮は、香春町高野の地にある鶴岡八幡宮である。香春一ノ岳が、畝尾山であるならば、その丁度東南の地にある。

 

おほきんさん(畝傍東北陵)
写真「おほきんさん(香春町)」

※5-7

 これこそが、本当の神武天皇陵である。香春一ノ岳が、畝尾山だという説であるから、その東北に見事に「おほきんさん(大王様)」という円墳がある。