「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
(令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)
立岩丘陵は、古遠賀湾がまだ深く入り込んで島の様な地形だった。ここが、中洲だった。
立岩丘陵は、古遠賀湾がまだ深く入り込んで島の様な地形だった。ここが、中洲だった。
※5-1
神武の二人の兄、次男が稻飯命、三男が三毛入野命。この二人の兄が、ここ鯰田(熊野)の海戦で戦死している。
※5-2
熊野神社社記にある「巨岩を擲て其賊を誅す」の其賊は、神武天皇軍の事であり、神武軍が攻撃されている。
● 『日本書紀』には無い詳細な神武東征コースが残されていた
※5-3
「鞍手」の語源は、欽明天皇紀に出てくる「鞍橋君。鞍橋、此云二矩羅膩一。」とされているが、神武天皇紀に「倉下、此云二衢羅餌一。」とある。この「倉下(くらじ)」こそが、「鞍手」の語源である。
※5-4
高倉下がいた場所は、鞍手町の剣岳である。現在、奈良県天理市布留町にある石上神宮の元宮の跡である。ここに物部氏の一番中心の部族の武器庫があった。
※5-6
神武天皇が即位した橿原宮は、香春町高野の地にある鶴岡八幡宮である。香春一ノ岳が、畝尾山であるならば、その丁度東南の地にある。
※5-7
これこそが、本当の神武天皇陵である。香春一ノ岳が、畝尾山だという説であるから、その東北に見事に「おほきんさん(大王様)」という円墳がある。