「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(7)神功皇后、大鷦鷯天皇の時代における鞍手の関り

神功皇后の戦略と魏使の経路
地図「福岡県内の神功皇后の戦略ルート及び魏使のルート図」

松浦縣(かしひのみや)」は、通説では福岡市東区の香椎(かしい)宮とされているが、飯塚市柏の森(かやのもり)に鎮座する負立(おいたて)八幡神社を見出している。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
神功皇后
 神功皇后は岡の海(古遠賀湾)を群臣と共に北上、にぎた津(鞍手町新北)に停泊し、北(宮地嶽神社周辺)の熊襲(勝門比売)との決戦に備えた。
 万葉集8番歌にこうある。
 (にぎ)()に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ
()でな
 新北津で軍船の船出をしようと、満月を待っていると月も出て、潮も船出に適する大潮になった。さあ、今こそ背の君の仇討に漕ぎ出そうよ。
鞍手町、熱田神社・元宮の前の田んぼ

新北津跡

 神功紀に「北到火前國松浦縣、」とあるように橿日宮(飯塚市の負立八幡神社)から北の方角にある松浦縣(宗像市)に向かった。
 その途中にある「にぎた津」(鞍手町新北)に停泊した時に詠まれたのが、『万葉集』8番歌だとされている。

 

(かち)()比賣(ひめ) 征伐
 また筑紫末羅(まつら)の縣玉嶌(たましま)の里に到り坐して、其の河邊に御食(みおし)し時、當に四月(うづき)上旬(はじめ)なりき。爾くして其の河中のに坐して御裳の糸を拔き取り、飯粒(いいぼ)を以ちて餌と爲し、其の河の年魚(あゆ)  其の河の名を小河と謂ふ。また其の磯の名を勝門比賣(かちどひめ)と謂ふ  を釣りき。故、四月の上旬の時、女人(おみな)裳の糸を拔き、(いいぼ)を以ちて餌と爲し、年魚(あゆ)を釣ること今に至るまで絶えず。
(仲哀記)
 北到 火前國松浦縣 、而進 食於玉嶋里小河之側 。
(神功皇后摂政前紀)
(たらし)日売(ひめ)  神の命の  鮎釣ると  御立しせりし  を誰見き

(万八六九 山上憶良)
 この「」の正体について、『鬼の日本史』にこう記す。古代の戦で、捕虜になった敵の首長は手足を切断され、やがて失血死した。これを「石コロにす」と言い、今日の「殺す」の語源となった。

 神功紀にある「火前國松浦縣」は、古事記にある「筑紫末羅縣之玉嶋里」が、書き換えられている。末羅縣は、魏志倭人伝の末盧國、つまり、宗像市になる。

※7-1

 「帯」は、古事記の序文に「名に(たい)の字を多羅斯(たらし)と謂ふ」とある。帯日売は、神功皇后の事である。

 

氣長(おきなが)(たらし)姫尊天皇豊国北伐
 忍熊王逃無入。則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰、
いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな
 則共沈瀬田濟而死之。于時、武内宿禰歌之曰、
淡海の海 齊多の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤ろしも
 於是、探其屍而不得也。然後、數日之出菟道河。武内宿禰亦歌曰、
淡海の海 齊多の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ

※7-2

 忍熊王は、仲哀天皇の皇子であり、日本武尊のある。

 神功皇后の軍に敗れた忍熊王は、入水自殺をした時の歌謡が古事記、日本書紀に残されている。その「淡海の海」は古遠賀湾の事であり、そこの「齊多の済」である。数日後に入水自殺した忍熊王の遺体が見つかった「菟道河」は、香春町を流れる金辺川である。
 その忍熊王の遺体を武内宿禰が、執拗に捜索させた。それはなぜか? 忍熊王が佩いていた「草薙剣」を手に入れる為だと気付いた。神功皇后は、豊国の王者の御璽(みしるし)の草薙剣が手に入れた。

 

忍熊(おしくま)熊坂の逃避行
「地図(忍熊(熊坂)王の逃避行)」

 忍熊王は、御所ヶ谷神籠石で戦い敗れて、仲哀峠へ通り香春町の方へ出て戦い、ここでも敗れる。さらに逃れ、次に逢坂(大坂)でも戦い敗れる。
 それで古遠賀湾へ舟で退却して行く。飯塚市の勢田辺りで入水自殺した。この時に神功皇后(本隊)は、小竹宮(小竹町)に居た。

※7-3

 神功紀に「小竹宮。小竹、此云芝努(しの)。」とある。

 

氣長(おきなが)(たらし)姫尊天皇の征西
 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手町新北)を出航筑紫末羅(まつら)(宗像大社・宮地岳神社周辺)(かち)()比売(ひめ)を滅ぼす
 美奈宜神社や平
塚川添遺跡などに
拠った羽白熊鷲を
殲滅

 筑後川を渡って三潴(みずま)を攻撃、桜桃(ゆすら)沈輪(ちんりん)を滅ぼす。
 女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津(たぶらつ)姫を討伐。豊・筑・火の三国(三韓)を征伐する。
 邪馬台国滅亡
 4世紀半ば、川崎町「帝階(たいかい)八幡神社(現在の大海(おおみ))」にて即位。
鞍手町、熱田神社・元宮の前の田んぼ

新北津跡

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
神功皇后
 神功皇后は岡の海(古遠賀湾)を群臣と共に北上、にぎた津(鞍手町新北)に停泊し、北(宮地嶽神社周辺)の熊襲(勝門比売)との決戦に備えた。
 万葉集8番歌にこうある。
 (にぎ)()に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ
()でな
 新北津で軍船の船出をしようと、満月を待っていると月も出て、潮も船出に適する大潮になった。さあ、今こそ背の君の仇討に漕ぎ出そうよ。
図「遠賀川の水深」

遠賀川の水深図    

 

(おお)鷦鷯(さざき)の乱(豊国史)
 (しかう)して速總別王(はやぶさわけのみこ)女鳥王(めどりのみこ)、共に逃げ退()きて、倉椅山(くらはしやま)に騰る。
 是に速總別王歌ひ曰はく、
 (はし)立ての 倉椅山を   
 (さが)しみと 岩かきかねて   
 我が手取らすも
 又歌ひ曰はく、
 (はし)立ての 倉椅山は   
 (さが)しけど 妹と
 登れば (さが)しく
 もあらず
 故、其地より逃げ亡せ、宇陀の蘇邇(そに)に到りし時に、()(いくさ) 追ひ到りて、殺す。
絵「速總別王・女鳥王」

※7-3

 古事記(仁徳記)に「倉椅山(久良波斯夜麻)」とある。

 

(おお)鷦鷯(さざき)の乱(豊国史)
伊勢神宮(=磯光の天照宮)に向かって馳せる。

(書紀)
倉椅山(=鞍手町の飯盛山)を越える。

(古事記)鞍橋(くらじ)
伊勢の蔣代野(こもしろの)(=飯塚市の蔣田(こもだ))で殺される。

(書紀)
地図「福智山・鞍手町・飯塚市周辺」
写真「飯盛山」

 飯盛山 

写真「嘉麻市山野の若八幡神社」

雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を祀る若八幡神社(嘉麻市山野)    

(ⒸOmairi.club)    

※7-4

 日本書紀(仁徳紀)に「時皇子率雌鳥皇女、欲伊勢神宮而馳。」とある伊勢神宮は、宮若市磯光の天照宮である。

 

軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作歌
(四五)
 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬(はつせ)の山鞍手町)は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 秋の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
 我が大君、すなわち日の御子は神のまま神々しくていらっしゃる。その御子は太く立派な御殿におられるが、そこからお出かけになられた。険しい初瀬(はつせ)の山は木々がそそりたつ荒々しい山道。遮る岩や木々を乗り越え、おしのけて進まれる。朝越えてこられ、夕方には雪が降る秋の大野に旗のようになびくススキや小竹(しの)を押し分けて旅寝をなさる。遠い昔の旅寝を偲んで。

※7-5

 万葉集 45番に詠われた「軽皇子(かるのみこ)」とは、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子で皇太子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)である。

 歌にある「初瀬の山」は、鞍手町の長谷(はせ)である。万葉集の研究から解っている例えば、「長谷(ながたに)の初瀬」という文句から「長谷」と書いて「はせ」と読ませる。

 

軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
短歌
(四六)
 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓
 秋の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
 秋の野に泊まられる木梨の軽皇子様は手足を伸ばしてゆったりと寝られたいだろうに、(神功皇后と応神天皇の故地のことを思うとおやすみになれますまい。
(四七)
 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
 黄葉の季節を過ぎ、雑草を刈り取らねばならないほどの荒れ野ですが、(神功皇后と応神天皇の故地にやってまいりました。