倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
記紀万葉研究家 福永晋三
山上憶良 とは (生涯・歌風・年表)
*1
*1
沈痾:長い間なおらない病気。 宿痾。 「沈痾る時の歌」は、万葉集 巻第六 978番歌。
西暦 (天皇)
663年 天智天皇2年
664年 天智天皇3年
668年 天智天皇7年
670年 天智天皇9年
672年 天武天皇元年
689年 持統天皇3年
690年 持統天皇4年
694年 持統天皇8年
701年(文武)大宝元年
707年(文武)慶雲4年
710年(元明)和銅3年
710年(元明)和銅3年
714年(元明)和銅7年
716年(元正)霊亀2年
720年(元正)養老4年
721年(元正)養老5年
726年(聖武)神亀3年
729年(聖武)天平元年
主な出来事
白村江の戦い
近江令
庚午年籍
壬申の乱
飛鳥浄御原令
庚寅年籍
藤原京遷都
大宝律令
興福寺建立
平城京遷都
第八次遣唐使
日本書紀
元明天皇没
長屋王の変
年齢
3歳
4歳
8歳
10歳
12歳
29歳
30歳
34歳
41歳
48歳
50歳
50歳
54歳
56歳
60歳
61歳
66歳
69歳
記事(通説+福永説)
倭国本朝唐軍に敗れ、東朝の天智倭国の天皇位に即く
憶良、この年に百済から倭国に来朝か。遣唐使派遣。
前年に近江(糸田町大宮神社)遷都。遣唐使帰朝。
全国的な戸籍をつくる。唐朝の冊封下に入る。
大海人皇子(筑紫君薩野馬)軍が勝ち、天智入水。
近江令を廃し、浄御原令をつくる。
憶良、磐代で有馬皇子をしのぶ倭歌をよむ。
行橋市「福原長者原遺跡第Ⅱ期」に遷る。
粟田真人ら第七次遣唐使任命。時に憶良、兵部少録。
憶良、唐より帰朝。疫病が流行、大勢の百姓が死ぬ。
大伴旅人、朱雀門に騎兵を陳列、隼人・蝦夷を率いる
平城宮(嘉穂郡桂川町土師三区)に遷る。
憶良、従五位下に任ぜられる。
憶良、伯耆守に任ぜられる。(718年に任期を終了か)
大伴旅人征隼人持節大将軍。大隅・日向の隼人全滅。
憶良ら、東宮(首皇子)の侍講。
憶良、筑前守。行基、山崎の橋を造る。
憶良、七夕の歌、梅花の宴の歌をつくる。
『万葉集』巻第一の63番歌は、大宝2年(702年)に第八次遣唐使として、唐に渡った時に詠まれた歌である。この63番歌の「やまと」は、「日本」と書かれている。そして、歌の中で詠まれれいる「大伴の御津の浜松」は、行橋市にかつてあった入り江の処である。平城京に遷都する前で、まだ福原長者原遺跡の所に藤原宮があった時代であり、遣唐使船はこの行橋の入り江から出かけて、ここへ戻って来ていた。(福永説)
次は、『万葉集』巻第五の「好去好来の歌」の894番の長歌の中に「倭の大國靈」が詠われている。これは、「大物主神」の事である。
反歌の895番歌の中にも「大伴の 御津の松原」とあり、同じ行橋市の入り江の場所である。遣唐使船は、ここへ帰ってくる。
63
*2
※
894
895
*2
好去とは「さようなら」、好来とは「ご無事でご帰還を」の意味。
『万葉集』巻第六の978番歌が、辞世の句である。
818
978