倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑪ 巻第一 40番〜84番
 (令和5年7月26日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 70番・72番  (難波宮から吉野宮へ、奈良県だとおかしい)

 「万葉集」巻第一の70番歌と72番歌を並べている。何故かというと70番歌にある「吉野宮」、この宮の場所は、中津市山国町吉野である。この宮へ行幸する時は、必ず72番歌にある「難波宮」から出かける。藤原京(福原長者原遺跡)の近く、行橋市の海辺の宮を船で出発する。周防灘を南下し、中津市から山国川を遡り、吉野宮まで船で行く。
 吉野宮(若宮神社)前は、川幅が広く、船を並べて川遊びが出来たのである。

 難波宮から吉野宮へは船で行幸
 太上天皇幸于吉野宮時、高市連黒人(くろひと)作歌
 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流

70

 大和には 鳴きてか()らむ 呼子鳥(よぶこどり) (きさ)の中山 呼びぞ越ゆなる
 呼子鳥よ。大和には鳴きながら到着しているだろうか。家で待つ妻の名を呼びながら。(きさ)の中山を鳴きながらこえていったけれど。
 大行天皇幸于難波宮時歌
 玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊人 忘可祢津藻
  右一首式部卿藤原宇合(うまかひ)

72

 玉藻刈る 沖へは漕がじ 敷栲(しきたへ)の 枕辺の人 忘れかねつも
 女たちが玉藻を刈り取っている沖に向かって舟を漕いでいくまい。夕べ真っ白な床で枕を共にした女がいたら、忘れられないから。

*1

太上天皇』は、持統天皇。

*2

大行天皇』は、文武天皇。

 近畿の奈良県に京があるとした時には、位置関係がおかしい。奈良県から大阪市の難波宮に行き、大阪湾を南へ下るが、吉野宮へ船で遡る川のルートが判らない。
 藤原宮から吉野宮へ行くのであれば、山道を歩いて行けば早く行ける。何故、難波宮へ出て船で南下した後に険しい山を越えて吉野宮へ行くのか?
 通説の万葉学者はの方々は、地理音痴なのでしょうか?

 藤原宮 → 難波宮 → 吉野宮?
「地図(奈良県の都の位置)」

 福岡県に京があるとすれば、万葉集の歌にある通りに船で吉野宮へ行幸出来る。天皇が、御御足(おみあし)で山道を歩かなくても行くことが出来る。

 藤原宮(福原長者原遺跡)から行橋市の海岸に近い難波宮に出て、そこから船で周防灘を南下し、中津市の山国川の河口から川を遡り吉野宮(若八幡神社)の前まで船で行ける。

 福永説の「京・宮」跡地等

地図「筑豊」

保良宮

難波宮

恭仁宮


田原鋳銭司