倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集⑨ 「山部赤人」
(令和5年5月18日 於:小倉城庭園研修室)

 「 山部赤人は鞍手にいた⁉  」の動画の内容を掲載したページです。

  山部赤人

 山部(やまべの)赤人(あかひと)
(日本大百科全書)
 生没年未詳
 奈良時代の歌人。制作年代の明らかな作品は、神亀元年((724年))から天平八年((736年))までに限られている。
 山部氏は、顕宗(けんそう)仁賢(にんけん)両天皇の受難時代に奉仕した功により、伊豫(いよの)来目部(くめべの)小楯(おだて)山部(やまべの)(むらじ)(かばね)を賜ったのに始まる。
 山林の管理などを職とした地方豪族で、天武天皇十二年((683年))に改姓して宿禰(すくね)となった。
 赤人は『万葉集』に長歌13首短歌37首を残す。
 (かさの)金村(かなむら)車持(くるまもちの)千年(ちとせ)とともに聖武(しょうむ)朝の宮廷歌人として活躍したが、長歌は柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)のように長大な作はなく、最大でも二十数句の小長歌にすぎず、一首中の句切れも少なくない。
 温雅な感情を景に託して平明に歌うことを得意とした赤人の性格は、長歌より短歌に適していたらしい。
 山部(やまべの)赤人(あかひと)(つづき)
 もちろん富士山を詠んだ長歌のような佳作もあるし、明日香(あすか)古京をたたえた「朝雲に (つる)は乱れ 夕霧に かはづは騒く」のような美しい対句もみられるが、主観語を用いず自然を客観的に歌った「ぬばたまの ()のふけゆけば 久木(ひさぎ)()ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く」など、行幸従駕(じゅうが)の長歌の反歌に秀作が多い。

*1

*2

 赤人を叙景歌人とよぶのは、そのような作品によるのであるが、これとは別に観念的な発想のおもしろみを主とする「あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いたく恋ひめやも」のような作もあり、『古今集』以後の知巧的作風の先駆の性格をもつ。

*3

 大伴家持(やかもち)が「山柿(さんし)之門」(『万葉集』巻17 3790番歌の題詞にある)とたたえたのは、人麻呂と赤人をさすのであろうといわれ、また『古今集』序に人麻呂と並称されているのも広く知られるところで、後代への影響の大きさを思わせる。

*1

 「朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く」:『万葉集』巻3の324番(長歌)の部分。

*2

 「ぬばたまの 夜のふけゆけば ・・・」:『万葉集』巻6の925番(反歌)。

*3

 「あしひきの 山桜花 ・・・」:『万葉集』巻17の3970番(短歌)。

 山部(やまべの)赤人(あかひと)(つづき 2)
 また山の辺赤人といふ人ありけり
歌にあやしく妙なりけり
 人麿は赤人が上に立たむことかたく
赤人は人麿が下に立たむことかたくなむ
ありける
(『古今和歌集』仮名序)
山部赤人像(蜷川式胤(のりたね)所蔵品)
山部赤人像(蜷川式胤所蔵品)

 紀貫之が『古今和歌集』仮名序の中で、柿本人麻呂と山部赤人はどちらも上下付け難いという事で、同等の優れた歌人だと書いている。

 山部赤人も正史である『続日本紀』には出てこない人物であり、『万葉集』の残された作品の題詞等から年代を追いかけて纏められた記録しかない。

 「山部赤人」であるが、下記の左図『小倉百人一首』の表記は「赤人」と描かれている。「山辺の道」の「」と同じである。一般的には「」である。

 『小倉百人一首』であるから赤人の歌は、「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ」が書かれている。

 山部(やまべの)赤人(あかひと)(つづき 3)
菱川師宣画

 『小倉百人一首』菱川師宣画[他]
 1680年(延宝8年)(国立国会図書館所蔵)

狩野尚信『三十六歌仙額』部分

 『三十六歌仙額』部分 狩野尚信画

 福永説では、山部赤人が仕えた聖武天皇が居た平城京は、嘉穂郡桂川町土師三区にあったとしている。したがって、平城京は、聖武朝の時代には奈良市には無かったと言っているのである。
 だから、大仏が置かれていた東大寺も平城京があった桂川町から近い嘉麻市上臼井の長源寺・織田廣喜美術館の所に建てられていた。
 その大仏の建立は、香春岳の銅を香春町の採銅所から福智町上野(あがの)の鋳物師原へ運び、この地で大仏のパーツを鋳造した。
 そして、その大仏のパーツを嘉麻市上臼井の東大寺の地へ運び組立てて、大仏が造られた。

 福永説では、聖武天皇の居た平城京が桂川町にあり、大仏を鋳造した土地が福智町上野だとした時に聖武朝の宮廷歌人であった山部赤人は、何処に居たのであろうか?
 当然、筑豊の何処かだと考えた時に直方市にある福岡県立鞍手高校の周辺の地名が「山部」という。

 上記で「山部赤人」の名前を「赤人」と書く場合があると説明した。現在、奈良県にある「山辺の道」は、元々この地にあったと考えている。
 古遠賀湾が存在していた当時、ここ「山部」は、東側に海が見える土地である。遠賀の海を見ながら南北に歩く道が「山辺の道」ではなかったかという仮説である。