倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
山部赤人
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「朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く」:『万葉集』巻3の324番(長歌)の部分。
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「ぬばたまの 夜のふけゆけば ・・・」:『万葉集』巻6の925番(反歌)。
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「あしひきの 山桜花 ・・・」:『万葉集』巻17の3970番(短歌)。
紀貫之が『古今和歌集』仮名序の中で、柿本人麻呂と山部赤人はどちらも上下付け難いという事で、同等の優れた歌人だと書いている。
山部赤人も正史である『続日本紀』には出てこない人物であり、『万葉集』の残された作品の題詞等から年代を追いかけて纏められた記録しかない。
「山部赤人」であるが、下記の左図『小倉百人一首』の表記は「山邊赤人」と描かれている。「山辺の道」の「辺」と同じである。一般的には「山部」である。
『小倉百人一首』であるから赤人の歌は、「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ」が書かれている。
福永説では、山部赤人が仕えた聖武天皇が居た平城京は、嘉穂郡桂川町土師三区にあったとしている。したがって、平城京は、聖武朝の時代には奈良市には無かったと言っているのである。
だから、大仏が置かれていた東大寺も平城京があった桂川町から近い嘉麻市上臼井の長源寺・織田廣喜美術館の所に建てられていた。
その大仏の建立は、香春岳の銅を香春町の採銅所から福智町上野の鋳物師原へ運び、この地で大仏のパーツを鋳造した。
そして、その大仏のパーツを嘉麻市上臼井の東大寺の地へ運び組立てて、大仏が造られた。
福永説では、聖武天皇の居た平城京が桂川町にあり、大仏を鋳造した土地が福智町上野だとした時に聖武朝の宮廷歌人であった山部赤人は、何処に居たのであろうか?
当然、筑豊の何処かだと考えた時に直方市にある福岡県立鞍手高校の周辺の地名が「山部」という。
上記で「山部赤人」の名前を「山邊赤人」と書く場合があると説明した。現在、奈良県にある「山辺の道」は、元々この地にあったと考えている。
古遠賀湾が存在していた当時、ここ「山部」は、東側に海が見える土地である。遠賀の海を見ながら南北に歩く道が「山辺の道」ではなかったかという仮説である。