倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第三 雑歌 322番・323番 (赤人も宮若市千石峡へ来ていた)
山部赤人も「熟田津」の歌を詠んでいるが、『万葉集』巻第1・8番歌が福永説では、神功皇后が宗像の勝門媛の討伐に鞍手町の新北津を船出する時に詠まれた歌(神功皇后が出陣する時に檄を飛ばした歌)だと紹介している。
8番歌にある「熟田津」は、現在の鞍手町新北の所でかつては古遠賀湾が入り込んでいて、良港の津であった。また、この8番歌は、神功皇后の時代(4世紀)の出来事が詠まれた歌であるから、赤人が詠んだ時代より古い時代の歌という事になる。
それから、山部赤人のページで紹介した「山辺の道」(直方市山部)は、鞍手町新北より少し南に位置する所にある。
下記に示す『万葉集』巻3にある山部赤人の「熟田津歌」は、「伊豫の温泉」に行った時に作った歌で、322番が長歌である。
322
歌にある「臣木」は、通説では「臣の木」と読ませているが、ここでは「臣の木」と読ませる。
歌の題詞に「伊豫の温泉」の歌とあるが、332歌を口語訳した中の「島や山の美しい国」という情景は、現在の愛媛県松山市の道後温泉にはちょっと当てはまらない。
「険しい伊予の高嶺」と訳した場所を「鞍手郡」とした。また、「臣下のように林立」は、「椎の木が林立」と訳す。
そして、訳の最後にある「伊予の石湯」の場所は、宮若市の千石峡だと考えている。
反歌の323番歌では「飽田津」とあり、「熟」が「飽」に変わっているが、8番歌の神功皇后と関わりがある。
この歌にある「大宮人」は、神功皇后を指している。その神功皇后が船出をした熟田津に赤人は今来ているか、または、長歌の場所の千石峡に居て、そこから下った熟田津の所を想い詠ったかも知れないが、8世紀の赤人には神功皇后が船出をした年(4世紀の出来事)が何時の年代の事が良く分からないと詠んでいる。
そして、赤人には神功皇后が戦に出かける歌だという認識も無かったようであり、「大宮人たちが船乗りした」というのは、船遊びのような感じで戦に出るというような緊迫感が無い歌である。