倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

 「 山上憶良はこんな人⁉ 」の動画の内容を掲載したページです。

  山上憶良 とは  (生涯・歌風・年表)

 山上憶良の生涯
山上憶良(やまのうえのおくら)
 斉明天皇6年((660年)) ー 天平5年((733年))は、奈良時代初期の貴族・歌人。名は山於億良とも記される。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。万葉歌人。
(出自)
 春日氏の一族で、粟田氏の支族とされるが、中西進ら文学系研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
(経歴)
 大宝元年((701年))  第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年((702年))  唐に渡り、儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時冠位は無位)。
 和銅7年((714年))  正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年((716年))  伯耆守に任ぜられる。
 養老5年((721年))  佐為(さい)紀男人(きのおひと)らとともに、東宮・(おびと)皇子(のちの聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
 神亀3年((726年))  筑前守に任ぜられ任国に下向。
 山上憶良の生涯 (つづき)
 神亀5年((728年))頃までに大宰帥(だざいのそち)として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。 
 天平4年((732年))頃任期を終えて帰京。
 天平5年((733年))6月、「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃、藤原八束(やつか)が見舞いに遣わせた河辺東人(かわべのあずまひと)に対して「沈痾(ちんあ)る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

*1

 山上憶良の歌風
(歌風)
 仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。
 そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。

*1

 沈痾(ちんあ):長い間なおらない病気。 宿痾。  「沈痾る時の歌」は、万葉集 巻第六 978番歌。

 山上憶良の歌風 (つづき)
 抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
 代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。
 『万葉集』
には78首
が撰ばれて
おり、大伴
家持や柿本
人麻呂、山
部赤人らと
共に奈良時
代を代表す
る歌人とし
て評価が高
い。
 『新古今和
歌集』(1首)
以下の勅撰
和歌集に5
首が採録さ
れている。
鳥取ゆかりの万葉歌人「憶良と家持」展

山上憶良の年表

 西暦660年生

 記事の「赤字」部分は、福永説

西暦  (天皇

663年 天智天皇2年

664年 天智天皇3年

668年 天智天皇7年

670年 天智天皇9年

672年 天武天皇元年

689年 持統天皇3年

690年 持統天皇4年

694年 持統天皇8年

701年(文武)大宝元年

707年(文武)慶雲4年

710年(元明)和銅3年

710年(元明)和銅3年

714年(元明)和銅7年

716年(元正)霊亀2年

720年(元正)養老4年

721年(元正)養老5年

726年(聖武)神亀3年

729年(聖武)天平元年

主な出来事

白村江の戦い

近江令

庚午年籍

壬申の乱

飛鳥浄御原令

庚寅年籍

藤原京遷都

大宝律令

興福寺建立

平城京遷都

第八次遣唐使

日本書紀

元明天皇没

長屋王の変

年齢

3歳

4歳

8歳

10歳

12歳

29歳

30歳

34歳

41歳

48歳

50歳

50歳

54歳

56歳

60歳

61歳

66歳

69歳

記事(通説+永説

倭国本朝唐軍に敗れ、東朝の天智倭国の天皇位に即く

憶良、この年に百済から倭国に来朝か。遣唐使派遣。

前年に近江(糸田町大宮神社)遷都。遣唐使帰朝。 

全国的な戸籍をつくる。唐朝の冊封下に入る。

大海人皇子(筑紫君薩野馬)軍が勝ち、天智入水。 

近江令を廃し、浄御原令をつくる。

行橋市「福原長者原遺跡第Ⅱ期」に遷る。

粟田真人ら第七次遣唐使任命。時に憶良兵部少録

憶良唐より帰朝。疫病が流行、大勢の百姓が死ぬ。

大伴旅人、朱雀門に騎兵を陳列、隼人・蝦夷を率いる

平城宮(嘉穂郡桂川町土師三区)に遷る。

憶良従五位下に任ぜられる。

憶良伯耆守に任ぜられる。(718年に任期を終了か)

大伴旅人征隼人持節大将軍。大隅・日向の隼人全滅

憶良ら、東宮(首皇子)の侍講。

憶良筑前守。行基、山崎の橋を造る。

憶良七夕の歌梅花の宴の歌をつくる。

 『万葉集』巻第一の63番歌は、大宝2年(702年)に第八次遣唐使として、唐に渡った時に詠まれた歌である。この63番歌の「やまと」は、「日本」と書かれている。そして、歌の中で詠まれれいる「大伴の御津(みつ)の浜松」は、行橋市にかつてあった入り江の処である。平城京に遷都する前で、まだ福原長者原遺跡の所に藤原宮があった時代であり、遣唐使船はこの行橋の入り江から出かけて、ここへ戻って来ていた。(福永説)

 次は、『万葉集』巻第五の「好去好来(こうきょこうらい)の歌」の894番の長歌の中に「倭の大國靈」が詠われている。これは、「大物主神」の事である。
 反歌の895番歌の中にも「大伴の 御津の松原」とあり、同じ行橋市の入り江の場所である。遣唐使船は、ここへ帰ってくる。

 山上憶良の歌
『万葉集』巻第一
 山上臣憶良在大唐時、(おもひ)本郷(くに)作歌
 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

63

 いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ
『万葉集』巻第五
 好去好来歌一首 反謌二首

*2

 第10次遣唐使大使(多治比(たじひの)広成(ひろなり))の無事の帰国を祈って送った歌  長歌に「倭の大國靈」

 ・・・ 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 ・・・

894

 反謌
 大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢

895

 大伴の 御津の松原 かき掃きて 吾立ち待たむ 早帰りませ
 天平五年三月一日、良宅對面、獻三日。山上憶良謹上  大唐大使卿記室

*2

 好去とは「さようなら」、好来とは「ご無事でご帰還を」の意味。

 『万葉集』巻第五の「梅花謌卅二首」の中にある818番歌は、大宰府での「梅花の宴」で詠まれた歌である 。この「梅花の宴」は、大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人が開いた宴である。その宴に山上憶良は招かれていた。

978番歌

 『万葉集』巻第六の978番歌が、辞世の句である。

 山上憶良の歌
『万葉集』巻第五
 梅花謌卅二首 并序
 波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武

818

 春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ
 筑前守山上大夫
『万葉集』巻第六
 山上臣憶良沈痾之時謌一首
 士也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而

978

 (をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして
 右一首、山上憶良臣沈痾之時、藤原朝臣八束、使河邊朝臣東人疾之状。於是憶良臣、報語已畢、有須拭涕、悲嘆、口吟此謌