倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第五 794〜799番 (天智天皇の「日本国」が滅んだという歌か)
「日本」という国が誕生したのは、天智天皇の御世である。以下が他のページで紹介済の内容である。
日本国の建国 → 壬申の大乱
天智天皇九年 春二月に、戸籍を造る。
※
庚午年籍。唐の冊封下に入る。
倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
(『三国史記』新羅本紀文武王十年十二月)
天智天皇十年 九月に、天皇寝疾不予したまふ。
冬十月の甲子の朔壬午に、東宮、天皇に見えて、吉野に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道に至りて還る。
『万葉集』巻第五の794番歌は、題詞に「日本挽歌」とある。日本の葬式の歌。日本という国が滅びたという詠い方の歌である。題詞が非常にヘンテコな歌である。
「日本挽歌」の序文が長文である。テーマは、夫婦の事であり、「偕老同穴の契り」を結んでも別々に亡くなっていき、夫婦のどちらか一人が残されるという序文である。
題詞の「日本挽歌」とは、なにか? 「日本」というのは国である。福永説では、倭国本朝と倭国東朝の二つの国があった。これを夫婦に準えて、片方の国が死んだという歌であろうという予測である。
794
解釈にある「(奈良の)家」は、平城京の家であるが、通説の奈良市ではなく、福永説では福岡県嘉穂郡桂川町土師三区にあったとしている。
795
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797
797番の解釈にある「故郷の大和」は、福永説では豊国の事である。
798
799
*1
楝:おうち(あふち)、せんだん。
798番で、妻が亡くなったと詠われている。妻は大和側であるから福永説では、豊国側に当る。豊国側が亡くなったとすれば、これは壬申の乱の結果である。筑紫君薩野馬(大海人皇子)が豊君の天智天皇に勝利し、天智天皇は入水自殺をした。歌の内容は、こう考えた時に福永説と合っている。
799番にある「大野山」は、筑紫側の大宰府にある大野城の有る山である。
「神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上」と日付まで書かれたこの「日本挽歌」は、どんな意味のある歌でしょうか?
山上憶良というのは、変な(不思議な)歌人である。
長年、福永説で唱えてきた二つの王朝(倭国本朝と倭国東朝)において、天智二年(663年)の白村江の戦いでは筑紫側の倭国本朝が敗れて、倭国東朝(豊国側)の天智天皇に王権が移った。
だが、約10年後、672年の壬申の乱で筑紫君薩野馬(=大海人皇子、後の天武天皇)が勝利して、再び王権を倭国本朝(筑紫国)に取り戻した。
したがって、天智天皇が670年に「日本」と号した豊国が政治的に滅んだ事を詠んだ歌が、この「日本挽歌」である。山上憶良は、挽歌として詠んでいるから天智天皇の「日本国(豊国)」が滅んだことを嘆いた歌である。
倭国本朝(筑紫国)の天下となり、筑紫側から詠んでも大野山には、霧が立ち込めている。この歌は夫婦に例えられていて、筑紫側が夫、豊国側が妻という立場で詠まれていて、妻が亡くなったと詠んでいる。
福永説の立場から、題詞に「日本挽歌」とあるこの歌の解釈である。これが、日本の葬式の歌の解釈である。主体は、「日本国」であるが、歌の内容は、「夫婦」である。変な歌である。