倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑩ 「万葉集」巻第一 1~40番
 (令和5年6月15日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 雑歌 29番、30番、31番  (天智天皇の挽歌を詠みきった)

*.「令和5年1月18日 豊国の万葉集⑤ 柿本人麻呂①」も引用しました。

 万葉集29・30・31番の柿本人麻呂の作る歌三首、これも古遠賀湾での出来事の歌であった。29番歌にある「石走る淡海の国」が、古遠賀湾周辺の国である。
 この場所で、神功皇后に日本武尊の孫である忍熊王が、入水自殺に追い込まれた。歌は、その4世紀の事件を表向きは詠っている。

「万葉集」巻第一 雑歌
 玉手次(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の宮ゆ 阿礼座(あれま)しし 神の(ことごと) (つが)の木の (いや)()()ぎに 天の下 知らしめしける 虚見(そらみ)つ 倭を置き 青丹(あをに)よし 平山(ならやま)越えて (いず)(かた)を 思ほしけめか 天離(あまざか)(ひな)には有れど 石走(いはばし)る 淡海の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる 百磯城(ももしき)大宮処(おほみやどころ) 見れば(さぶ)しも

29

 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之自宮 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食来 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而 何方 所念計米可 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留 百礒城之 大宮處 見者左夫思毛
 近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌
「万葉集」巻第一 雑歌
【解釈】 玉手次(たまだすき)畝火の山の橿原の日知(ひじり)(神武天皇)の宮以来、出現された皇神の(ことごと)くが、((つが)の木の)いよいよ(日知の位を)継ぎ嗣ぎして、天の下をお治めになったところの、虚見(そらみ)つ倭(天満(あまみ)つ倭、古遠賀湾沿岸)をさしおき、青丹(あおに)よし平山(ならやま)を越えて、何方をお思いになったのだろうか、天離(あまざか)る東方ではあるけれど、石走(いはばし)る淡海の国の、楽浪(ささなみ)の大津の宮に、天の下をお治めになったという、(景行)天皇の皇神(すめかみ)の尊の、大宮は此処と聞くけれども、大殿は此処と言うけれども、霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか、(実は涙でぼんやりとかすむ)百磯城(ももしき)の大宮処を見ると荒廃していることだ。

 香春岳
玉手次畝火の山

写真「香春岳」

 御所ヶ谷神籠石
百磯城の大宮処

写真「御所ヶ谷神籠石」

 香春三ノ岳が、天香山であれば、古事記の一節「香山之畝尾木本」とあるように山頂が畝でつながっており、一ノ岳が「畝の()の山」であり、「(うね)()」となる。また、昭和10年の香春岳の写真には、一ノ岳の山頂付近にネックレスを掛けたかのようなくびれの形が見える。これが、29番歌の冒頭にある「玉手次畝火の山」である。
 次に「百磯城の大宮処」というのは、沢山の石の城の事であり、その場所は、行橋市にある御所ヶ谷神籠石である。柿本人麻呂は、ここにやって来て実際にこの石垣を見て、29番歌を詠んでいる。歌に「見れば」とあるので人麻呂は、この場所を確実に見ている。

「万葉集」巻第一 雑歌
 天智天皇の挽歌

 神功皇后軍忍熊王日本武尊の孫)軍を滅ぼし、王を入水自殺に追い込んだ。(四世紀)

 ささなみの比良の大わだは水が淀んで(大宮人を待って)いても、昔の人に会おうと思うことであろうか。いやそんなことはない。
 ささなみの 比良(ひら)の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや
 左散難弥乃 比良乃大和太 與杼六友 昔人二 将會跡母戸八

31

 楽浪の思賀の辛碕は、昔に変らずにあるけれど、ここを出たままの大宮人の船を再びここに待ちうけることはできない。
 楽浪(ささなみ)思賀(しが)辛碕(からさき) (さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
 樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

30

 反歌(をさめ歌)

 この4世紀の忍熊王の入水自殺という出来事と同じように天智天皇も壬申の乱に敗れ、玄界灘に入水自殺をした。
 日本書紀では、天智天皇は壬申の乱の前に病死し、大友皇子が敗れて山前で、首吊り自殺したとあるが、扶桑略記万葉集から考えて、天智天皇は入水自殺したらしい。
 忍熊王の入水自殺と壬申の乱に敗れて追い詰められた天智天皇の入水自殺が、重ねて詠っている2重構造だという事になった。
 したがって、人麻呂は、天武天皇の天下において、主君・天智天皇の入水自殺、つまり、挽歌を詠みきったのである。これは、凄い技術である。
 「淡海」とあれば、天智天皇の宮、近江大津宮の地である。壬申の乱に敗れた天智天皇は、そこから同盟国である新羅まで逃れようとしたが、大海人軍に行く手を阻まれ、宗像市にある織幡神社の崎で入水自殺なさったというコースまでわかった。
 この29・30・31番歌は、天智天皇の死を悼んだ歌だった。

 「万葉集」巻第一 雑歌 32番、33番  (高市連黒人の天智天皇を(いた)む歌)

 万葉集32番・33番は、「高市古人(たけちのふるひと)、近江の舊堵(きゅうと)を感傷して作る歌〈或る書に云はく、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)〉」であるので、黒人の歌である。

「万葉集」巻第一 雑歌
 ささなみの大津の守り神がいるこの地も、うらさびて荒れ果てている。そんな都を目にするのは何と悲しいことだろう。
 楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも
 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛

33

 むかし、むかしの人なのだろうか、この私は。ささなみの古き都をみると悲しい。
 古の 人に我れあれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき
 古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故京乎 見者悲寸

32

 高市古人感傷近江舊堵作歌〈或書云、高市連黒人〉

 高市連黒人も柿本人麻呂と同様に天智天皇の事を(いた)んでいる。糸田町の泌泉(たぎり) には、漏刻(ろうこく)須弥山(しゅみせん)が造られていて、その近くにある大宮神社 が、天智天皇の近江大津の宮跡であろうと考えている。

糸田町の泌泉(たぎり)
(漏刻と須弥山の跡)
写真「泌泉(漏刻と須弥山の跡)」

 泌泉が、漏刻と須弥山跡と考えると、これが、天智天皇の近江大津の宮の象徴的な建物であったと思われる。この建造物は、平安時代の承安四年(1174年)に地震で壊れたとの記録が、金村神社の由緒に残されている。尚、講演「倭(大和)王朝は筑豊にあった(平成29年11月8日)」のページに詳細な説明があります。
 この歌でも判るように柿本人麻呂以外にも壬申の乱の後、天智天皇の死を悲しむ歌人がいたという事である。

 「万葉集」巻第一 36番、37番  (持統天皇ではなく、天智天皇の行幸時の歌)

 通説では、柿本人麻呂が吉野で詠んだ倭歌は、持統天皇の行幸にお供した時に詠まれたとされてきた。
 しかし、和同開珎が、何時の時代(どの天皇の時代)に作られた貨幣かを追求した結果、天智天皇の時代に柿本人麻呂が、和同開珎の2番目・3番目の貨幣を作った事が見えてきた。 また、日本書紀にある斉明天皇が造ったと書かれている吉野宮も天智天皇が造られている。
 したがって、この万葉集の36番・37番の「吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌」は、柿本人麻呂が天智天皇の行幸にお供した時に詠まれた歌である。

「万葉集」巻第一 雑歌
 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また還り見む
 反歌
 やすみしし 我が大君の (きこ)しめす 天の下に 国はしも (さは)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷(ふとしき)()せば ももしきの 大宮人は 船()めて 朝川渡り 舟(きほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高しらす 落ち(たぎ)つ 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも
 吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌
 雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

37

 反歌
 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下爾 国者思毛 沢二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃国之 花散相 秋津乃野辺爾 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 彌高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

36

 于吉野宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌

 下記は、折口信夫氏の訳である。この約にある「天皇」は、持統天皇ではなく、天智天皇である。

「万葉集」巻第一 雑歌
 見ても見あかぬ吉野の川の、始終滑らかな水苔のなくならない樣に、いつまでもやまずに、幾度も見にやつて來よう。
 反歌
 我が天皇陛下が御治めになる天下に、國といへば澤山あるが、その中で、山や川の景色の爽かな川の流域だ、と大御心をおよせになつてゐる、吉野郡の秋津野に、離宮の柱を太くお据ゑになつたので、御所仕への官人衆は、船を(なら)べて朝の川を渡り、又舟の競漕をして、日暮れの川を渡るといふ風に、遊んでゐる。この川が、水はなくなることなく、(そび)えてゐる此邊の山は、何時迄經つても低くならずに、永久に高くあるにちがひない。澄んで激しく流れる、急流のほとりに在る都は、いくら見ても飽かぬことだ。
 天皇が吉野離宮に行幸されたときに、柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌
(折口信夫訳)

 柿本人麻呂は、主君である天智天皇が造られた吉野宮を褒めちぎっている。