倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第一 雑歌 29番、30番、31番 (天智天皇の挽歌を詠みきった)
*.「令和5年1月18日 豊国の万葉集⑤ 柿本人麻呂①」も引用しました。
万葉集29・30・31番の柿本人麻呂の作る歌三首、これも古遠賀湾での出来事の歌であった。29番歌にある「石走る淡海の国」が、古遠賀湾周辺の国である。
この場所で、神功皇后に日本武尊の孫である忍熊王が、入水自殺に追い込まれた。歌は、その4世紀の事件を表向きは詠っている。
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香春岳
(玉手次畝火の山)
御所ヶ谷神籠石
(百磯城の大宮処)
香春三ノ岳が、天香山であれば、古事記の一節「坐二香山之畝尾木本一」とあるように山頂が畝でつながっており、一ノ岳が「畝の尾の山」であり、「畝尾山」となる。また、昭和10年の香春岳の写真には、一ノ岳の山頂付近にネックレスを掛けたかのようなくびれの形が見える。これが、29番歌の冒頭にある「玉手次畝火の山」である。
次に「百磯城の大宮処」というのは、沢山の石の城の事であり、その場所は、行橋市にある御所ヶ谷神籠石である。柿本人麻呂は、ここにやって来て実際にこの石垣を見て、29番歌を詠んでいる。歌に「見れば」とあるので人麻呂は、この場所を確実に見ている。
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この4世紀の忍熊王の入水自殺という出来事と同じように天智天皇も壬申の乱に敗れ、玄界灘に入水自殺をした。
日本書紀では、天智天皇は壬申の乱の前に病死し、大友皇子が敗れて山前で、首吊り自殺したとあるが、扶桑略記や万葉集から考えて、天智天皇は入水自殺したらしい。
忍熊王の入水自殺と壬申の乱に敗れて追い詰められた天智天皇の入水自殺が、重ねて詠っている2重構造だという事になった。
したがって、人麻呂は、天武天皇の天下において、主君・天智天皇の入水自殺、つまり、挽歌を詠みきったのである。これは、凄い技術である。
「淡海」とあれば、天智天皇の宮、近江大津宮の地である。壬申の乱に敗れた天智天皇は、そこから同盟国である新羅まで逃れようとしたが、大海人軍に行く手を阻まれ、宗像市にある織幡神社の崎で入水自殺なさったというコースまでわかった。
この29・30・31番歌は、天智天皇の死を悼んだ歌だった。
「万葉集」巻第一 雑歌 32番、33番 (高市連黒人の天智天皇を悼む歌)
万葉集32番・33番は、「高市古人、近江の舊堵を感傷して作る歌〈或る書に云はく、高市連黒人〉」であるので、黒人の歌である。
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泌泉が、漏刻と須弥山跡と考えると、これが、天智天皇の近江大津の宮の象徴的な建物であったと思われる。この建造物は、平安時代の承安四年(1174年)に地震で壊れたとの記録が、金村神社の由緒に残されている。尚、講演「倭(大和)王朝は筑豊にあった(平成29年11月8日)」のページに詳細な説明があります。
この歌でも判るように柿本人麻呂以外にも壬申の乱の後、天智天皇の死を悲しむ歌人がいたという事である。
「万葉集」巻第一 36番、37番 (持統天皇ではなく、天智天皇の行幸時の歌)
通説では、柿本人麻呂が吉野で詠んだ倭歌は、持統天皇の行幸にお供した時に詠まれたとされてきた。
しかし、和同開珎が、何時の時代(どの天皇の時代)に作られた貨幣かを追求した結果、天智天皇の時代に柿本人麻呂が、和同開珎の2番目・3番目の貨幣を作った事が見えてきた。 また、日本書紀にある斉明天皇が造ったと書かれている吉野宮も天智天皇が造られている。
したがって、この万葉集の36番・37番の「吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌」は、柿本人麻呂が天智天皇の行幸にお供した時に詠まれた歌である。
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下記は、折口信夫氏の訳である。この約にある「天皇」は、持統天皇ではなく、天智天皇である。
柿本人麻呂は、主君である天智天皇が造られた吉野宮を褒めちぎっている。