倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑩ 「万葉集」巻第一 1~40番
 (令和5年6月15日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

「万葉集8番歌の「熟田津」は、鞍手町の新北だ⁉」の 動画 が御座います。参考にして下さい。

 「万葉集」巻第一 雑歌 8番  (神功皇后が新北津を船出する時の歌)

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 2022年10月22日の「豊国の万葉集②  神功皇后編」および 2019年6月13日の「宮若歴史文化講座 伊予の熟田津の石湯」等も引用しました。

 万葉集8番歌は、題詞は、額田王の歌となっている。そして、通釈は、船遊びである。

「万葉集」巻第一 雑歌
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製歌詠之哀傷也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有四首
 熟田津で船に乗ろうと月を待っていたら海面が穏やかになった。さあ、今こそ漕ぎ出そう。
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

8

後岡本宮御宇天皇代 天豊(あまとよ)財重(たからいかし)()(たらし)(ひめ)天皇、位後即位後岡本宮〉
 額田王(ぬかたのおほきみ)

 左注に「後岡本宮馭宇天皇」とあるように斉明天皇となっているが、その中に「御船西征」という語句があるようにこれは、神功皇后の征西だった。
 また、「伊豫熟田津」を現在の愛媛県松山市の道後温泉の所だとしている。

 しかし、この8番歌は、9番歌に続く神功皇后が、橿日宮(飯塚市負立八幡宮)から北の方の熊襲(勝門比賣)討伐の向かう途中に鞍手町新北に停泊した時の歌だとした。

 新北津で軍船の船出をしようと、満月を待っていると月も出て、潮も船出に適する大潮になった。
 さあ、今こそ背の君の仇討に漕ぎ出そうよ。
 熟田(にぎた)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ()でな
 神功皇后は岡の海(古遠賀湾)を群臣と共に北上、にぎた津(鞍手町新北)に停泊し、北(宮地嶽神社周辺)の熊襲(勝門比売)との決戦に備えた。万葉集8番歌にこうある。
神功
皇后
「古遠賀湾図」

新北

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く

 8番歌にある「熟田(にぎた)津」は、古遠賀湾図に示す鞍手町の新北(にぎた)である。

 伊豫について
 万葉集の左註にある「伊豫の石湯」の伊豫と鞍手郡との関わりは、これまでの古典の常識からは想像もつかない。
 ところが、大正年間の地形図には鞍手郡の猪倉と藤郷の近くに「伊豫」という名の小集落があった。ここは昭和前期の湿地化で消滅した。この少し南、小牧村の丘陵地内に明治前期までは「伊豫谷」と呼ばれた小字があった(一九)。近年、ここから一一〇〇年前の平安時代の火葬墓の跡が発掘された(二〇)
 地名考によると、小牧村の名前の由来は、後鳥羽帝の建久(けんきゅう)年間(1190~1198)に「伊豫」という武士がこの辺りに牧場(ぼくじょう)を開いて馬を(ぼく)したことによる(二一)。さらに古代にはこの辺りにいた贄田(にえた)物部氏が四国の伊豫に移動した(注九)
 このように、この辺りと「伊豫」との結びつきは意外に深いことが分かったが、今のところ、この辺り全体を伊豫と呼んだという証拠は見つかっていない。

 8番歌の左注に「伊豫熟田津石湯行宮」とある伊豫という地名については、鞍手郡内の一部に残されている。また、「贄田物部氏が四国の伊豫に移動した」という事も民俗学者である鳥越憲三郎氏や谷川健一氏が、本に書かれている。

 山崎光夫氏は、昭和三十八年にボーリング調査に基いて、この古遠賀湾図を描いた。

 新北に「」があった時
(古遠賀湾図)
 山崎光夫によると、縄文時代前期には、標高10㍍線よりやや低位に海岸線があり、海が湾入して樹枝状をなし、洪積世の低丘陵が島として点在していた。
 その後、この海域には数千年に亘って遠賀川水系から大量の土砂が流れ込み、洪積世の溺れ谷を埋め、今日のような平坦地ができあがった。
 堆積した土砂の厚さは、ところにより異なるが、鞍手郡内は大体20~30㍍程度である。
地図「古遠賀湾(九州大学の名誉教授 山崎光夫氏)」
 新北に「」があった時
 一五世紀頃までの古遠賀湾の変化をごく大雑把にまとめると、一世紀頃全体的に湾だったのが、一〇世紀頃になると虫生津木月底井野立屋敷などの島の周辺が陸化し、この辺が遠賀川の河口となり、一五世紀頃には下流の島津島付近が河口
だった
らしい。
写真「鞍手町新北」

 新北津跡
(鞍手町新北の熱田社古宮の前、海抜0mの田んぼ)

汀線(みぎわせん)

 20~30㍍程度の土砂が堆積した新北津跡である。

 新北津で軍船の船出をしようと、満月を待っていると月も出て、潮も船出に適する大潮になった。さあ、今こそ背の君の仇討に漕ぎ出そうよ。
遠賀川の水深図
 熟田(にぎた)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ()でな

 8番歌は、額田王の歌でもなければ、斉明天皇の歌でもない。神功皇后が、新北津を船出をする時の歌、進軍する時の歌とした。
 何故、満月を待って船出をしたかというと、下図に示す現在の新北から芦屋浦までの遠賀川の水深が関わっていた。古月から下流に行くと島津までが水深が1m程の浅瀬になる。この浅瀬の所を安全に越える為に、満月大潮の満潮時を待って船出をした。
 歌の内容が、地形とも合ってきている。