「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭国大乱と卑弥呼
(平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より
■ 浦島太郎(浦嶋子)の伝説は、卑弥呼の時代の歴史事実を反映している
丹波の地に帰ったという人物に浦島太郎がいる。この『雄略紀』にある浦嶋子が、蓬莱山に行き、
乙姫と会って、3年経ったら帰ってくる。実際は、何年経っていたのか?
『丹後国風土記逸文』に與謝郡とあり丹後である。『雄略紀』と同様に3年が経ち、玉匣をもらって
帰ってくる。「郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子という人が300年前に失踪した
と伝わる、と教えられる。」とある。
この話は、実話であり、おとぎ話ではない。帰って来た年が、478年で、300年経っていたという
事で、浦島太郎の子孫が帰って来たと話である。
何処から帰って来たのか? 300年前に戻ると178年になり、倭国大乱中の時代である。その年から
卑弥呼が即位した200年前後に浦島太郎の先祖が、何処かに出かけたという話になる。
それから300年後に子孫が、丹波国に戻ってきたから、『雄略紀』に書かれている。
銚子山古墳の前方部付近に「浦島の木」という榎の大木がある。
私は、現地の伝承を大事にしている。それが、『日本書記』ともつながる。とすると、178年の倭国
大乱から卑弥呼共立の200年頃の東鯷国(丹波の地)で、何が起きたのか?
資料のタイトルに「卑弥呼の時代の拉致事件」としたように、『三国志』呉書の230年の記事は、魏と
戦争をしていた呉は、魏より小国であり、兵士の数が足りない。
それで、孫権は、秦の始皇帝の時代に徐福が男女数千人を連れて流れ着いて、そこに彼らの子孫が数万人
いるらしいので、出かけて行って、兵士になりそうな若者を連れてこいという命令を出した。
この時に呉の兵士たちは、東鯷国(丹波)まで来て、そこで五千人の兵士が脱走するが、残った五千人の
兵士たちが、この地で若者を集めた。この時の若者の一人が浦島太郎ではなかったと思われる。
この若者たちは、何処へ連れていかれたのか? 呉の国へ連れていかれた。
当時の朝鮮半島の情勢は、年表にある通りである。この年表の238年(景初二年)は、卑弥呼が帯方郡に
遣いを送った年である。この朝鮮半島の出来事とつながっている。
浦島太郎の話は、呉の兵士たちが東鯷国(丹波)にやって来て、若者を拉致し戸た事件で、卑弥呼と同時代
に起こった出来事らしい。
呉に連れていかれて若者は、中国語が話せない。何しろ徐福は、始皇帝の時代だから年数が経っていて、
中国語はもう忘れているでしょうね。言葉が話せない人は、兵士には成れない。結局、彼らは奴隷にされた
のであろう。
連れていかれた彼らは、自力では帰って来れない。止む無く土地の人と結婚して、何代か経って漸く何とか
身を立てて、船を手に入れた4代か5代後の子孫が、故郷に帰って来た。
先祖の場所を訪ねると、300年前に浦の島子という人が失踪していると教えられたという事である。
だから、おとぎ話の中にも歴史事実がちゃんと書いている。これを私は、20数年かけて抜き出した。
浦島太郎に会った人が、呉の国に居る。『三国志』呉書の「呉主権謝夫人伝」の中にある謝夫人は、
会稽という呉の国の都市の出身である。その謝夫人には、謝承という弟がおり、『後漢書』を書いたと
陳寿の『三国志』呉書に書かれている。
呉の会稽まで、浦島太郎以下、何十名かの東鯷国の若者が連れてこられた。その東鯷人の彼らに会った
のは、『後漢書』を書いた謝承という人が、少年時代だったであろう。ビックリですね。
浦島太郎に謝承は会っている可能性がある。
だから、謝承は、『後漢書』の中で「會稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十餘國を為す。また、
夷洲と澶洲がある。」とあり、澶洲は、丹波である。
「しゃけ:鯷」とまた、つながる。「その人民が時おり会稽の市にやってくる。」とあり、東鯷人は、
鮭皮の靴とか、鮭皮の帽子とかを物々交換していた。
だから、竜宮城というのは、呉の国の御殿の事である。だから、「Under the Sea」ではなく、
「Over the Sea」で ある。無酸素では、海に潜れない。