「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 田川広域観光協会 古代史研究会
 第32回 古代史講座「魏志倭人伝の卑奴母離とは?(令和6年12月22日 於:福岡県立大学大講義室)より

  倭奴国(イヌ(ノ))と楽浪郡の里程(12,000里)について

 『魏志倭人伝』の「卑奴母離」とは、どのような官職か?

 通説の「卑奴母離(ヒナモリ)」①
 ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国、ヤマト王権の国境を守備する軍事的長の名称。後に地名、駅名、神社名等に残る。またヒナモリの「モリ(守)」はカバネとしても使われた。
 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、および不弥国の副官に「卑奴母離(ヒナモリ)」がいたことを伝えている。これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えられる。
 奴国が位置した筑前国には、糟屋郡(現在の福岡市)に「夷守(ヒナモリ)」(『和名抄』)があり、現在は日守(ヒモリ)神社が建っており、卑奴母離が駐在したところと考えられる。
夷守(ヒナモリ)駅」と「日守(ヒモリ)神社」
地図「大宰府 東西横断ルート」

 上記の地図からも分かるように日守神社(糟屋郡粕屋町仲原)は、大宰府から近い位置関係にあり、現在の福岡空港の北に位置する所である。
 そうした時に『隋書』俀国伝の中に阿毎多利思北孤が、隋の裴世清を鴻臚館に迎えた後、福北ゆたか線「長者原」駅付近にあったと考えている都に到着したとある。

『隋書』俀国伝(抄録)
 俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴皷角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、従二百餘騎郊勞。既至彼都
 倭王は小徳の阿輩臺を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼の哥多毗を派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都(福北ゆたか線「長者原」駅付近か)に到達した。
地図「長者原駅周辺」
 通説の「卑奴母離(ヒナモリ)」①(つづき)
 『延喜兵部式』(延長元年、923年)には日向国諸県郡に夷守(ヒナモリ)駅を記し、『日本書紀』、『景行天皇紀』に登場する兄夷守・弟夷守が所在した所であり、現在は「宮崎県小林市細野夷守」となっている。近くの霧島岑神社は夷守(ヒナモリ)神社とも称されている。3ー4世紀頃、熊襲や隼人に対する守備隊が駐屯した所と考えられる。
 『和名抄』は越後国頸城(くびき)郡「夷守郷」を「比奈毛利」と訓をつけている。現在は新潟県妙高市に「美守(ヒダモリ)」があり、新潟県上越市にはかつて美守村が存在した。3ー4世紀頃、北陸道の守備隊が駐屯した所と考えられている。
 『延喜式神名帳』には、美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に比奈守(ヒナモリ)神社を収めている。3ー4世紀頃、飛騨(ヒダ)人に対する守備隊が駐屯した所と考えられる。
              (ウイキペディア)
 通説の「卑奴母離(ヒナモリ)」②
『精選版 日本国語大辞典』
夷守」の意味・読み・例文・類語
ひな⁻もり【夷守】
〘 名詞 〙 古代において、辺境の地を守ること。都から遠く離れた、防備の上で重要な土地を守ること。また、その場所やそれを守る人。〔魏志‐東夷伝・倭人
 「夷守」の補助注記
 いくつかの地方にそのまま地名として残った。筑紫国(つくしのくに)巡狩(めくりみそなは)す、(はじ)めて夷守(ヒナモリ)(いた)り」書紀ー景行一八年三月(北野本訓)〕、「越後国〈略〉頸城郡〈略〉夷守 比奈毛里〔二十巻本和名抄ー七〕など。
『世界大百科事典(旧版)』内の「夷守」の言及
【小林[市]】より
 …盆地の周辺は標高300m内外のシラスや(れき)層の台地で,南部は霧島火山群,北部は九州山地,東と西は丘陵性の山地が都城盆地,加久藤(かくとう)盆地との境界をなしている。この地は古くは夷守(ひなもり)といわれた辺境守備の地で,《延喜式》に夷守駅の名がある。近世は薩摩藩に属し,島津氏は地頭を置いて管轄した。 
 福永説の「母離(モリ)
『古今和歌集』巻第一 春歌上  

18

 よみびとしらず
 かすがのの とぶひののもり いでて見よ 今いくかありて わかなつみてむ
 春日野の (とぶ)()()(もり) ()でて見よ いま幾日ありて 若菜摘みてむ
とぶひののもり(飛火の野守)
…飛火のは春日大社付近。飛火は、烽火(のろし)。古代に、のろしを打ち上げる設備があった。変事が発生した場合に、のろしをあげて遠方の人たちに知らせた。野守は、その番人。

 春日野の飛火の野守、外に出て見て来て欲しい。あと何日待てば、若菜が摘めるのかを。
 若菜摘みを、とにかく楽しみにしていて、待ちきれなくなったらしい、春日野の飛火の野守に調べさせ、しかも、大げさに、のろしをあげて、教えて欲しいと頼むのだから。

 漢字交じりで表記した歌の赤字を見れば、「火の守ヒノモリ)」となる。のろし台の役人だったのである。それが、『魏志倭人伝』に書かれていた副官名の「卑奴母離(ヒノモリ)」だったのである。対馬國・一支國・奴國・不弥國と4ヶ国に卑奴母離を置いていた。

 「飛火(烽火)」については、『天智紀』三年に次の記事がある。
「是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與。又於筑紫築大堤水。名曰水城。」

 これは、倭国本朝(筑紫側の王朝)の王、筑紫君薩野馬(後の天武天皇)が置いた「」である。

 防:さきもり。
 :とぶひ。のろし。

 また、倭国東朝(豊国の王朝)の天智天皇は、瀬戸内海の島々に城(今治市上浦町の甘崎(あまざき)城、高松市屋島東町の屋嶋城(やしまのき)、東かがわ市引田の引田(ひけた)城)を築いていたことを柿本人麻呂の「覊旅歌(きりょか)」から見出した。

『西日本新聞・筑豊版』に掲載
【連載】ふるさと散歩道~遠賀川編
 2007年4月28日(5回目)
烽火:急を告げる軍事通信
 烏尾峠のすぐ北に日王山(ひのおざん)があり「日の尾根の山」とも書きます。九州の「ヒ」や「ホ」がつく山には古代の烽火(のろし)伝説が多く、日王山の山頂にも烽火台が再現されています。この烽火は、どこからどこへ何を伝えるのでしょう。
 古代の倭国には、国防上の緊急事態がありました。六六三年の白村江の戦いです。滅亡した百済を再興すべく、大和政権が朝鮮半島に軍を送ったのですが、大敗し、逆に唐、新羅が攻めてくるかもしれないという存亡の危機に直面したのです。慌てた大和政権は、防人と烽火を置き、水城・大野城、長門城を築いて国防を固めたと日本書紀は伝えています。
 であれば烽火は、水城・大野城まで敵が攻めてきたときに、長門城や大和に通じる瀬戸内まで急を告げる軍事通信です。その伝達ルートは、制海権を失った玄界灘を避けなければなりません。火や煙が見える範囲でつながる高い山を選んで烽火台を造る必要もあります。そこで、遠賀川上流域の中心に位置する日王山が重要になります。
『西日本新聞・筑豊版』に掲載
【連載】ふるさと散歩道~遠賀川編
 2007年4月28日(5回目) (つづき)
 遠賀川周辺の地形で烽火通信のルートを最短距離で設計すれば、日王山を経由することになるのです。日王山は流域のほぼ中央に位置し、西の三郡(さんぐん)山からおよそ二十キロ、東の大坂山からおよそ十二キロ、双方への見通しがよく利きます。こうして日王山を使うことで、ルートが完成するのです。水城・大野城-三郡山-日王山-大坂山-高城(たかじょう)山(苅田町)-瀬戸内海。さらに戸上山-火の山-長門城へと達します。
 古代の烽火台は残っていませんが、それぞれの山には朝鮮式山城とも言われる古代の神籠石(こうごいし)遺跡があります。三郡山の大野城、日王山の鹿毛馬(かけのうま)、大坂山の御所ケ谷。烽火台を守るための拠点として防人が配置されていたのでしょう。
   (国土交通省遠賀川河川事務所長・松木洋忠)

 上記の記事を書いた国土交通省遠賀川河川事務所長だった松木洋忠氏によれば、福智町と飯塚市の境界に位置する日王山に烽火台が作られていたとある。
 この日王山が、『魏志倭人伝』に書かれている国の副官「()母離火の守)」がいた場所である。