「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 千石挟~鞍手町にかけて = 伊豫の村

※ 伊予についての記述

・上宮聖徳法王(聖徳太子)が伊予の石湯に来浴したという伝説。石湯=千石挟と思われる。

・天武紀 十三年の「白鳳(はくほう)地震」で「伊予温泉、没れて出でず。

 ⇒ 伊予は、伊予の国(道後温泉)では無い。道後温泉は、現在も温泉が出ている。

 

『日本書紀』斉明紀 七年記事
 七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女、産女焉。仍名是女、曰大伯皇女。庚戌御船、泊伊豫熟田津石湯行宮熟田津、此云儞枳拕豆
 七年の春正月(むつき)丁酉(ひのととり)(ついたち)壬寅(みずのえとら)に、御船西に()きて、始めて海路に()く。甲辰(きのえたつ)に、御船、大伯(おほくの)(うみ)に到る。時に、太田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。庚戌(かのえいぬ)に、御船、伊予の(にき)田津(たつ)の石湯行宮に泊つ。熟田津、此をば、儞枳拕豆(にきたつ)と云ふ。
『日本書紀』天武紀 十三年記事
 壬辰、逮于人定、大地震。舉國男女叫唱、不知東西。則山崩河涌。諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔神社、破壞之類、不勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時、伊豫湯泉、沒而不出。
 壬辰(みずのえたつ)に、人定(ゐのとき)(いた)りて、大きに(なゐ)()る。国(こぞ)りて男女(をのこめのこ)叫び(よば)ひて、()東西()ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舍、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壞(やぶ)れし(たぐひ)(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷(そこな)はる。時に伊豫湯泉()(うも)れて()でず。

鞍手町  新北本司 =新北津跡:(熟田津)のページへ

『日本書紀 斉明紀 七年』の三月の「磐瀬行宮に居ます。」、八月の「還りて磐瀬宮に至る」は、中間市の 岩瀬 のページへ

 

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
 (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 十一年(六三九) 七月、詔して、百済川の辺に大宮と大寺(所在不明)を造らせる。

         十二月、伊予温泉(宮若市千石峡)に行幸。百済大寺(所在不明)の九重塔が建つ。

 十二年(六四〇) 四月、伊予から帰り、厩坂宮(所在不明)に滞在する。

          十月、百済宮に遷る

 

※ 宮若歴史文化講座 伊予の熟田津の石湯  
(令和元年6月13日(木)、主催 宮若市の図書館友の会 、於 宮若リコリス(宮若市図書館) )より

 講演時のパワーポイント資料は、   こちら のページです。

 

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