「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 新説 日本書紀(第33回 飛鳥時代④/壬申の大乱)
(令和5年2月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より
「神功皇后紀を読む会」加来野 英俊氏作成のPowerPointを引用
(10)壬申の乱:開戦(7/2 ①)
7/2
近江朝廷、山部王・蘇我臣果安・巨勢臣比等に命じて、①犬上川の浜に数万の率いて②不破を襲
う為、集結。
蘇我臣果安・巨勢臣比等、山部王の裏切りを恐れ殺害、是に依り進軍出来ず。 蘇我臣果安、①犬
上浜より帰り内乱の責任を取って自害。
この時、近江の将軍羽田公矢国と子大人他同族を率いて帰順、天武は斧鉞を授けて将軍として、
北越の守備を命じた。
(是に依り近江軍は陸路が使えなくなり、又北方への退路が無くなった。天智の死にも関係する。)
* 山部王は帰順する為、一旦は大津皇子と③鈴鹿関まで来たが、何らかの理由で近江に帰ったか。
※ 10-1)犬上浜:現八幡西区三ヶ森付近(金山川上流か)
7/2
近江軍、 玉倉部邑 を急襲、不破軍は出雲臣狛を派遣しこれを撃ち追撃。