「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(香春版)

※ 真実の仁徳天皇(香春版)
 (平成二七年七月二五日(土)、香春町講演会 於:香春町コンベンションホール)より

太子菟道稚郎子が、宇治天皇として即位し3年間在位した

 『日本書紀』は、通説の学者でも偽書とか改竄の書と良く言われるが、天皇家がまとめた歴史書であるからには、
天皇家にとって都合の良いこと、都合の悪いことがあったとしても歴史そのものをそんなに歪めては書く事ないで
あろう。一つ一つの歴史は、正しいのだろう。
 但し、残念なことに『日本書紀』は、記事をあちらこちらに飛ばしたり、時間軸をずらしたりとか、また、一番
恐ろしのは、主語を入れ替えたりとかを確かにした証がある。書いてある事件自体は、8・9割は本当である。
 だから、『真実の仁徳天皇』で「民のかまど」として良く知られる故事が、『日本書紀』を元の状態に復元する
ことで、この豊前の土地の出来事として蘇った。
 『真実の仁徳天皇』(香春版)として時代順に解き明かしていく。

■ 應神天皇の皇太子(次期天皇)は、菟道稚郎子

(日本書紀 應神紀)
 即日に、大山守命に任じて、山川林野を掌
らしめたまふ。大鷦鷯尊を以て、 太子 の輔と
して、國事を知らしめたまふ。
 是の時に、天皇常に 菟道稚郎子 を立てて、
 太子 と爲たまはむ情有り。
然るを二の皇子の
意を知りたまはむと欲す。故、是の問を發し
たまへり。是を以て、大山守命の對言を悦び
たまはず。甲子に、 菟道稚郎子 を立てて嗣と
爲たまふ。
 卌年の春正月の辛丑の朔戊申に、天皇大山
守命・大鷦鷯尊を召して、問ひて曰く、「汝
等は子を愛するか」とのたまふ。
真実の仁徳天皇(豊国史)

 應神天皇の四〇年春正月に應神天皇が、大山守命と大鷦鷯尊を召し出して訪ねた。この時に應神天皇は、
一番年下の腹違いの菟道稚郎子を太子にしたい思いがあったので、菟道稚郎子以外の二人の皇子に尋ねた。

 大山守命は、長男の方がかわいいと言ったので、菟道稚郎子が一番年下だから應神天皇は、むすっとした。

 大鷦鷯尊は、父應神天皇の気持ちを推し量って、「私は、一番年下の子がかわいいと思う。」とゴマをする。
應神天皇は、それを気に入り結果として、大鷦鷯尊は太子の輔として、國事を知らしめたまふ。とあり、
大鷦鷯尊が、大山守命を出し抜く形になる。

 菟道稚郎子が太子(皇太子)になり、大鷦鷯尊は自分が年長者であるにも関わらず、太子を助ける立場に
落ち着く。だから、大鷦鷯尊は狡賢い

■ 太子菟道稚郎子は、王仁から教養習得し、また、太子としても活躍

(日本書紀 應神紀)
 二十八年の秋九月に、高麗の王、使を遣し
て朝貢す。因りて表上れり。其の表に曰く、
「高麗の王、日本國に教ふ」といふ。時に
 太子菟道稚郎子 、其の表を讀みて、怒りて、
高麗の使を責むるに、表の状の禮無きことを
以てして、則ち其の表を破る。
 十六年の春二月に、王仁來る。則ち 太子 
 菟道稚郎子 、師としたまふ。諸典籍を王仁に
習ひたまふ
。通達せざるは莫し。所謂王仁は、
是書首等の始祖なり。
真実の仁徳天皇(豊国史)

 大鷦鷯尊は、後に天皇になるが、この時は、太子の補佐の身分であり、太子はあくまで菟道稚郎子である。

■ 應神天皇から髪長比賣を賜った太子は、菟道稚郎子

(古事記 應神記)
 天皇、日向國の諸縣君の女、名は髪長比賣
其の顔容麗美しと聞し看して、使ひたまはむ
として喚上げたまひし時、其の 太子大雀命 
其の嬢子の難波津に泊てたるを見て、其の
姿容の端正しきに感じて、即ち建内宿禰大臣
に誂へて告りたまひけらく、「是の日向より
喚上げたまひし髪長比賣は、天皇の大御所に
請ひ白して、吾に賜はしめよ。」とのりたま
ひき。
 爾に建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇
即ち髪長比賣を其の御子に賜ひき

 賜ひし状は、天皇豊明聞し看しし日に、
髪長比賣に大御酒の柏を握らしめて、其の
 太子 に賜ひき。
真実の仁徳天皇(豊国史)

 應神天皇が側室として迎え入れようとした髪長比賣を皇太子が、物凄く気にいる。そこで、父應神天皇に
皇太子が自分の妻に下さいとお願いする。

 ここで、謎解きをした。
 『古事記』では、皇太子は大雀命と書かれている。前述の『日本書紀』では、明らかに太子菟道稚郎子と
書かれている。
 大雀命は、あくまで太子の補佐である。髪長比賣をもらう部分の記事だけ『古事記』は、太子大雀命となって
いる。結果として、應神天皇が髪長比賣を御子に賜ひき、太子に賜ひきとある。

 つまり、應神天皇が、自分が側室として迎えるハズだった髪長比賣を太子の願いのままに太子にお与えになった
と書いている。

 髪長比賣を賜ったのは、菟道稚郎子と大雀命のどちらが正しいのでしょうか? 『日本書紀』では、太子は
菟道稚郎子。『古事記』では、大雀命と書かれている。

 『日本書紀』では、同じ場面に「皇子大鷦鷯尊が、髮長媛を頂いた」と書かれている。

 十一年 ・・・  是歲、人有りて奏して曰さく「日向國に孃子有り。名は髮長媛。即ち諸縣君牛諸井が
女なり。是、國色之秀者なり」とまうす。天皇、悅びて、心の裏に覓さむと欲す。
 十三年の春三月に、天皇、專使を遣して、髮長媛を徵さしむ。秋九月の中に、髮長媛、日向より至れり。
便ち桑津邑に安置らしむ。爰に皇子大鷦鷯尊、髮長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に
恋ぶ情有します。是に、天皇、大鷦鷯尊の髮長媛に感づるを知しめして配せむと欲す。是を以て、天皇、
後宮に宴きこしめす日に、始めて髮長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。

 謎解きの最初は、ここにあった。
 『日本書紀』は、大義名分には深くこだわるから、皇太子は、明らかに菟道稚郎子である。皇子大鷦鷯尊が
髮長媛を賜ったと書かれている。

 應神天皇が、太子に立てたかったのは、大鷦鷯尊ではなく、菟道稚郎子である。髪長比賣を誰に授けたか?
 

 菟道稚郎子だったハズである。これが、改ざんだった。『古事記』も改ざんしている。髮長媛は、太子菟道
稚郎子の最初の后だった。

 『日本書紀』の片方だけ、『古事記』の片方だけであれば、永遠に解らなかった。『古事記』の太子大雀命と
『日本書紀』の皇子大鷦鷯尊の違いにだわったのである。大鷦鷯尊と菟道稚郎子のどちらが本物か?
 最終的には、『古事記』の「太子に賜ひき」とある太子に名前が書かれていないこれが太子菟道稚郎子であり、
髪長比賣を菟道稚郎子に授けた。だから、菟道稚郎子と髪長比賣が、結婚した。

 髪長比賣を見初めた場面の大事なことは、應神天皇の宴席に同席して、すごく美人で気にいり、父應神天皇に
お願いした。

 髪長比賣の姿を実際に見ている点を押さえて下さい。これが、後半に大事になってくる。菟道稚郎子は、宴席で
実際に髪長比賣を実際に見ているが、大鷦鷯尊はこの時点で髪長比賣が、べっぴんかべっぴんでないか知らない。
この点が、この後に物凄く影響してくる。

■ 菟道稚郎子が即位して、宇治天皇となり入った宮が菟道宮

(日本書紀 仁徳紀)
 既にして(太子菟道稚郎子)宮室を菟道に
興てて居します。
猶ほ位を大鷦鷯尊に讓り
ますに由りて、以て久しく皇位に即きまさず。
爰に皇位空しくして、既に三載を經ぬ。時に
海人有り。鮮魚の苞苴を齎ちて、菟道宮
獻る。太子海人に令して曰はく、「我天皇に
非ず。」と。乃ち之を返して難波に進らしめ
たまふ。大鷦鷯尊も亦返して、以て菟道に
獻らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還に
鯘れぬ。更に返りて他の鮮魚を取りて獻る。
讓りたまふこと前日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。
海人、屢還るに苦しみて、乃ち鮮魚を棄てて
哭く。故、諺に曰はく、「海人なれや、己が
物に因りて泣く。」と。其れ是の縁なり。
真実の仁徳天皇(豊国史)

 「宮室を菟道に興てて居します。」という表現は、『日本書紀』では粗方、即位するという意味である。
天皇に即位するという意味である。

 この一句で、東京で開催している「神功皇后記を読む会」において、会員の皆さんに真剣に諮った。これは、
どう考えても天皇即位を意味すると。
 すると私の小さな「神功皇后記を読む会」には、優れ者というか沢山の教養人がいて、『播磨国風土記』
宇治天皇」という呼称がある、とすぐに反応があった。

 『播磨国風土記』にたった一ヶ所、「宇治天皇」の呼称があり、應神天皇の太子が、菟道稚郎子であるから
即位すれば、宇治天皇となり繋がる。

 通説にも『播磨国風土記』にある宇治天皇は、菟道稚郎子を指すとある。だから、明らかに宇治天皇として
即位したからこそ『播磨国風土記』一ヶ所でも宇治天皇とあり、在位したことを確認できた。
 その宇治天皇が即位して入られた宮であるから菟道宮である。私は、その菟道宮が香春にあったと最初から
睨んでいた。その場所を後で紹介する。

 「位を大鷦鷯尊に讓りますに由りて、・・・皇位空しくして、既に三載を經ぬ。」とあり、3年間空位だと
書かれているが、私は、逆にその3年間は、宇治天皇が在位していた。したがって、皇位を譲り合ってはいない。

 太子菟道稚郎子が即位して、3年間統治していたという仮定で、物事を読み進めていった。

 次に、皇位を譲り合ったエピソードがある。海人が、鮮魚を差し上げるが、太子(菟道稚郎子)と大鷦鷯尊の
両者が皇位を譲り合っているから、鮮魚を持って行くとあちらに行け、あちらに行くと向うに行けと云われ
右往左往し、その間に魚が腐ってしました。
 鮮魚を取り換えて、また、差し上げるが同じ繰り返しで、海人が泣いたというエピソードである。

■ 大鷦鷯尊の難波高津宮と宇治宮の間にあるのが、味見峠



地図「行橋市入覚」
写真「五社八幡神社」

難波高津宮
(行橋市入覚の五社八幡神社)

真実の仁徳天皇(豊国史)

 昨年紹介した大鷦鷯尊の難波高津宮が、行橋市入覚にある  五社八幡神社 だろうと思われる。

 香春町教育委員会の野村さんが字名を追記したこの地図の古宮ヶ鼻という場所にある  阿曽隅社 は、元々、
 古宮八幡宮 があった場所である。ここに宇治天皇の宇治宮があったと思われる。
 後の時代に斉明天皇と天智天皇もこの地に菟道宮を建てられたようである。天智天皇は、この宮で白村江の
戦いの後、唐の兵士を閲兵したと『日本書紀』に書かれている。



「味見峠の由来」
地図「味見峠」
真実の仁徳天皇(豊国史)


地図「香春町古宮」
写真「阿曽隅社」

宇治宮
(香春町古宮ヶ鼻の阿曽隅社)

真実の仁徳天皇(豊国史)

 行橋市入覚にある五社八幡神社と香春町古宮ヶ鼻の阿曽隅社との間に  味見峠 がある。その味見峠の地名の由来が、
『仁徳紀』の海人が魚を献上した時の伝承だとやっと解りました。

 味見峠の案内看板に書かれている味見「アジミ」の由来の一つに採銅所中野に魚市場があったことから京都郡
豊前海の新鮮な魚介類が人の背によって運ばれ、峠で鮮度や味見をしたこと
とあるこの説が当っていると思うが、
説の元は『仁徳紀』の伝承でしょう。

 『仁徳紀』の伝承で、歩いて往復する間に魚が腐ったという距離から逆に宮を捜した。逆転の発想だった。味見峠の
名前は、この伝承からでしょう。この伝承が、本当の事実がどうかは解らない(保証はできない)が、『日本書紀』に
この伝承が採られて、ここの地元の先祖の方が、味見峠と名付けた。平安時代・奈良時代よりずーっと前であると
思っている。
 著書『真実の仁徳天皇』を書いた後に気が付いたので、この味見峠については、載っていません。