「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ ヤマトタケルの負けた理由
 (平成30年12月15日(土)、主催:田川広域観光協会、於:福智町金田分館)より

 ヤマトタケルの負けた理由

■ 景行天皇は狗奴国王の卑弥弓呼であり、日本武尊とは親子ではない

● 臺與(とよ)の時代になっても狗奴国王の卑弥弓呼は生きている

・・・ 卑弥呼が亡くなった後にまた、「死更立男王、國中不服、更相誅殺」とあり、卑弥呼の宗女臺與を
   立てた。その臺與は、13歳である。この後、晋という王朝に遣いを送ったのが、西暦266年である。
    卑弥呼が亡くなった年が、西暦248年であり、西暦266年頃の臺與の時代にも狗奴国王卑弥弓呼は
   まだ生きている。

二代女王臺與(とよ)
卑彌娥惑翻叶群情臺與
幼齒方諧衆望
 後漢書曰安帝永初元年、有 倭面上
國王師升
至。
 桓・遷之 間、倭國大乱、更相攻伐、
歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼、死更立男王、
國中不服、更相誅殺
、復立卑弥呼
宗女臺與、年 十三爲王、國中遂定。
 其國官有 伊支馬、次曰弥馬升、次
曰弥馬 獲、次曰奴佳鞮之也。
(翰苑)
(謝承後漢書)

 

● 景行天皇は、宮崎か熊本から倭国へやって来る

・・・ 『日本書紀』にある景行天皇(大足彦忍代別天皇)の出発地が子湯県とあり、宮崎県児湯郡・西都市の
   辺りである。景行天皇18年6月に阿蘇国に到るとある。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
十七年春三月、子湯県(宮崎県児湯郡・西都市)
   に幸す。
(日向国起源譚)
十八年春三月、天皇、(豊前国)に向さむと
   して、始めて夷守(宮崎県小林市)に
   到る。
 夏四月、熊県(熊本県球磨郡・小林市)に
   到る。海路より葦北(葦北郡・水俣市)
   の小嶋に泊まる。
 五月、葦北より発船して、火国に到る。
(八代県の豊村、不知火
   →火国の起源説話)
 六月、高来県(長崎県島原半島)より、玉杵
   名邑
(熊本県玉名郡)に度る。
   阿蘇国に到る。
(景行天皇紀)

 

・・・ 『日本書紀』では、景行天皇が菟狹川上の鼻垂、御木川上の耳垂、高羽(田川)川上の麻剥、
   緑野川上の土折猪折を誅伐した事となっている。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
 十二年秋七月、
 爰有 女人 、曰 神夏磯媛 、其徒衆
甚多、一國之魁帥也。聆  天皇 之使者至 
、則拔 磯津山之賢木 、以上枝挂 八握
劒 、中枝挂 八咫鏡 、下枝挂 八尺瓊 
、亦素幡樹 于船舳 、參向而啓之曰「願
無 下兵 。我之屬類、必不 有 違者 
、今將歸德矣。唯有 殘賊者 、一曰 
 、妄假 名號 、山谷響聚、屯 結於
菟狹川上 。二曰 耳垂 、殘賊貧婪、屢
略 人民 、是居 於御木川上 。三曰 
麻剥 、潛聚 徒黨 、居 於高羽川上 
。四曰 土折猪折 、隱 住於緑野川上 
、獨恃 山川之險 、以多掠 人民 。

 

景行天皇は、狗奴国王の卑弥弓呼ではないか

・・・ 中九州の豊後街道が、全国で最も多くの弥生時代の鉄の矢尻を出土している。景行天皇紀に書かれている
   阿蘇も含まれる。
    方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡から鉄鏃が一番多く出土している。景行天皇は、この土地から田川の
   地に入って来ている。

    だとすれば、景行天皇は、卑弥呼を破った狗奴国王の卑弥弓呼ではないかというのが、私の仮説である。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 中九州に豊後街道がある。この街道こそ
弥生時代の鉄鏃(矢尻)」が全国で最も
多く出土し
た道である。
 この東端
から景行は
豊国を北伐
した。
 景行
弥「弓」呼

かもしれな
い。
地図「熊本県の鍛治遺構」

● 邪馬台国と狗奴国の国同士の争いに鉄鏃が使われた

・・・ 1991年に奥野正男氏という考古学の先生が調べた鉄鏃の出土数の分布である。銅鏃もある。
   熊本県から大分県にかけて多く出土している。田川の辺りは少ない。
    阿蘇の辺りからも吉田正一先生が発掘されているので、現在では熊本県の方が福岡県より鉄鏃の
   出土数が多くなった。これは動かぬ事実である。

地図「北九州の主な鉄鏃・銅鏃出土地」

 

・・・ 1991年の奥野正男先生がまとめた鉄鏃の出土数の表である。福岡県も多い。熊本県は、これよりも
   更に多くなった。大分県も多い。

表「弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の地域別出土数」

 

・・・ 上の表の右半分である。奈良県は、弥生時代の鉄鏃は2個であり無いのに等しい。

    鉄製品(鉄鏃、鉄刀)の用いた国同士の争いが、邪馬台国と狗奴国であるならば、奈良県で起きた訳が
   絶対に無い。これを邪馬台国近畿説の学者は、無理やり邪馬台国が無い所をあったと言っているだけである。
    弥生時代の鉄鏃が多く存在するのは、福岡県・熊本県・大分県である。

表「弥生時代の鉄鏃(銅鏃)の地域別出土数」

 

● 景行天皇は、宇佐から田川へ北上してきた

・・・ 景行天皇は、田川の土地に来ている。その景行天皇吾勝野と称した土地を二村に分けた。
   英彦山に近い方が上で、上を津野、下を阿柯となった。これが赤村の起源である。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
 赤村はもと上赤、下赤、山浦、大内田、
小内田といった5カ村を合併したもので、
上赤、下赤、本村はかつて吾勝野といって
いた。
 太古において吾勝山上(現在の岩石山)
天祖吾勝尊が天降ったということから
起因して、この山の東麓一帯の野を吾勝野
と称したのである。
 それが景行天皇の時、田河の川上にいた
土蜘蛛麻剥の残賊を誅滅の後、この山上の
吾勝尊の神社に奉賽されて遠く東麓を望み
この麓は沃土南北に連なって狭く長い
ため、自今二村を形成するがよかろうと
いわれたので、これより上を津野といい
下を阿柯と称した。
 のち阿柯を上赤、下赤の二村に分けた。
(田川産業経済大鑑
 三七三頁~三七五頁)

 

・・・ 景行天皇は、火国か宮崎のどちらかから来ている。宇佐から香春へ、香春を倭と書きました。
   『日本書紀』では、神夏磯姫が帰順したと書かれている。

景行帝の北伐路(一)

Google Earth「宇佐市から田川市・香春町」

 

● 景行天皇が征伐したとされる土折居折は、本当は日本武尊が征伐した

・・・ 日本武尊が征伐した熊襲を、『古事記』では、熊曾建兄弟と書いている。ところが『日本書記』には、
   川上梟帥と書いている。
    先ほどの景行天皇が誅伐した熊襲がいた場所は、xx川上(菟狹川上、御木川上、高羽川上、緑野川上)
   という事は、川上梟帥である。

絵「ヤマトタケルと熊襲建、川上梟帥」

 

・・・ 緑野の川上については、『添田町史』に「緑川の話」がある。ここでは、景行天皇が土折居折を倒した
   のではなく、日本武尊の軍勢が彦山川の上流に勢力を持つ土折居折の軍を破って、その辺り一帯が血みどろに
   なり、血みどろ川と呼ばれるようになって、それが訛って緑川になったという。
    添田町史にある日本武尊が、土折居折を破った話は、田川市猪膝にもある。土折居折を切った太刀を洗った
   という太刀洗の井戸が、町の出入口の道路そばにある。

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
景行天皇
 ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛に
ついては、日本書紀と異なる現地伝承が
ある。
 「添田町史」の「緑川の話」である。
 景行天皇の皇子日本(やまと)武尊(たけるのみこと)の軍勢が、
彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍
を破って
、血みどろ川と呼ばれるように
なったという。
 土折居折が日本武尊から討たれたとい
う話は田川市猪膝にもあり、土折居折を
切った太刀を洗ったという太刀洗の井戸

が、町の出入口の道路そばにある。

 

・・・ この  猪膝 にある太刀洗の井戸の少し先に白鳥神社がある。日本武尊が祀られている。
   『日本書紀』では、景行天皇が土折居折を征伐している。ところが、田川市猪膝の伝承は、日本武尊が
   土折居折を征伐したとなっている。

    これは、田川の伝承の方が正しいと決断した。土折居折は、最初に景行天皇が攻めてきた時に
   勝てないと思い帰順した。簡単に倭国を裏切った。田川の土折居折は、裏切り者である。
    この後に日本武尊が出てくる。そして川上梟帥(土折居折)が日本武尊に征伐されたのではない
   だろうかという微妙なストーリーが、この田川の土地にある。
    何故、景行天皇と日本武尊との主語が入れ替わるのか?この二人はひょっとして、同じ敵を征伐
   している。どちらかが征伐したに決まっている。
    日本武尊が征伐したとすれば、どう考えても景行天皇と日本武尊は親子では無い。

豊前猪膝宿南構口跡
     および大刀洗の井戸
「写真」

 

● 景行天皇が行宮を建てた所が、御所ヶ谷神籠石である

・・・ 景行天皇は、豊前国長峽縣にやって来た。更に小倉南区の來田見邑に行く。その小倉南区には、内側に
   弁柄が塗られた棺が出土している城野遺跡、重住遺跡等がある。

    景行天皇は、田川を抜けて行橋まで来て、そこに行宮を建てられた。だからそこを名付けて、(みやこ)
   というのが、今日の京都(みやこ)郡、みやこ町の名前の起こりである。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
 天皇遂幸 筑紫 、到 豐前國長峽縣 
(行橋市長峡)、興 行宮 而居、故號 
其處 曰 也。  
 卽留 于來田見邑 (小倉南区朽網)
權興 宮室 而居之。仍與 群臣 議之曰
「今多動 兵衆 、以討 土蜘蛛 。若其
畏 我兵勢 、將隱 山野 、必爲 後愁 
。」則採 海石榴樹 、作 椎爲 兵。因
簡 猛卒 、授 兵椎 、以穿 山排 草
、襲 石室土蜘蛛 而破 于稻葉川上 、
悉殺 其黨 、血流至 踝。故、時人其作 
海石榴椎 之處曰 海石榴市 (行橋市椿
市)
、亦血流之處曰 血田 (小倉南区津
田)
也。復將 討 打猨 、侄度 禰疑山 
(小倉南区貫山)

 

・・・ 景行天皇は、  御所ヶ谷神籠石 に入った。

御所ヶ谷神籠石 = 景行天皇の京(京都郡の起源)

写真「石垣(百磯城)」
大坂に 継ぎ登れる 石群を
 手遞傳に越さば 越しかてむかも (崇神紀)

 

Google Earth「福岡県行橋市から北九州市小倉南区周辺」
 景行帝の北伐路(二)
大足彦忍代別天皇の豊国北伐

 

・・・ 景行天皇は、柏峽大野に来た時の柏葉の如く舞ったと言われる蹈石の遺跡が、  帝踏石 である。

大足彦忍代別天皇の豊国北伐
 天皇、初將 討 賊、次 于柏峽大野 
、其野有 石、長六尺・廣三尺・厚一尺五
寸。天皇祈之曰「朕得 滅 土蜘蛛 者、
將蹶 茲石 、如 柏葉 而舉焉。」因蹶
之、則如 柏上 於大虛 。故、號 其石 
曰 蹈石 也。

(景行天皇紀)
日向または肥後の国から出た大帯日子命
 (卑弥弓呼)
は、火国を北上し
 宇佐 → 御木(豊前市) → 高羽(田川)→
 緑野(添田町小緑) → 來田見(北九州市
 朽網)と明らかに豊国北伐を行っている。
帝踏石(北九州市小倉南区朽網西二―二八)
 が現実に存在。

 

「写真」

帝踏石(北九州市小倉南区朽網西2-28)